「猫に時間の流れる」から「この人の閾」へと

「既刊一覧」にも書いているように、『猫に時間の流れる』と『この人の閾(いき)』に入っている作品は、書いた時期が入り組んでいるので、単行本の敷居をとっぱらって、書いた順に解説していくことにします。
 書いた順に並べると、『夢のあと』(90年4~6月)『キャットナップ』(91年5~9月前半)『東京画』(92年1月~3月前半)『草の上の朝食』(92年4~11月)『猫に時間の流れる』(93年4~9月前半)『夏の終わりの林の中』(93年9月後半)『コーリング』(94年3~4月、8月)『この人の閾(いき)』(94年6~7月)となって、『猫に時間の流れる』と『この人の閾(いき)』の2冊だけでなくて、『残響』収録の『コーリング』まで入り込んでいることを思い出した(『草の上の朝食』も入っている)。『コーリング』はいったん書いたもののどうしてもばらばらな感じがぬぐえなくて、しばらく休むことにして、そのあいだに息抜きのつもりで書いたのが『この人の閾(いき)』で、『この人の閾(いき)』は、少なくとも本人の評価では『猫に時間の流れる』『コーリング』『東京画』の3作よりははるかに劣るのに、そういう小説がはじめて芥川賞の候補になって受賞してしまうんだから、まったく皮肉、というよりも芥川賞という賞の候補作を選ぶシステムがすでにおかしくなっている。というようなことは、いまさら私が言うまでもない。ついでに言うと、『コーリング』を仕上げてしばらく休んで11月から『季節の記憶』を書きはじめることになるのだけれど、『コーリング』と『季節の記憶』については、それぞれのところで書きます。
 こうやって並べてみてまず気がつくのは、『夢のあと』と『キャットナップ』のあいだの約1年の空白で、この間、私は何も書いていなかったわけではなくて、約70枚が1作(A)と200枚弱が1作(B)が、編集者によってボツになっている。Aはのちに趣を変えて『東京画』になったけれど、Bは完全にこの世界から消えてなくなっている。あの頃はやっぱりそれなりに必死で、『夢のあと』のような簡単なつくりの話でも最後までいくのにかなり苦労して、途中で投げ出しそうになったりしていた。それは書いた期間の長さに如実にあらわれていて、たった70枚ほどの『夢のあと』を書くのに3ヵ月もかかっている。ちなみに『生きる歓び』の約50枚は4日で書いた(全然違うけど)。150枚の『キヤットナップ』にもほぼ半年かかっている。それよりやや短い『猫に時間の流れる』にも半年かかっているけれど、『キャットナップ』と『猫に時間の流れる』では使った時間と労力の意味合いが違う。『猫に時間の流れる』はいま書いてもあの頃と同じくらいの時間がかかるかもしれない。
 書くというのはやっぱりかなり大変なことだ。野球のピッチャーの投球フォームというのはかなり不自然な腕の使い方になっていて、的に向かって自然に投げようとすると肘を曲げたダーツ投げになりがちなのだが、ピッチャーマウンドからキャッチャーまでの18.8Mという距離があるとダーツ投げでは届かず、球に威力をつけるために肘を伸ばすことになり、肘を伸ばせば伸ばすほど球の威力が増すのだが、そうなると今度はコントロールがつかなくなってしまう。プロのピッチャーが突如としてストライクが入らなくなるのは、投球フォームというものが本来不自然だからで、それを克服するにはやっぱり自分でフォームをいろいろ点検しながら何度も投げるしかない。
 で、何が言いたいのかというと、頭にあるイメージを文章にするというのはとても不自然な作業だということ。たとえば『夢のあと』の文庫196ページの和田塚のくだりなんかでも、いま読み返してみると「どうしてあんなに苦労したんだろう」と思うほど、なんだか簡単にすらすら読めてしまうけれど、すらすら読めるように、事物を書いていく順番にとても苦労した。和田塚なんて本当に狭い敷地なのでちょこっと石段をあがったら簡単に全体が見えてしまう。しかしそれでも目はある程度順番に情報(情景)を整理している。しかし困ったことに、文章というのは完全に線状(直列)にしか情報を配列してゆくことができないけれど、目の方はある程度の並列処理もしている。つまりたとえば、目は〈一辺約10メートル〉〈ほぼ正方形〉〈土〉程度のことは同時に認識しているけれど、文章に書くとなると、必ず順番が発生する。
 とはいえ、適度な長さのセンテンスであるかぎり、3項目程度なら「一辺約10メートルのほぼ正方形で、足許は土」と書いても、「足許は土で一辺約10メートルのほぼ正方形」と書いても、そこから結ばれる像はほとんど同じなのだけれど、同じか同じでないかは書いてみないとわからないところもあって、書き手はその辺(=直列の表現による並列イメージの結像の具合)の判定もしつつ書かなければならない。とにかく、現地で目で見るのは普通に自然なことだけれど、それを文章にするのは根本的に不自然なことなので、『キャットナップ』あたりまで、私はその不自然さに苦労しつづけた。
 しかしここからがまた大事なことなのだが、そういう“不自然さ”ないし“拘束”は、ある時期からかなり自由に使いこなせるようになる。スポーツでも楽器の演奏でも、その中で自由に振る舞うことができる状態というのは、それらの“拘束”をしっかり身につけた状態ということだ。「では、“自由”とは何なのか」という疑問が当然生まれてくる。動物の場合、“自由”はなくて“自然”がある。“自然”とは本能という拘束のことで、彼らは“自然”にまかせているから不自由とは感じない。人間となると、本能がないので“自然”がない。“自由な動き”“自由な演奏”…etc.は、どれも拘束を徹底して身につけたその中での振る舞いでしかない。“完全な自由”とはどういうものか、と言われると寝転がっているところぐらいしか思いつかないが、そういう状態を人はいつまでも“自由”と思えるだろうか。この“自由”の問題は、いまここに出てくるのは唐突だけれど、私にはもうわからない。何しろ、“言葉をしゃべる”ということが、そもそも全然自由ではない。人は言語の体系に参入することで言葉をしゃべるようになる。一般に「習得」と言われている状態はすべて、そこに参入して拘束を徹底して身につけた状態のことで、人は「習得」という言葉で主体的行為と錯覚したがる……。まあ、こういうところで通り魔的にこういう議論を差し挟むのはやめましょう。文脈上、この通り魔的な議論が“真理”のような機能を持ってしまうので。くわしくは、雑誌「世界」に連載した『世界のはじまりの存在論』が本になったときに読んでください(ちくま新書から出る予定)。
 そういうわけで、最初の頃、私は小説を書くのにとても時間がかかった。ほぼ毎日2、3時間ずつ書いていたにもかかわらず作品は遅々として発表されなかった。93年10月まで西武百貨店に勤めてはいたけれど、そういうことは原因ではなく、書くことの不自然さ・不自由さに苦労しつづけた。実際、専業になったいまでも書く時間は、2、3時間しか使っていないのだから。しかしそういう反復基礎練習みたいな時期は、たいていの小説家にはやっぱり必要なんだと思う。私は「書く」ということに関して、才能を感じたことは本当に一度もない。「不遜」と言われがちだし、それを否定するつもりはないけれど、「書く」ことには苦労しつづけた。いまはどうかと言うと、あの頃のような苦労は感じないけれど、それでも情景を書くときには、まあだいたいいつも「面倒くさいなあ」と思いながら書いている。

