『プレーンソング』
『プレーンソング』の前半を書きはじめた1987年2月、私はすでに30歳になっていた。勤め先の西武百貨店では入社時の予定通り、出世コースに乗っかっているわけではなかった。もともと私が西武百貨店を選んだのは、■暇、■給料が安い、の2つの条件が揃っていたからで、「暇で給料が安ければ、飲み歩かずに小説を書くだろう」と考えたからだったのだけれど、安いと言っても結婚もしていなければ当然子どももいないので自分1人の飲み代ぐらいはわけがなくて、81年に入社して以来、私は週に5日のペースで飲み歩いていて、おとなしく小説を書いている暇なんかなかったし、『ヒサの旋律の鳴りわたる』のように何年かに1度やってくる「あ、書きたい」という衝動のほかに書きたいこともなかった。しかし何しろ西武は給料が安いので、このまま会社にいても一生ろくな生活はできない。結婚して妻子を養うこともできないかもしれない(じゃあ、小説家になればそれが可能か? というのは、また別の問題)。それに何より、30歳をすぎて、講座の企画のために新しいネタを追いかけることが面倒くさくなっていた(「面倒くさい」というのは私の人生のキーワードかもしれない)。 で、まず酒を飲み歩く習慣をやめることにした。毎日毎日、3時間も4時間も酒を飲んでしゃべってるなんて、ホント時間の無駄なんだから。で、「酒を飲み歩く習慣がなくなった男」というのが、自然と主人公のイメージとなった。私は『プレーンソング』以降も、ストーリーではなくてこういうところで、直近の願望を小説に入れることが多い。収入(安月給)の問題もいつも頭から離れていなかった。でも、カネというのは持ったことがなかったので、あったらどういう風に使うのか、イメージがなかった。でも「大量にあったら、長崎俊一の映画の制作費を出したりできるよな」という、現実とかけ離れた空想だけはあって、それが「1人で住むには広すぎる部屋にいろいろな人間がやってきて住みつく」という、小説の枠組みになっていった。 そんなときに、87年の4月から飼いはじめて、溺愛していた猫が猫ジステンパーという大変な伝染病にかかってしまい、結果は、2週間の必死の看病の末に助かったのだけれど、私は看病しているあいだについ思ってしまった「もし死んだら……」とか、生きて病気と闘っている(?)猫を目の前にして、すでにまるで死んでしまったあとみたいに、子猫でかわいかった日々を回想している、この自分の気持ちのネガティヴな動きを一掃するような、不幸や不安の予感のかけらもないような小説を書こうと考えた。 「不幸や不安の予感のかけらもないような小説」というのが“文学”と認められるかどうか、私は本当にまったくわからなかったけれど、私はそういう小説を書く強い義務感のようなものを感じた。ま、そういう「義務感」のような妄想による高揚がなければ小説なんてなかなか書きはじめられるものではないということなんだけど……。友人の女優の室井滋は、霊的な力というか、科学で説明できない力をとても信じているけれど、たった1人で何人か何十人か食べさせるなんて、バイトなんかしていたんじゃあ絶対無理だったことが、芸能人になって有名になったら可能になってしまう――そういう境遇にいる人間が自分1人の力を超えた力があると思いたくなるのは、当然と言えば当然のことで、それとどこまで同じかわからないけれど、「ほめられたい」とか「見直されたい」なんて根性で小説が書けるわけがなくて、小説とはやっぱり「義務感」や「使命感」で書くものだと思う。私がこんなことを書くと、すぐに「ご立派なことで……」と、にたにた笑って言う人がいるけれど(評論家や小説家に)、そういう相手の顔色をうかがったり足を引っぱったりするような薄汚い世渡り根性は、30歳になったときにはすでに私にはなくなっていた。もっとも私は子どもの頃から、そういう“世間知”をまったく理解せずに育ってしまったのかもしれないが。映画にもなった小説『シェルタリング・スカイ』の作者のポール・ボウルズの奥さんで精神病院で後半生を送ったジェイン・ボウルズという作家が『ふたりの真面目な女性』という小説の中で主人公の女性にこう言わせている。 「楽しいからやるんじゃないの。必要だからやるの」 だから『プレーンソング』には、神の恩寵が満ち満ちている。神の恩寵がなくてどうしてあんなちんたらちんたらした日々を送ることができるだろうか。しかし同時に、登場人物の全員は「義務感」によって生きている(「義務感」は「神の恩寵」にとても近いところにある)。