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稲村月記 vol.11  高瀬がぶん

微冒険シリーズ・その2

「ここを過ぎて悲しみの市」の巻

          

このタイトル「ここを過ぎて悲しみの市(まち)」だけを見れば、あるいはダンテの「神曲」を思い起こす人もいるかもしれない。しかし、その下の写真と合わせて読み取れば、これが、太宰治の「道化の華」の冒頭の引用だと気づく人も少なくないと思われる。
昭和5年(1930)、11月28日夜、当時22歳だった津島修治は、写真の右手に見える小動(こゆるぎ)崎の岩場で、銀座のカフェの女給、田部あつみ(19歳)とカルモチンという睡眠薬を服用して心中を図った。
その岩場というのは通称「畳岩」と呼ばれる場所で、今回の微冒険ではその現場を見に行ってみよう、というものである。

ちなみに、昭和5年11月30日付の東京日々新聞には、
「帝大生と女給が心中」という見出しで、
次のような記事が載っている。


「鎌倉発。相州腰越小動神社裏海岸二十九日午前八時頃若い男女が催眠剤をのみ倒れているのを発見、七里ヶ浜恵風園療養所に収容手当の結果、男は助かったが女は死亡した。男は青森県金木町朝日山四一四津島文治弟で、東京市外戸塚町諏訪二五○常盤館方帝大文学部仏文科一年生津島修治(二十二)女は銀座ホリウッドの女給田邉あつみ(十九)で、女が男の病気に同情し情死したものである。」

2002年3月11日


具体的にそこがどこか、話だけは知っているものの実際に見たことはない。となれば、まずは地元の漁師さんに取材するしかない。
小動の浜に貼りつくようにして建っている漁師小屋にまずは足を向ける。ここは「釜揚げしらす」でも有名な場所である。



小屋に入り、漁師のオヤジさんに尋ねてみる。
「オヤジさん、畳岩っていうのはまだありますか?」
「おう、なんだ、、あの小説家の話か?」
「えー、まあそんなとこで」
「あるけんどよー、もうだいぶ侵食されちまって、ほら、あーやってな、テトラ埋めてるんだけど、それでも侵食が止まらねぇ。んでもまだいくらか跡は残ってるよ」



「そーですか、こっち側から歩いて行けますかねぇ?」
「さーな、ちっと無理かもな。潮が引かねぇとな」
さてどうしたものかと思案していると、そこにおかみさんがやって来て、オヤジさんに向かってこう言った。
「そーいえばあんた、あれだねぇ、2年ほど前に太宰治の娘さんが訊ねて来たよね」
「お、そうそう、おやじさんがあんなことしちまった場所を見てみたいとか言ってな」
ボクはちょっと驚いて、どちらにともなく尋ねた。
「へー、ひとりで来たんですか?」
それに答えたのはおかみさんのほうだった。
「いやそうじゃなくて、NHKテレビの人たちと」
「なるほど、そうでしたか。それにしても、娘さんていうと母親は誰になるのかなぁ?」
「さー、名前は知らないけど、とにかくあの玉川で心中しちゃった人じゃなくてさ、なにしろあの男はあれでしょ、あっちにもこっちにもって・・・・まあ、どうしようもない男だよねぇ。とにかく、お妾さんの子供だって。自分が生まれたばっかりの時に父親が自殺しちゃったんで、まったく覚えてないって言ってた」
ボクの知る限りの知識で、
「そーかぁ、たしか自殺する前の年に愛人だった太田静子って人が太宰の子供を産んでいるんですよ。となると、その人はその太田静子さんの娘さんってことになりますねぇ」
「あー、そうかも。そんなことを言ってたような気もするわ」
「そーだ、その人の娘だよ」と、オヤジさんも同調する。
 「ところで、太宰はなぜこの場所を選んだんですかね?」
「そりゃおめぇ、景色がいいからだろうよ」
おかみさんが補足するように、
「二人して薬飲んで寝っころがって、人生最後の江の島や富士山を眺めたかったんじゃないのかねぇ」
「・・・・なるほど」
ボクは「たしか夜中の出来事だったはずだけど」という無粋な言葉を呑み込んだ。



2ページへ続く