 個別の作品解説でした。『夢のあと』は、はじめて編集者から依頼されて書いた小説で、「つぎ何を書きますか」と言われて思いついたのは、1年半くらい前に別の用件で鎌倉の近所を歩いたときに、ひょっこり入っていった自分の通っていた幼稚園のことだけだった。小説に書いたとおり、古い建物は取り壊される前の廃屋状態で、その帰りがけ、新しい建物をさっき通ってきた手前のところに見つけて、休日の誰もいない敷地で、30数年前に教わった関口先生が砂場のシャベルなんかを片付けている姿を見たのだけれど、小説の舞台の6月4日というのと違って本当は11月3日のことで、晩秋の3時すぎの光が本当に柔らかくて、印象派の絵画のようだった。
 では何故11月を6月にしたかというと、私は夏が好きだから。夏の情景はいろいろ思い出せるけれど、秋・冬となるともう本当に寒がっている記憶しか出てこない。そんな状態なので、11月を書き込める自信がなかった。ところで、『夢のあと』を発表したのは90年10月号の「群像」で、90年の6月4日は冒頭で説明している「日曜日」ではない。6月4日が日曜日なのは、前年の89年だ。89年の6月4日の日曜日の新聞には天安門事件の大見出しが出ている。この3人はそれを知っているのか? 知っている。文庫221ページで、笠井さんが「その場にいあわせた人間なんて、何が起こってるのかなんて、わかっていないんだよ」と言っているとき、天安門事件のことを考えている。ウソのようだが、これ、ホント。
 発表当時、せめて「6月4日が日曜日なのは89年で、となると、この日、天安門事件が朝刊の大見出しになっているというのに、この人物たちはこんな太平楽なことをしている」ぐらいのこと、誰かに言ってほしかったんだけど、私は当時、評論家を買いかぶり過ぎていた。「6月4日の日曜日」というくだりを読んで、その年のカレンダーをめくってみた人もたぶん1人もいなかっただろう。社会的な事件を書く書かないではなくて、具体的な日付や地名を見たときに、それを確認するひと手間を評論家がかけるかかけないかというようなことが、小説の衰退、つまり小説が現実との接点を失う流れに荷担しているんだと私は思う。

『キャットナップ』までのあいだは苦しかった。「このまま書けずに終わるかも」と正直な話、思った。「群像」の担当の藤岡さんにも弱音を吐いたかもしれない。しかし、藤岡さんという人は、「そんなこと考えてる暇があったら、書け」としか言わないような人で、思えば、「このまま書けずに終わるかも」というのは状況分析で、「そんなこと考えてる暇があったら、書け」は、なんと言えばいいか、とにかく方策だ。小説家本人にとって、状況分析は必要ない。文学の衰退と言われたら、そこからの脱出を考えるしかない。当事者に必要なのは方策で、状況分析してそこで終わってしまったら、何もできなくなる。Bの200枚のボツのあと、私は失恋したときのように、「あーあ」とベッドの上で仰向けになって、30分ぐらいボーッとして、翌日からまた書きはじめた。そういうタフさは、たび重なる失恋の経験で身につけていた。TSUMAMIじゃないけど、「見た目より打たれ強い僕がいる」。いや、「見た目どおりに打たれ強い僕」だけれど。
 それはともかく、翌日から再び小説を書きはじめるも、100枚まで書いたところで、どうしても調子が出てこないことをそのときには自分で認めて、それはその時点で破棄せざるをえなかった。『草の上の朝食』のところで書いたように、私はまず手書きで原稿用紙に書いて、2稿でワープロに入れる。ボツになった2作(A、B)はワープロとして完成させたことを意味し、この3つ目は、手書きの段階で破棄したことを意味する。それにしても驚いた。何年か前だったら、20枚くらいまで書いて調子がおかしかったらやめていたはずのものが、100枚までふらふらと行ってしまう。喜ぶべきなのか、警戒すべきなのか、とにかく100枚くらいだと平気で破棄することのできる自分がすでに存在していた。
 そういうわけでさらに再び気を取り直して書き出したのが『キャットナップ』だった。月刊誌の「ネコの手帖」で、病院の敷地内にいる子猫を職員が焼却炉で定期的に間引いていて、それを防止するためにボランティアの人たちがすでにいる猫に避妊手術を施した、という記事をかつて読んだことがあって、それを一方の軸、そしてもう一方をガイラさんというピンク映画の監督の家でのバカバカしいことにした。「ぼく」のイメージは『プレーンソング』の「ぼく」の数年前。実際、私は20代の数年間、ガイラさんの家にしょっちゅうしょっちゅう行って、晩飯を食べていた。私はどこに行っても、親戚のような顔をして、ご飯を食べて酒を飲んで、眠くなったら寝る人間なので、アキラのような人間に来られる側でなくて、アキラほどあつかましくはなくてもアキラのように人の家に行く側を書くことにした。私の実像としてはこっちの方がはるかに近い。
 あとがきにロベール・ブレッソンの『抵抗』という映画を何度も見つつ、ロベール・ブレッソンの書いた『シネマトグラフ覚書』を何度も読み返しながら『キャットナップ』を書いたと書いたけれど、これは正真正銘の本当で、あの頃私は、一部ではすでに保坂和志の文体は確立しているという評価があったけれど、実体としては、その保坂和志風の文体を維持するのにけっこう苦労していたし、それ以外の文体で書ける自信もなかった。そのための手段がどうしてロベール・ブレッソンなのか? という質問に答えるのは難しい。『抵抗』にも『シネマトグラフ覚書』にも保坂和志風の文体はない。しかしそこにあるテンポや視線の運動や注意の対象やその対象の転換と持続……などが、私の中で加工されることで、保坂和志風の文体になったということなのだろう。このHP上で連載されていく予定の『小説論』の中でも、じゅうぶんに1章をさくつもりなので、ここでは簡単な説明にしておくが、文体というのは、センテンスの長短や文末の「です」「ます」「だ」「のだ」「である」の違いや言葉の硬い・柔らかいのことではなくて、そこに盛られる情報の密度や情報の持続・切断のことなのだ。だから、私の考えでは翻訳によって文体が伝わらないということはない。
 こういう言い方は悪意によって誤解される可能性があるが、かまわず言ってしまうと、この時点ではまだ商品としての保坂和志小説は完成されていなかった。だから私は『プレーンソング』をある種、模倣した。書くのもとても逡巡が多く、文庫127ページあたりの、以前の恋人のなつ子と「ぼく」が風鈴をめぐってやりとりするところなんかは、ワープロ段階で、2回か3回、入れてみたり切ってみたりしたことを憶えている。理由は、“時間の経過”。私がイメージする時間の経過を読者に共有してもらうのに、この部分があるのが適当かないのが適当か、という問題で、だからこの部分は小説の骨子にとっては必要ではない。