世間や社会に対する「義務感」ではなくて世界に対する「義務感」だ。私はそういう人間のことだけが好きだから、自分の好きになれる人間ばかりを登場させたら、知らず知らずのうちに全員が世界に対して強い「義務感」を持っている人間になってしまった――ということで、すべてを私が計算して書いたというわけではない。というか、私には書くときに計算は全然ない。この辺の「書くという行為」と「無意識の作用」の関係は、HP上で連載する小説論の中で書きます。長くなるので、いまここでかいつまんで書くことはできません。 アキラのモデルはU君(本人が名前を出してほしくないらしいので、U君としておきます)。U君は長崎俊一を中心とする映画のやつらの集まりに学生服姿で突然登場した。当時16歳? 言動がまったく社会化されていず、相当おかしなやつらのことも平然と眺めていた女の子たちですら、U君をなんとも言えない、もうまさに“判断停止”の目で見ていたのが忘れられない。が、俗っぽさここに極まれりという人間でもあって、70年代以降のアイドルに異様な執着を示し、アイドル写真集が実家の八畳間の床から天井までぎっしり積み上げられているという話もある。そのU君がいつの頃からか、長崎俊一や山本政志の映画の脚本や蜷川幸雄の芝居の台本を書くようになり、この夏に公開された阪本順治の『顔』の脚本も阪本と共同で書いた。U君も当然すでに30代の人生に突入している。しかし出会った頃とどこも変わっていず、当時からつきあいのある人間は全員いつも、「あいつもどうするつもりなんだろう」と言っている。 島田のモデルは森永憲彦。森永の経歴はほぼ小説に書いてあるとおり。小説にもあるとおりの「寿荘」というぼろぼろのアパートに『風たちの午後』という上映と同時にカルト化した16ミリ映画を撮った矢崎仁司を頼って住み着いて、森永が1週間ワイシャツを着替えないという話を矢崎さんから聞いたのは、小説を書く1年前だったか半年前だったか。とにかく私は感動した。こんな変なやつがいるのかと思った。『プレーンソング』を引っぱるのはアキラだけれど、支えているのは島田だ。森永は確かいまではコンピュータのソフトの会社を自分でやってるんじゃないの? 数年前にけっこう顔の似た奥さんと結婚して、いまでは子どももいる。 競馬陰謀説の三谷さんのモデルは、石原敏孝さん。石原さんは、西武の系列のリブロポートという出版社で編集をしていて、なかなか人好きのしない性格なので回りから煙たがられていたが、小説にもあるとおり、私とはとても気が合って競馬の話を週に最低でも1回、多いときには3回ぐらい会って、天文学的な倍率になる馬券の予想ばっかりしていた。“超人願望”というのが本当にあるとしたら石原さんのことで、石原さんは、いまでも一番強い人間になって一番高い場所から世界のすべてを見渡したいと思っている。もう50歳をすぎてるんだよ。すごいよね。 一緒に競馬場に行く石上さんのモデルは、大学の3年先輩で、本当に毎週一緒に競馬場に通っていた、リクルート映像勤務の岩見良二さん。石原さんが「女にもてたい!」という願望をひたすら実現しようとするのに対して、岩見さんはもてそうになると逃げる。まわりのみんなはだから岩見さんは一生結婚しないんじゃないかと思っていたが、35歳ぐらいで結婚した。岩見さんの世界観は、「世の中そんなうまい話ばっかりあるわけない。うまくない話でもちゃんと乗っかって、ちゃんと損する。それが人生だ」というもので、“超人願望”から最も遠い。しかし、普通の人間にこんな世界観は持てない。 以上の4人がはっきりとしたモデルがある、というかほぼ実在の人間そのままに書いた登場人物。それに対してゴンタは、学生時代に映画のことや小説のことをひたすらああでもないこうでもないと考えつづけていた保坂自身にゴダールをブレンドしてみたという感じ。映画監督の長崎俊一とは中学からの同級生で、教室の人気者についついなってしまう保坂と正反対に長崎はごく限られた仲間としか打ち解けないタイプの子どもで、私は「なんて暗いヤツだ」と思っていたので、口をきくようになったのは確か中学3年の終わりだったと思うけれど、それはともかく、長崎を見ているとつくづく映画とは行動力だと思う。ああでもないこうでもないと考える前にアクションを起こせるような人間でなければ映画を作ることはできない。映画にはカネがいるし、脚本がいるし、スタッフがいるし(そこまでが撮りはじめる前段階)、撮りはじめればつねにスタッフとキャストを統率しつづけなければならない。