おそらく、保坂ファンが初めて接するタイプの小説です。
保坂和志が小説家としてデビューする前の作品であり、
少なくとも2008年までは出版することはありません。
(作品の書き出し) ヒサと会えなくなったことを今でも悔やんでいる気持ち、けっしてそれを現 実とし て受け入れられないなんて思っているわけではなくて、ぼくはそれが現実であること を知っているけれど、今でも、そうならなくてそのままつづいていたヒサとの現実が もうひとつあったことを夢見ていて、ヒサの部屋で朝起きたときにまずはじめにかか っていたシンディ・ローパーを部屋でひとり繰り返しかけてヒサとの時間がからだの なかでひろがっていくときを願うのだけれど、ヒサの部屋で聞き馴れたシンディ・ロ ーパーはそんな幸福なときは絶対にもたらしてくれず、ただぼくの心と背中の境がシ ンディ・ローパーが歌うのを聞きながら嗚咽するように震えるだけで、それはヒサと会えなくなっていく最中(さなか)にヒサを身近に感じたくてそれをかけな がら、もうヒサと会えなくなっている現実を受け入れがたく同時に会えなくなっていることをよく知っている心が、シンディ・ローパーが歌うのを聞きながら震 え出したその記憶なのだけれど、それでもからだがそうなることは何がしかヒサをまったく失わないでいられたこととして、その震えさえもが心地よいことと感 じられ、ぼくはそれを長い あいだ反芻していた。
メディア未発表の保坂和志の小説
「ヒサの旋律の鳴りわたる」(70枚)を
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著者自身による「ヒサの旋律の鳴りわたる」の解説
「ヒサの旋律の鳴りわたる」「猫に時間の流れる」――「の」の使い方が同じですねえ。この一点からだけでも、「ヒサ の……」についての作者の思い入れの深さが知れようというものです。そしてたとえば、がぶん氏が抜粋したスーパーエロ小説のようではないところで、 「べッドの端に手をついてすこし前屈みになるときにヒサの胸が垂れて乳輪が押し広がるのを見るのが好きだった。そのときヒサの胸は、おそらくもっとずっと 若くてからだ全体に張りがあったときには絶対なかっただろうような仕方で、乳房が大きさをかえずに下にある何かに吸われるように円筒形をして伸び、それま であった弾力が何もなくなってしまい指で圧したらそのままへこんでもうもどらなくなりそうな柔らかさに見え、伸ばされた乳房の中程よりも先の方に量感がで きて乳輪が大きく広がる。ヒサのその胸を見るのが好きで、そのたびに「かなしい」という言葉を思っていた。別に悲しいのではなくて、それはヒサがかなしい のではなくてぼくがかなしいのでもなくて、あのときヒサとぼくが一緒にもっていた時間があってその時間がたえずさらさらと流れつづけている、それがあのか なしいもののずっと奥にあるものでいつもはそんなこと思っていないし何の現われもないのに、ヒサの胸が垂れて大きくなり乳輪が広がるそのときだけ知らない でいたものが見えてきてしまう。……」 と書いている箇所は、私が『プレーンソング』以降で書いた唯一のセックスのシーン、そう『草の上の朝食』で、工藤さんとやったあとで感じたこととして書か れていることが、ほぼそのまま書かれています(これにさらに原型があったということは、『生きる歓び』所収の「小実昌さんのこと」に書きました)。 とにかくこの小説は、愛とはセックスであり、セックスとは愛である、ということをひたすら書いている話で、ここで言うセックスとは精神ではなくて肉体です が、思えば肉体への度を越したこだわりは、すでに『揺籃』にも現われているわけですし、もっと思えば『プレーンソング』以降の皆さんが知っているすべての 小説も、「いま、ここにいる」ということへの徹底したこだわりという意味で、私の関心はずっと一貫して肉体なのです。雑誌「世界」の10月号で全12回の 連載が完結する「世界のはじまりの存在論」というハードエッセイも、後半、ひたすら「〈私〉のこの肉体が存在するということは圧倒的に言語的記述を超え る」ことについてになってしまいました。私にとって、〈人間の肯定〉とは“〈私〉のこの肉体を肯定する(発見する)こと”なのです。〈私〉とは同時に、 〈あなた〉であり〈彼〉であり〈彼女〉である――というか、〈私〉よりさきに〈あなた〉〈彼〉〈彼女〉がいるということもこの際、書き添えておくことにし ます。 だから私の書くことは、一見どれだけ思弁的に見えても、どれも徹底的に即物的なのです。だから、私の書くことに思弁的な批評を加える人は、思弁も即物も知 らない、つまり“生きる歓び”を知らない人、ということになるわけですが、それはともかく、この『ヒサの旋律の鳴りわたる』は、かなしみも時間も追憶も、 すべてが肉体の次元に還元されていく、というものすごく美しい小説で、美しさもまた当然、肉体の次元に還元され、読後感もまた肉体の次元に還元されること でしょう。 あ、そうそうこれを書いたのは、1985年の11月頃で、当時私は29歳。西武百貨店のカルチャーセンターの講座企画者でした。「こんなすごい小説、文 芸誌の人間にわかるもんか」と思っていたことは、言うまでもありません。