 書いていて自分で楽しかったのは、ガイラさんの家でのヤモチを中心とした超能力関係の話題のくだりや、トウタが壁に絵を描いたりするくだり。小説というのはその場に登場している人物が1人か2人だととても書きやすいけれど、3人以上になると一気に難しくなる。3人がしゃべる順番の自然さとか、2人がしゃべっているときにもう1人がどうしているのかなんとなく感じられるとか、そういうことが書けると本人としてはとても楽しい。だいたい超能力ネタは私の得意分野のひとつでもある。ついでに言っておくと超能力をめぐるくだりは、今年(2000年春)の和光大学の入試問題に採用された。後日、問題が送られてきて(入試はいつも絶対に「後日」送られてきて、事後承諾となる)、私も解いてみようと思ったが、私には設問の意味するところすら理解できなかった。ああいう、ノリで読むような箇所を試験の問題にするのはどだいセンスが悪い。日常会話でも「――てゆうか」なんかは、ただの合いの手で、逆接の接続詞でもなければ話題転換の機能すら担っていない。
「キャットナップ」というタイトルは、「キャットナップ=うたた寝」に「キッドナップ=誘拐」がひっかけてもある。思いついたのは、妻。

『キャットナップ』を書いたあとに約3ヵ月のお休みが入る。作品は発表されなかったけれど、私自身は前述のようにずうっと書きつづけていたから、「2、3ヵ月書くのを休みます」と私は「群像」の藤岡さんに言い、藤岡さんも事情をよく知っていたから「そうだね」と言った。『キャットナップ』を書いて、私は小説家としてやっていける自信を持ちはじめていた。どういう自信かと言ったら、「これからも、ふたつぐらいボツになっても、その次にはそれなりのものが書けるだろう」というような自信で、はたしてそれを自信と呼べるだろうか、という留保は私にはない。じつは私はいまでも、書きはじめた小説を完成させることとか、書き終わった小説が掲載されることとかには、あんまり執着していない。私にとって大事なことは、ボツや途中放棄や駄作を途中で経つつも、とにかくある程度定期的に小説を発表するということで、職業というのはそういうだらけた部分がなければつづけられない。だから、もし私がプロ野球のピッチャーだったら、ムラのある、とても頼りにならない選手だろう。でも、小説家はプロ野球選手じゃない。書いた小説が本という形で残っているかぎり、10年前の小説でも新しい読者が生まれる。だから絶版は辛い。だから私は自分の小説が書店の棚に存在しつづけることにだけはこだわる。
『東京画』を書き出したのは、正月が明けてすぐだった。前述したボツ作品Aは、ただ東京の土地についての話だったが、それから1年以上のあいだに「2階の物干し場で夕涼みしている老夫婦」と「道に出てパイプ椅子で夕涼みしている老人」、という実在のふたつの情景が私の関心に強く入ってきていて、そのふたつを書くために書こうという気持ちは決まっていた。近所の定食屋のところにいる猫も実在した猫だけれど、こっちの方は書きながら流れの中で出てきた。導入部分に手間取るのはいつものことだけれど――導入部分はたいてい何度も書き直すけれど、それだけではなくてどういう導入にするのか思いつくまでに時間がかかり、それゆえ、導入さえ書ければそのあとはの2、30枚はだいたい頭にあるのである程度速く書ける――、この小説で最も時間がかかったのはパイプ椅子に腰掛けて夕涼みしている老人のくだり。文庫114ページで、11行つづくこのワンセンテンスは書くのにたしかあしかけ3日かかった。
 文の言い回しを考えて時間がかかったというのではなくて、書きながら、この老人に対して自分が何を考えたり想像したりしていたのか、というか、私がこの老人をまず視覚として捕らえたときに、私の視覚はこの老人からどんな情報を感じていたはずなのか、ということを考えたために、つまりは、“書くのに3日かかった”のではなくて、“考えるのに3日かかった”。このセンテンスを書いていた(考えていた)最中、私は出口の見えないトンネルの中にいるような気がしていた。だから私自信としては、その記憶が影響しているためか、いまでもこのセンテンスを読みはじめると、だんだんトンネルの中に入ってしまうような気分になる。
 でも、このセンテンスを書き終わったときには嬉しかった。世界のいままで言葉にされたことのなかったある像を表わした、というか、そういう像に向かう想像力を作ることができたような気がした。それくらいこのセンテンスは忘れがたい。いままでに私が書いたセンテンスで、最も重要なセンテンスかもしれない。これと同種のことはこれ以降もたびたび考えてはいるのだけれど、ワンセンテンスに凝縮したのはこれっきりかもしれないし、『世界のはじまりの存在論』なんかではエッセイの1回分かかったりしている。それをワンセンスでやれてしまうのが、小説の価値なのではないかとも思う。私の『アウトブリード』や『世界のはじまりの存在論』を“哲学的”だとか言って褒める人がいるけれど、私は小説家であって哲学者ではない。日本では、小説家より哲学者を上に置きたがるけれど、小説家と哲学者はそれぞれの形式を使って同じだけのことを考えているわけで、書くことが小説に寄与するかぎりで小説家ということになる。(ところで皆さん、小説(小説家)と哲学(哲学者)を並べたとき、小説は現代ものを思い浮かべて、哲学の方はプラトン、デカルト、ニーチェあたりを考えていませんか。そういう偉大な哲学者を出すのだったら小説(文学)の方もダンテ、シェイクスピア、ドストエフスキーを出さなければ不公平です。並べてみると、両者は同格でしょ? いま生きている哲学者なんて、もしかしたら小説家に劣るかもしれない)
「東京画」というタイトルはもちろんヴェンダーズの映画からもらった。思えばあの頃は、かなり映画に助けてもらっていたし、それなりに頻繁に映画を見ていた。

『東京画』のあと少し休んだだけで『草の上の朝食』を書きはじめた。92年の暮れに『草の上の朝食』が完全に自分の手から離れ、その後『猫に時間の流れる』を書きはじめるまでに約3ヵ月の間があいているけれど、これはどうも引っ越し先を探していたのと、勤めていた西武がリストラ体制に入って大きく組織改編があったりしたことが理由なのではないかと思う。たしか2月だったと思うが、職場は“激震”という比喩に近い状態だった。私も毎日朝から夜まで組織の改編に付き合わされた。ということはつまり私は中間管理職だった。
 4月に入ってもその状態はつづき、私はようやく書きはじめた『猫に時間の流れる』の書き出しを何度も何度も書き直していた。私にとって、書き出しの5枚から10枚はワンセンテンスのような気分があって、そこを抜けるというか、そこを固定させられるまでは、毎日書く必要があるのだけれど、1日おきに遅くまでの残業があったりして、書きはじめてはまた2日後にはじめから書きはじめるを繰り返していて、もうやってられないと思って、ゴールデンウィーク明けに辞表を出した。退職は規約上は2週間前の辞意表明でかまわないのだけれど、担当講師の引継ぎやら部下のことやらいろいろあるから、正式の退職は10月末ということにした。カルチャーセンターは特殊な職場で、契約社員やアルバイトが多く、5月に人事査定をしたときには私の部下に該当する人は30人くらいいた。