私はそういう長崎のことを学生時代、脱帽して見ていつつも、圧倒的に行動から遠いタイプだったので、やっぱりひたすらああでもないこうでもないと、映画や小説について考えつづけていた。いま思えばそれもまた一つ立派な「行為」なのだけれど、とにかくゴンタにはそういう私のああでもないこうでもないが濃厚に反映している。 では『プレーンソング』の女性たちは、というと、はっきりしたモデルのいる人物は一人もいない。電話の相手のゆみ子は「電話」。人は直接会って話すのと電話で話すのとではかなり違う。それも20代の男が夜に女の子と電話で話すとき、会話は会ってしゃべっていたらまあ絶対にならないだろうような雰囲気になる。何しろそこには直接触れることのできる肉体がない。あったらそんなじっくりとした会話にはならないだろう。私は相手のことを何度も「なんていいことをいうヤツなんだろう」と感心した。しかし会って話すとやっぱりそんなに優しくもおおらかでもなくて、私はと言えば、相手の言葉をじっくりと聴くより体がうずていた。相手もきっと、「この人は、電話と会うのとで、なんでこんなに違うんだろう」と思っていたに違いない。そういう20代の私の電話の経験がゆみ子になった。 よう子となるともっと難しい。すっごい古い話で恐縮ですが、1971年だったか、テクニクスのボスターでいきなり大ブレイクした栗田ひろみという子を憶えている人ならわかりやすいんだけれど、都電の踏切をバックにセーラー服でただ立っているポスターがあって、あのときの栗田ひろみがものすごくかわいかった、ということとはまた別に、たぶん男の子たちはみんな、「この子はいつもどんなことを考えているんだろう」と考えた瞬間にすでに、自分が期待する感受性や思考形態をその姿に投影してしまっていたはずで(栗田ひろみは確かその後、井上陽水と結婚~離婚したはず)、街や電車の中でそういう女の子を見ることは少なくない。少ないけれど、多くもない。ただかわいいだけではダメで、やっぱりそれなりの雰囲気を持っている。「雰囲気」なんていかにも曖昧と思う人がいるかもしれないけれど、案外曖昧でもなくて、内面の事実と関わりなく(だから、栗田ひろみが本当はとんでもなくアタマ悪かった、とかとは関わりなく)、そういう「雰囲気」をした女の子がいて、それをそういう風に視覚像として固定できるカメラがある――という二つの共同作業がモデルと言われている産業なわけで、そこを起点とするこちら側の「投影」は、まったくの幻想ではないのかもしれない。かわいくて雰囲気のある子を見ている私に向かって、すぐに「こいつだって、陰ではやりまくってるんだ」と言い出す人がいるけれど、私がその子を見て、それまで考えたことのなかったことを「投影」していたとしたら、やっぱりそのときのその子には何かがある。そしてまた、そういう映像の中の女の子とは別に、どんなにツッパッたりヤバかったりする女の子でも、いつもつねにそうだと言うわけではなくて、「へえー」と思うような、その子しか言わないようなやらないようなことをすることがあるわけで、よう子がよう子なりに存在感があるとしたら、女の子を見てきた私の「投影」がそんなに自分勝手なものではなかったということなんだろうし、逆によう子が作り物めいているとしたら、私の「投影」が自分勝手だった、ということなんだろうと思う。 ところで、タイトルの「プレーンソング」というのは、雑誌「群像」掲載が決まって、「もう目次の締切りだ」というその日か1日前にやっと決まった。毎度毎度のことだが、私は書き上げてもタイトルをつけていない。タイトルのない状態で、編者に原稿を渡す。「何にしようか」と私が当時の「彼女」であったところの現在の妻に言うと、妻も名案は浮かばなかったが、当時彼女は暇な出版社でバイトをしていて、それと平行して、さっき書いたジェイン・ボウルズの『ふたりの真面目な女性』の翻訳を終えたところで、そのジェイン・ボウルズの短篇にPLAIN PLEASURESというのがあるのを発見して、PLAINで何かないかと辞書をめくっていたところにPLAINSONGという単語を発見したというわけだった。繰り返しになるけれど、それにしても文芸評論家の怠慢とはあきれたもので、「プレーンソング」という言葉を辞書で調べたらしき人は一人もいなかった。私自身、PLAINSONGという言葉を知らずに『プレーンソング』を書いたわけだけれど、それをタイトルにした段階で、PLAINSONGは明確に意味を持ちはじめる。PLAINSONGが『プレーンソング』のすべてを説明するわけでは全然ないけれど、『プレーンソング』の一部分は間違いなく表わしている。 |