「揺籃」は1980年の6月から7月にかけての1ヵ月間で書いたと記憶しています。当時、私・保坂は23歳で大学6年目で、バイト先と飲み屋の往復を日課としていました。バイト先は、水道橋にあった「声の教育社」という中学・高校受験の参考書会社で、飲み屋は花園神社脇の「諾諾(ういうい)」という店でした。ま、そんなことはどうでもいいのですが、当時私はフィリップ・K・ディックとベケットにはまっていて、ベケットの語り口でディックを書くことにしました。ディックはその後、皆さんご存じの教祖的な作家になってゆくわけですが、あの頃はまだ数冊しか翻訳が出ていなくて、私は友人のSFマニアからスタニスワフ・レムと並んでディックを教えられ、中でも『ユービック』と『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』の2つにぶっ飛んで、一人の人間の精神の力によって世界が歪んでしまうタイプの話を書きたい、と思ったわけです。それがこの「揺籃」です。
「揺籃」は、わずか23歳のガキが書いたと思えないくらいに素晴らしい小説ですが、西武百貨店に就職して、そこで私の先輩社員(のちに上司)だった、文芸誌の編集者から転職してきた人に見せたら、「こういう小説をおまえが一生書いていきたいと思うんだったら、おまえは就職していてよかったよ、としか俺は言えない。読み終わるのが苦痛だった」と言われ、25歳だった私は1週間くらいショックを受けたのですが、そこから覚めてみると、彼は「群像」に載った『さようなら、ギャングたち』についても「こういう小説は新人賞の下読みでうんざりするほど読まされてるんだよな」と言っただけで、つまりは私小説かエンタテインメント小説かのどちらかしかわからない人間だったわけで、「わからない」とは怖るべきもので、「自分にそれを正当に評価できる基準を持っていない」ということがわかっていないのです。 その後、「揺籃」は、ドゥルーズの翻訳・紹介で有名な×××一さんや、フロイト、ラカンの研究であまり有名じゃない×××樹さんから、最大級の賛辞をいただき、「どうしてどこかの文芸誌に送らないんだ」と言われましたが、私は「だって、文芸誌の編集者なんて、ディックとかベケットとかレムとかちゃんと読まないじゃん。読んでたら、あんなにつまらない小説ばっかり載せるわけないじゃん」と言って、その道を拒んでいたのでした。相手がバカとわかっていても、落とされたらやっぱりむしゃくしゃするしね。 いま思うと、80年当時まだ生きていた寺山修司だったら面白がったかもしれません。寺山に認められたりしたら、一躍時代の寵児になっていたかもしれませんが、私はあの頃、犬は大好きだったけれど猫には関心がなかったので、いまのような経過をたどることができて本当によかったと思っています。小説書いて評価されたりすることより猫と暮らせることの方が幸せだものね。それに12年半の会社勤めのうちの7、8年は思想書中心に本を読んでそれについて書いている人たちと会いつづけていたわけで、あの期間がなかったら、正直言っていまの私はなかったでしょう。寺山のついでに、「生きていた」と言えば、80年当時、ディックもベケットもまだバリバリ?生きてました。隔世の感がありますね。 この小説は、友人たちと出した『NEWWAVE』という同人誌の2号のために書いたものですが、『NEWWAVE』は1号だけで終わりとなりました。メンバーには、『聖(さとし)の青春』という将棋青春闘病小説で新潮学芸賞をとった大崎善生や、雑誌「SPA!」とかで変態エログロ趣味寄りの文章を数多く書いている松沢呉一や、無理矢理私にメンバーに誘い込まれた映画監督の長崎俊一なんかがいました。 同人誌の2号のために書いた、ということは、“幻の処女作”であるはずの「揺籃」にはさらにそれに先行する“さらなる幻の処女作”があるということですが、私はれっきとしたプロの小説家であり、それが発表に耐えるものてあるかどうかは、正しく理解しているので、“さらなる幻の処女作”が今後どこかに発表されるということは決してありません。デビュー以前に書いた小説で発表に耐え、読まれることに耐え、それに対して金銭の動きが発生するのに耐えるのは、この「揺籃」と「ヒサの旋律の鳴りわたる」の2作だけです。 もう1作、「グノシエンヌ」という70枚ほどの小説があり、その一部分はかつて「群像」に掲載されたことがあり(96年10月号だったかな)、今回の『明け方の猫』を編むにあたって、その「グノシエンヌ」も収録しかかったのですが、ゲラ刷りの段階で2度読み返してみて、老人に対する視点が紋切り型であると同時に若干の差別か軽蔑の感情が混じっていると思い、収録をとりやめにしました。したがって、「グノシエンヌ」という小説も今後発表されることはないと思います。 |