 信じる人と信じない人(信じたくない人)に分かれるだろうけれど、私は事務処理能力がとても高い。机の上なんか自宅も会社も紙の山で、何がどこにあるのかさっぱりわからない状態だし、朝は遅刻ばっかりだったけれど、そういうことと事務処理能力は関係ない。ルールに身を任せて考えるのが苦痛ではない人間なら、事務処理はできる。ここで、“ルール”という概念が出てくるのが唐突に思われるかもしれないけれど、『現代思想』97年11月号で、かの有名な友人・樫村晴香と対談したときに、“ルール”“規則”“規範”と私の特殊な関係が偶然にも明らかになって、私は「そういうことだったのか」と深く納得した。
 通常、人は“ルール”“規則”“規範”と呼ばれているものを、ある意味で自分の存在の根拠と関わらせてそれを受け入れるのだけれど(それを「身体に刻む」とかと言う)、私の場合、まったく自分と別次元のものという距離のある関係しか持たない(それを「身体と無縁の言語的なレベルで受け入れる」とかと言う)。それゆえ、子どもの頃は“ルール”を忘れた瞬間がたまに訪れて先生に「こんな子見たことない」と言われてひどく叱られたものだけれど、“ルール”を知り“ルール”とわりきる訓練も同時に積んでいたわけで(身体に刻んだ場合、“ルール”と気づかないことがある)、大人になって受け入れてもかまわないと思ったルールはどんどん受け入れられるようになっていた。それが事務処理能力が高い理由で、つまり一種のゲームだったわけです。

ようやく書きはじめた『猫に時間の流れる』は、こう書いてみると、『東京画』のあのセンテンスの拡張と言えるかもしれない。何しろ猫は何もしゃべらない。私はパイプ椅子の老人の内面を想像するようにして、猫のことを考えつづけた。前述の対談で私について樫村がこういうことを言っている(樫村の話を出すとどうしても難しくなりがちなので、もう出しません)。
「あなたの小説で、見る、というのは、風景に感情を記載する隠喩でなく、見る作業を身体行為の一つとして調整しながら、視覚対象からやってくる感情を、自分のものとして身体に記載し直す過程のような気がする」(「風景に感情を記載する隠喩」とは通常の小説の風景描写を指す。通常、小説では風景が人物の内面の状態を説明するのに使われ、風景として独立に賞味(?)されるわけではなくて、つねに人物の内面と補完しあう関係にある)
「あなたのいう見る行為は、その書き換え不能な部分と連携し、見られている対象に、世界の限界としての掟の力能を注入する秘技のように感じられる」(この発言の前に、ルールの問題と関係して、私は「言語はいくらでも書き換え可能だけれど、身体は書き換え不可能だ」という意味のことを言った)
 ちなみに私の小説で樫村が好きだと言っているのは、『猫に時間の流れる』と『残響』で、上の発言は『猫に時間の流れる』を考えながらのものだと思う。
 私は猫でも人でも、対象を見るときに自分の感情を投影させない。「自分の感情を投影させているかもしれない」という危惧を、書くときにはいつも持っているけれど、まあきっと投影させてはいない。それはもちろん私だって、失恋して「風景が色褪せて見える」こともあるけれど、いつもは自分の感情と別に対象を見ている。というか、そういうときしかちゃんと見ない。私は対象からできるだけたくさんの情報を得ようと思って見る。
(ついでに言うと、自分のことをこんなにいっぱいいっぱい書いて「保坂はナルシシストだ」と思う人がいるかもしれないけれど、そうではなくて、私はここでは自分の小説と経験から極力たくさんの情報を引き出そうとしているということで、では、どうしてそんなことをしているのかと言うと、ホームページのためのサービスということを越えて、小説を書くのでも読むのでも、あるいは流通させるのでも、とにかく小説と真摯に関わりたいと思っている人に、私としてできるかぎりの情報を提供したいと思っている、ということです)
 私は対象からできるだけたくさんの情報を得ようと思って見る。見るというからには少なくとも猫に関するかぎり、この小説にはフィクションは書いていない。つまり、〈見る=事実〉ということなのだが、〈見る=事実〉という構図はあまりに簡単な断定で、「わからない」と思う人が多いかもしれないが、これは私にとってはほとんど“原理”のような次元のことで、人が納得するような説明ができない。樫村が指摘しているように、ここが保坂和志の特異性なのだ。
 ……しかし、事実以外に人は見ることができるだろうか。空想を見ることなんてできるだろうか。もちろん、ここで「見る」とは視覚とか網膜とかの即物的な行為のことで、「夢見る」「かえりみる」などで使われる比喩化した「見る」のことではない。私はつくづく文学と遠いところで成長し、いまも遠いところで小説を書いていると思う。「見る」とか「森」(「文学の森」など)といった言葉に触れると同時に変換キーを自動的に押して、比喩や修辞的な意味に拡張させるような習慣が私にはまったくない(1)。そしてまた同時に、対象を見て、そこから起こる自分自身の内面の変化を記述するという習慣もない(2)。(1)が文学的であるのはいまや共通了解事項だと思うが、文学にとって本質的なことは(2)の方で、つまりたとえば、死にそうな子猫が道端に捨てられているのを見たとき、そのまま助けずに帰って、
「私はあの子猫の意識ともいえないだろう微かな内面の振動がしだいしだいに途絶えいくことを思った。すべて命あるものはどこか遠くから来てどこか遠くに去ってゆく。この夜、その遠い闇を思って、私は遅くまで眠ることがなかった。」
 とでも書けば、文学の一丁上がりになる(出来が悪いけれど)。いまこの場は保坂和志のホームページだから、こんな文章を読まされると「げっ」となるだろうが、こういうことを私でない誰かがもう少しまともに書けば、それなりに感動を誘えるだろう。しかしここには、道端で出会った死にそうな子猫から得られた情報が何も入っていない。この子猫が語り手の記憶の貯蔵庫を針のようにツンッとつついて、あとは語り手自身の子猫と出会う以前の世界観なり死生観なりが吐露されているだけで、結局子猫は消えてゆく。そして語り手の内面は“守られる”。と同時に、こういう語りをつづけてきた文学も守られる。文学と語り手は一緒になって、世界そのものと関わらずに“閉じる”。
 非常に雑な言い方をすると、(A)文学を守るか(B)世界に働きかけるか、となり、作品としてうまく閉じさせれば文学を守ることができる、ということなのだけれど、そういう二項対立のような考え方がすでにおかしい。ついでに言っておくと、ほんの2、30年前まで、「世界に働きかける」と言うと、旗を振ったり、爆弾を仕掛けたり、ボランティアをしたり……という、もろに具体的な“アクション”しか想像されなかったけれど、「世界をきちんと見て、それを記述する」ことがじゅうぶんに世界に対する働きかけになっている(ここでいう「記述」とは小説に書くことだけではなくて、見たことを友人に語ることや、一人で記憶することも含まれる)。「世界に働きかける」ということをこのように定義するのとあわせて、「文学を守る」ということも「文学をつねに更新することが守ることになる」という定義に変えれば、小説のパースペクティブが変わる。世界に対する働きかけを基底音として鳴らしつづけることが小説を更新させることだ。
 なんて大仰なことを書いたけれど、これは『猫に時間の流れる』を書いていたときの気分を正確に反映させてはいない。現在の私の気分が多分に混入している。これを書いていた当時、私は猫について書いている内容についてはとても満足しつつも、マンネリ化しつつある語り口に少し辟易していた。この語り口は自分で自分を模倣しているようにばかり感じられて、「もうこれで最後にしよう」と考えはじめていた。ついでにもうひとつ付け加えておくと、「こんなに猫ばかり書いている小説、文芸誌に掲載されないかもしれない。また、ボツかもな」とも思っていた。“J文学”以降、“小説”というものの障壁はないに等しいくらい低いものになってしまったけれど、これを書いていた93年当時、“小説”にはずいぶん高い障壁があった。私はカルチャーセンターでどのくらい集客できるか計算しつつ講座を企画していたので、そういう一種の共同幻想的な尺度に対する判断については自信を持っている(「自信」だけならただの思い込みだけれど、私が12年間講座企画の仕事をすることができたという事実がそれをまあ証明していると思う)。
 タイトルの「猫に時間の流れる」は『ヒサの旋律の鳴りわたる』を変えたもの。過去に使ったタイトルを変形させたとはいえ、はじめて編集者に渡す前に自分でタイトルをつけた。これが単行本になったとき、歌人の佐伯裕子さんという人が図書新聞だったか読書人だったかに、「哲学的な思索を背後に持った……」という評を書いたのだが、私の書くものについて「哲学的」という言葉が使われたのは、私が知るかぎりそのときが最初。その後、「哲学的」という形容が蔓延して、本人はうんざりすることになるのだけれど、それはもちろん佐伯裕子さんのせいではないし、佐伯裕子さんの書評にはいまでもとても感謝している。

『猫に時間の流れる』を書き終えてすぐに『夏の終わりの林の中』を書いた。
 妻と二人で何の気なしに行った目黒の自然教育園がなんだかすごく面白かったので、それを書こうと思った。作品に書いているとおり、そこに生えている樹木やそれを取り巻く生態系やそのサイクルを説明している看板が、抒情なしに的確に書かれているところがまたよかった。この小説を私は素っ気なく書こうと思った。あんまり文章をこね繰り回さずに、放り出すような感じにしようとも思った。そして、私は自分の小説ではじめて( )=カッコを使った。いままではそれを避けて、全部ベタに書いていた。それまでは、「ぼく」という人間がいきなりだらだらしゃべりはじめて最後までだらだらしゃべりきる、というイメージに強くこだわっていた。そのスタイルにすると、( )だったら簡単に済むものも、自然な流れに入れるために手間がかかる。( )を使ってみたら、予想した以上の速度で書くことができた。――というか、「( )ぐらいじゃんじゃん使っちゃえ」という態度になったら、センテンスも短くなって、それでかまわなくなっていた。実際にはこの作品で( )はほんの少ししか使っていないのだが。
 ところがこの『夏の終わりの林の中』は私にとって非常に重要なモチーフがあらわれている。私は文芸誌に掲載された時点も単行本に収録される時点も作品を読み返さない。書き上げる過程でさんざん読み返しているから、「もう読みたくない」と感じているのだ。だから『夏の終わりの林の中』でどんなことを書いたか、いちいち細かいことまで憶えていなかったのだけれど、あるときふと拾い読みしていたら、ほとんどまるまる『季節の記憶』の原型になっていた(8月末頃だったと思うが、掲示板でこれを指摘した人がいる)。
 文庫158ページあたりの佐伯さんの考えることは、『季節の記憶』で松井さんが「僕」より先に「僕」の家に帰って炬燵で寝ていたときにしゃべることとかなり似ている。話が『季節の記憶』の方にそれてしまうけれど、松井さんには複数のモデルが存在していて、ここでの松井さんは鎌倉たらば書房の伊藤さんという人をイメージしながら書いた。どこで一番伊藤さんのイメージになっているかというと、炬燵で寝ているところ。「そんなの誰をイメージしても同じじゃないか」と思う人がいっぱいいるだろうけれど、私にとっては全然違う。伊藤さんという人に関して私が知っていることや伊藤さんについて想像したことが、あそこで炬燵で寝ている姿に集約されている。たとえば、子どもの頃に住んでいた家を30年ぶりに見たとき、当時の記憶が一挙に噴出してくるように、具体的な人間とか場所とかには、強烈に記憶を喚起する力がある(これについては『小説論』の中で、風景ないし描写としてもっと丁寧に書く予定)。――で、『夏の終わりの林の中』の佐伯さんのモデルも同じ伊藤さんなのだ。伊藤さんが実際に佐伯さんのようなことや松井さんのようなことを、言ったことがあるのかとか今後言う可能性があるのか、というようなことはなんとも言えないけれど、この二つの小説の中で、現実の伊藤さんという存在がなかったら、私は佐伯さんのあそこの言葉も松井さんのあそこの言葉も書かなかっただろう。
 そしてもう一つ、『夏の終わりの林の中』が『季節の記憶』の原型になっているという理由は、何よりも生態系というものへの関心。『季節の記憶』の「僕」は自然教育園の園内の説明看板を読むようにして、鎌倉の山を見ている。――というのも、ちょっと説明としてわかりやすくしすぎているかもしれない。本当はもっとずっと深く、同時にいわくいいがたいところで原型になっている。たまにこれを読み返してみると、私は「なんだよ。これって、そのまま『季節の記憶』じゃん」と思う瞬間がある。
 が、そういうことともまた別に、この小説を私はかなり好きで、『この人の閾(いき)』が芥川賞にならなかったら、単行本のタイトルを私は『夏の終わりの林の中』とするつもりだった。

『夏の終わりの林の中』を書き終わったあと、私はしばらく書かなかった。その理由はたぶん、10月末付けで辞めることになっていた会社の最後の仕事や引継ぎがあったからなのだろうが、そのへんのところはよく思い出せない。
 10月末に会社を辞めたら、11月12日に『草の上の朝食』が野間文芸新人賞を受賞した。もうずいぶん古い話題なので、いまとなっては誰も憶えてはいないだろうけれど、あの頃、「野間文芸新人賞を受賞して、会社を辞めた」と書かれたけれど、これは順番が逆で、「会社を辞めたら、野間文芸新人賞を受賞した」が正しい。会社を辞めるということは、いわばプッツンすることで、辞表を提出するときに将来の設計が立っている人なんかほとんどいない。将来のことなんか見えていなくても、辞めるときは辞める。会社勤めをしている人間にとって、会社を辞めるというのはやっぱり大変な決断がいることで、私のように優柔不断な人間にはそういう決断はやっぱりできない。しかし、「プッツンする」「もうだめ」「えーい、メンドッくせい」と思って辞めるのは、決断ではない。たんに「投げて」しまっただけだ。
 ただ、『草の上の朝食』が野間文芸新人賞にノミネートされていたことは知っていた。確か10月はじめぐらいに知らされていた。しかし私は受賞するとは思っていなかった。これ以前、私は90年に『プレーンソング』で野間文芸新人賞、93年5月に『草の上の朝食』で三島賞にノミネートされていた。しかしどちらも落選していて、私は「自分の小説は文学賞には向かないんだ」と、なかば誇らしく感じていた。これはその後、芥川賞・谷崎賞とつづく賞歴(?)を知っている人には意外だろうけれど、私自身は、かつて「自分の小説は文芸誌に載るほどくだらなくない」と自負していたのと同じように、自分の小説についての自負があった。
 ――これは、自分のプライドを守る一種の自衛手段なのかもしれない。せめて本人ぐらい、本人の小説を最大級に評価していなかったら、いったい誰が守るというのか? というような。「また、次があるさ」と言う人はいっぱいいるけれど、「歴代の受賞作品を見てみろよ。とらない方がよっぽどいいよ」と心から言える人は、いそうでいない。この台詞を言う人はいっぱいいるけれど、その人の本心は歴代の受賞作品をけなしたいからであって、私の小説を最大級に評価しているからではない。
 しかし私自身は賞をとるとらないは本当に作品そのものについては全然関係ないと思っている。小説家が今後書いていく上でも、やっぱり全然関係ないと思っている。「それは賞をもらった人だからね」という意見は出てくるだろうけれど、一人一人の編集者との関係や私の作品の評価の変遷を思い返してみても、賞をとるとらないはやっぱり関係ない。――ただし、グロスでは関係している。この「グロス」という感じは理解されにくだろうけれど、せめて自分自身の過去・現在・未来ぐらいは、「グロス」や「ロット」で見積もるのではなくて、1対1の関係をひとつひとつ丁寧に積み上げていくような作業をしないかぎり、いわゆる「自分を見失う」。
 脇道の話が長くなってしまったけれど、11月も私は書かなかった。野間新人賞は地味な賞なので、特別大騒ぎをしたわけでもなかったが、しかしそれでも会社から自由になったことや年末の忘年会シーズンとも重なって、わさわさしているうちに年が暮れゆき、Jリーグ1年目の天皇杯の準々決勝あたりのある日、私は突然激しい肩の痛みに襲われ、そして突然、顔が斜め下を向いた状態のまま首が動かなくなり、左の腕が全然動かせなくなってしまった。
 頸椎椎間板ヘルニアだった。どういうのかと言うと、首の骨と骨のあいだのクッションが内側に少し飛び出して、脊椎の間を走っている神経を圧迫し、そのために痛みが起こったり、腕が動かなくなったりする――というもので、珍しい病気ではない。珍しくはないけれど、本人としてはものすごくあせった。当座の強烈な痛みは末梢神経を活性化させる薬とか鎮痛剤とかで1週間で治ったけれど、背中の弱い痛みはずうっとつづいている。どういう痛みかというと、ひどい肩凝りのような痛みで、そういえば私はこの2、3年前あたりからひどい肩凝りになっていた。たぶんワープロがいけないんだよ。ワープロは手で書くよりも姿勢が固定しているから、どうしても体がきしむようになる。しかし、年が明けて1月くらいは、手で書くよりもまだしもワープロを打つ方が楽だった。で、雪が降ったりすると、手に無数のガラスの破片が刺さっているように痛む。だからこの時期は本ばっかり読んでいた。会社を辞めて定収入がなくなった矢先のこれだったが、そういう悲壮感というか不運感はなかった。野間新人賞の賞金の100万円もあったし、退職金もあったし、失業保険もまもなく入ってくる予定だった。これだけでうまくすれば2年はやっていける予定だった。まあ、1年半は大丈夫だろう。その間に年400枚のペースで小説が書ければ、楽勝にやっていける。でも、あの頃のことを思い出すと死んだチャーちゃんを思い出す。1月に大雪が積もった朝、それがチャーちゃんが生まれてはじめて雪を見た朝で、チャーちゃんは大興奮して、窓に行って外を見ては、こっちに戻ってきて「ニャア、ニャア、ニャア、ニャア」一所懸命しゃべっていた。チャーちゃんは1時間ぐらい雪を見た興奮が止まらなかった。チャーちゃんはあのときまだ1歳と数ヵ月だった。
 で、3月に入って私はゆっくりゆっくりとワープロを使って新しい小説を書きはじめた。それが『コーリング』で、『コーリング』については『残響/コーリング』のところで書くことにします。
 失業保険がようやく支給されたのはたしか3月だった。私は会社都合ではなくて、自己都合による退職なので、失業保険の支給が4ヵ月後からになる。当時私の住民票は鎌倉にあったので、私が4週間に1度通うハローワーク(職安)は戸塚だった。
 私は3月4月の2ヵ月かけて、とてもゆっくりしたペースで『コーリング』をワープロに打ち込んでいった。『コーリング』はいったん仕上がったものの、どうも軸というか核というか、そういうものが感じられなくて、しばらく放っておくことにして、5月は「文芸」で訳者代表の宇野邦一さんと対談をすることになったドゥルーズの『千のプラトー』を読むのにほぼまるまる1ヵ月を費やした。といっても、それだけを読んでいたわけではなくて、頸椎ヘルニア以来久しぶりに復活した小説読書モードが相変わらずつづいていて、この頃は永井荷風の小説もずいぶん読んだ。何しろ私は古今東西の名作というものをほとんど読まずに来ているものだから、読む小説には事欠かない。荷風を読むのもはじめてだったけれど、花柳界を舞台にした彼の小説は、ヒューマニズムと別の原理で動いていて私はとても楽しかった。荷風の人物たちは、漱石の人物たちのように立ち止まってつべこべ言うのではなくて、積極的に流れに身を任せる。いまだに私自身はそういう小説を書いていないけれど、読みながら「こういう小説を書きたい」と思った。
 それで話をもどすと5月31日に河出書房の中で宇野邦一さんと対談するのだが、それを境にして、私は急速に「哲学」「思想」方面の人間と言われるようになってゆく。宇野さんとの対談の話をもってきたのは「文芸」の阿部さんで、90年代に入った頃から「文芸」は哲学・思想路線をとっていたので、宇野邦一、西谷修……といった人たちを通じて、阿部さんは私が哲学・思想方面の知識を持っていることを知っていた(文芸誌はいまでこそ、「新潮」も「群像」も哲学・思想方面の人をばんばん載せているけれど、94年の時点ではそんなことをしているのは「文芸」だけだった。小説家になった当時、私は小説を書くような人間は哲学の本の5冊くらいは読んでいるものだろうと思っていたけれど、とんでもない見込み違いで――私はそういう見込み違いをしょっちゅう犯す――、小説家は原則として哲学を知らない。しかしどうして哲学と無縁のところで、文学が成り立ち、同じように、文学と無縁のところで哲学が成り立ちうるのだろうか。それはまたいずれ『小説論』でゆっくり書くことになるけれど、〈90年代前半に哲学・思想を載せていたのが「文芸」だけだったのに、いまとなっては他の文芸誌もみんなそれを載せている〉という「文芸」の先走りが再び現実のものとなるとしたら、それはつまり、文芸誌がJ文学中心になるということであり、文芸誌にマンガや音楽の記事が山盛りになるということを意味している)。
 いまこうして、自分でインターネットに関わり、ネット上に書かれていることの一端を知ると、その人の読み方が活字にならない人たちの読み方を知ることができるのだけれど、インターネット以前、読み方が活字になる人は、評論家と記者しかいなかった。ところがこの両者が全体としてものすごくレベルが低く、彼らの大半は『プレーンソング』と『草の上の朝食』を読んで保坂和志のことを、何にも考えずにただだらだら書くだけのヤツと定義しはじめていた。――ところが、この定義は具合が悪い。野間新人賞を私と同時に受賞した奥泉光は「インテリで小説に対してとても意識的」と定義され、保坂との落差はひどいものだった。それで売れていれば何の問題もないけれど、あいにく売れていない。私は小説以外の場所での戦術を切り換えることにした。
 これは芥川賞を受賞したあとの話だが、1年に1度くらい電話でしゃべる高校からの友人が、「どうして急に思想寄りになっちゃったの?」と私に言った。私が上のような事情を話すと、彼は「それはバカな人たちの感想でしょ?」と言った。「『プレーンソング』読んで、何も考えていない人間が書いたと思うのは、雑誌編集者とか新聞記者とかのレベルで、ちゃんと読んでいる人はちゃんとわかってるよ」。この彼の言葉を、このインターネットの時代になって、私はあらためて確認する。インターネットの時代の、権威あると幻想されつづけてきた活字とインターネットの中での個人発信の言葉の関係は私にはとても興味があって同時に深刻な問題で、ちょっとここでは書ききれないので、いずれ場所を変えて書きます。――とにかく、すでに何度も書いたことだけれど、私はいままでの文学のピラミッド構造と別のところから出てきて、別のところで支持されている人間だから、既成の体系やシステムの中で機能しなくなっている部分をかなり敏感に感じることができる。もともと私は全体から部分を考える演繹法タイプの人間ではなくて、個別から一般を引き出す帰納法タイプの発想をする人間でもあって、なおさら既成の体系の機能不全を感じることができる。『季節の記憶』を読んだ樫村晴香が「あなた、子どもを作りなよ。あなたは具体的な事例から思考するタイプだから、あなたのような人間が現実の子どもの成長をみながら何を考えるのか、私も興味がある」と言ったことを思い出す。それはともかく――、
 このインターネットの中の個人発信の言葉の話は、『この人の閾(いき)』の真紀さんの語らずにただ読みつづけるという態度と重なり合う。で、話はやっと『この人の閾(いき)』に。

『この人の閾(いき)』を私は、戸塚のハローワークの帰りに入ったミスター・ドーナッツで書きはじめた。6月2日木曜日だった。そのミスター・ドーナッツの2階の席からは戸塚駅に発着する横須賀線と東海道線が見えて、私は突然、東海道線のだいぶ先の方から通勤している人の家族の話を書こうと思った。
 70年代後半、私が鎌倉から早稲田まで大学に通っていた頃、東海道線の通勤電車の起点は平塚だった。それがかれこれ20年のあいだに起点が小田原まで伸びていたことは以前から知っていて、そういう地理的なことが何かになるんじゃないかと思った。最初、真紀さんの夫が乗る駅は小田原の一つ手前の鴨宮(かものみや)というところだった。そうした理由はいまでは思い出せないけれど、有名な小田原より鴨宮の方が半端な感じがしてなおさらいいと思ったのだと思う。で、そのまま私はずっと小田原でなくて鴨宮の話で、次の4週間後のハローワークのときまで書きつづけていた(失業保険は4週に1度の指定された日に必ず行かないと支給されない。失業中なのだから、指定日には絶対行けるという論理なのだろうが、その日に会社の面接とかがあったらどうするんだろうか)。そして6月30日木曜日に戸塚まで行ったついでに、帰りに東海道線に乗って、鴨宮まで行って、私がイメージしているような家が駅との位置関係でどのあたりにあるか見てみることにした。
 私は悪い癖でいつも地図も何も持たずに行ってしまう。鴨宮駅からあてずっぽうに海側に歩いて行ったら、おそろしく何もない。思えば田舎というのはそういうところで、何もないとなると本当に何もない。鴨宮というところはそういうとんでもない田舎なのかもしれなかった。私は海の方へともうだいぶ歩いてしまったので、いまさら駅を挟んで逆の側まで歩くのは面倒くさかったので、小田原方向に行けば住宅地があるだろうと思って、ついに小田原駅まで歩いてしまった。気温32度くらいの炎天下を私は3時間ぐらい歩きつづけた(頸椎のヘルニアはもう普段は支障なくなっていた)。私は途中で「海側はだめなのかもしれない」と思って、東海道線の線路を横切ってもいて、小田原駅の周辺に辿り着いたときには山の麓の高級住宅地のようなところに来てしまっていて、ここもイメージとは違っていた。そこからまた小田原駅を目指すことになるのだが(そろそろ帰らなくちゃならないし)、駅に近付くとどうやら小説のイメージとそれほど食い違ってもいなさそうなところを、見つけるには見つけた。……が、「イマイチだよなあ」と思いながら、その日は家に帰ることにした。帰りはロマンスカーにした。4時間かもしかしたらそれ以上歩いたので、もう足はコンクリートのようだった。ちなみに今、鴨宮・小田原間の距離を時刻表で調べてみたら、線路の長さでちょうど3KM。私はそこをジグザグジグザグ、行きつ戻りつして歩いて行ったのだった。
 帰りのロマンスカーの中で、私は全体の構想を変えようかと思いはじめていた。どういう風に変えようとしたのか忘れてしまったけれど、「すでに書いた分を持って実際に鴨宮まで行ってみたら全然違っていた」というようなフレームのある、一種のメタフィクションのようなもので、メタフィクションは嫌いだしくだらないので、すぐに撤回した。しかしとにかく、実際の街の雰囲気との違いに私は少なからずショックを受けていた。さきに現地に行ってみてから書けばいいものを……、という教訓は『季節の記憶』で目一杯生きて、『季節の記憶』では私はよく知っていると思っている稲村ガ崎に何度も行った。
 で、その5日後に今度は地図を買って、住宅地がありそうなところにあたりをつけて、もう一度行った。見当は外れていなくて、すでに書いていた真紀さんの暮らしとそう違わない住宅地が確かにあった。しかしそこには田圃や畑のための用水路が引かれているし、近所に商店はほとんどなかった。真紀さんが借りまくるビデオ屋も1軒あるかないかで、結局作品の中では小田原駅近くまで借りに行くことにしたんだっけ? もう忘れてしまったし、確認するほどのことではないので……。
 ところで、この真紀さんには明確にモデルがいる。私がいままで小説に書いた女性の中で、唯一モデルのいる女性だ。池田弥生さんといって、私のいた映画研究会にいた1歳年上の人だ。もう弥生さんは忘れているだろうけれど、私は24歳の頃、彼女に恋愛の相談をしたこともある。が、思えば弥生さんほど恋愛の相談相手として不向きな人もいないだろう。恋愛って、うまくいかないととにかく誰でもいいから、女と話をしていたくなったりするもんなんだよね。
 で、弥生さんは、一時期旦那さんの転勤で名古屋に住んでいたことがあって、出張で名古屋まで行ったときに3時間くらい時間が空いたことがあって、私は弥生さんの家(といってもマンションだけれど)まで訪ねて行って、しばらく話をして帰ってきたことがある。私は人の恋人とか奥さんと話をするのがなんだか好きなのだ。私は人の恋人や奥さんを寝取りたいとか思わないから、人の恋人や奥さんだと余計なことを考えないですんで、くつろげる、ということなんじゃないかと思うけれど、こういうことの自己分析はアテにならない。『この人の閾(いき)』について、「昼下がりに人妻に会いに行って何もないのは絶対におかしい」とよく言われたし、「かえって不潔」とまで言った50代女性もいたけれど、私自身は弥生さんに限らず、しばらく会っていない人の近くまで行くと、わりとよく訪ねたり近所の喫茶店あたりで会ったりする。珍しいんだろうか。でも、それで怪訝な顔をされたことはない。少なくともそういう自覚はない。そんなことでもしていないと、人と人は会わなくなってしまう、というようなことをわりといつも考えてはいる。
 が、現実の弥生さんがあのような話をしたわけではない。しかし、さっき書いた佐伯さんや炬燵で寝ていた松井さんのイメージがたらば書房の伊藤さんに由来しているのと同じ意味で、真紀さんは弥生さんに由来していて、映研で一緒だった森野という友達などは、『この人の閾(いき)』を「新潮」で読んだときに、「弥生さんそのものだよ」と言った。
『この人の閾(いき)』は8月4日にワープロ稿として完成する。その直後の8月7日の夜、私は久しぶり樫村と電話で話をした。そのことについては、『アウトブリード』に入っている樫村への手紙の中でふれているとおりで、私が樫村に、「イルカの知性は禅の高僧と同じようなものなんじゃないか。コンピュータが扱えなくても、高層建築を建てられなくても、そんなことは本当の知性とは関係ないことなんじゃないか」と言うと、樫村はしばらく絶句したあとで、「それはつまりバカということなんだよ」と言った。この時点で、私は、私が樫村に言ったのと同じ台詞を真紀さんに言わせていた。『この人の閾(いき)』としてみんなが読んでいる形では、この台詞を「ぼく」に言わせ、それを真紀さんが否定することになっている。つまり、あの夜、樫村と電話で話すまで、私は言葉として表現されないものを「ある」として小説を終わらせていた。しかしあの夜の会話を挟んで、私は言葉として表現されないものを「ない」とした。
 あの夜、樫村は私がけっこう口当たりのいいところで、適当に小説を書こうとしていることを察知して、「あなたの現在の安定をすべて打ち壊してやってもいいよ」というようなことを言った。彼にはものすごく思いやり深い面と、破壊的な面があって、あの夜は彼自身の気持ちの状態もよくなくて、私との会話に苛立ち、私に向かって斧を振り上げた! という感じだった。軽い一撃を食らわせるのより、本気で振り上げる方が迫力がある。そして樫村は振り上げた姿勢で思いとどまって、「あなたは1度も自分より利口な人を書いていない」というアドバイスを私にした。樫村で驚くのは、アドバイスがいつもとても具体的だということだ。小説を書くことに限らず、ものを考えることは、大半が技術なので、抽象的なアドバイスはたいてい意味がない。結果、真紀さんと「ぼく」とのやりとりは緊張感のあるものになったと思う。
 といっても、私はこの小説の出来には自信がなかったし(何しろあまりに単純な作りなので)、投入した労力からみても、特にこだわるような小説ではなかった。妻も一読して、「『夏の終わりの林の中』は読んでいて、まわりの林にきょろきょろ目が行くような、疲れるような、せわしないようなところがあって、それはそれで面白かったけど、これは単調だね」というような感想を言って、私もその程度の感想で不満もなかった。だから(?)当然、タイトルの「この人の閾(いき)」というのも例によって場当たりでつけたのだけれど、「閾(いき)」なんていう言葉がどこか出てきたのかと言うと……。
 書きはじめて「子どもを出そう」と思ったとき、その子どもは会社で人事なんかをいじってそれを面白そうに話す真紀さんの旦那=子どもの父親に似ているのかもしれない、という話にするつもりで、あの頃ちょうど話題だった『シンドラーのリスト』を家族で観に行ったあと、子どもがナチの収容所にひどく興味を持つようになって、それもユダヤ人の立場ではなくて、ナチの側への興味が感じられる、というのが真紀さんの心配であって、「ぼく」にそんなことを話す、という風にしようと思っていた。ところが実際に子どもを書いてみると、彼がとても元気で収容所の話題なんか出てくる暇がなかったのだけれど、で、そのどこが「閾(いき)」なのかというと、パウル・ツェランというユダヤ人の詩人の詩集に『閾(しきい)から閾(しきい)へ』というのがあって、私の中ではどうも、ツェランのことがずうっと余韻として残っていて、「閾(いき)」という言葉が出てきてしまったらしい。もっと詮索すれば、収容所で死んでいった人たちの考えたことも言葉として残らずに消えている……ということでもある。
 そしてラスト。「どうしていきなり平城京なのか?」。これにはまったく意味がない(つまり、私自身は深読みしてほしいとは全然考えていない)。この小説をそろそろ書き上げる7月20日に私は大阪に行って、そのついでに奈良にまわって平城京を見てきた、というだけのこと。平城京に行ったのはそのときがはじめてで、私は小説に書いたとおりに、あそこの広々とした何もなさに感動したので、それを書くことにした。『この人の閾(いき)』のような小説はどう終わらせてもいいし、逆にどう終わらせようもないとも言えるので、「新潮」の風元という編集者に「余計だった切ってもいいよ」と言って渡して、風元も「説明はしにくいけど、ああいうのはあった方がいいんです」と言って、結果、残ることとなった。妻はラストについては、もちろん「まったく、たまたま平城京に行ったら、すぐにそれを書くんだから」と言った。
 というわけで、94年8月にこれを書き上げ、「新潮」はたいてい掲載まで時間がかかるので、気長に待っていたら(この掲載より『コーリング』の「群像」掲載の方が先になった)、95年3月号に突然穴があいたらしく、風元が「急ですが掲載します」と言ってきたのが、阪神大震災直後の1月20日。「新潮」3月号の発売は2月7日。地下鉄サリンが3月22日のことで、オウム、オウムの日々がつづき、7月18日に芥川賞受賞となった。

 
以上