草の上の朝食

 
『草の上の朝食』の前に、小説家・保坂和志は「夢のあと」「キャットナップ」「東京画」と、じゅうぶんに1冊分の短篇と中篇を書いていたけれど、出版社側から単行本にしようという話は出てこなかった。『プレーンソング』は“「群像」新人賞受賞”というわかりやすいキャッチフレーズのつかない単行本だったので、増刷はしたものの結局たいして売れなかった。1冊目がたいして売れなかった小説家というのはけっこう大変なのだ(それにしても“「群像」新人賞受賞”などの“××賞受賞”という言葉に勝る宣伝文句を考えられない出版社の無能さというのは怖るべきものだ! というのが、私のデビュー時の感想で、その時点で、私の将来ではなくて、出版界の将来の希望のなさは保証されていた。実際、いまや出版は“沈みつつある船”という認識が出版界中心に広がりつつあって、私もまた出版だけに頼った活動では今後30年やっていくことはたぶんできないだろう。――そんな折りも折りのHPの話なのだった)。
 で、2冊目を出すにはどうしたらいいか? 担当編集者の「群像」の藤岡さんに「『プレーンソング』の続篇は?」と言ったら、「それならいけるだろう」という話だった。短い話というのは、たった一つのアイデアがあれば書けてしまう。たった一つのアイデアで書けるという思いが先にあると、終着点が見えて安心して、それ以上の要素を入れなくなる――という悪循環があって、そういうことに退屈もしていたので、私は長い話を書きたくなっていた。それに『プレーンソング』の彼ら・彼女らには並々ならぬ愛着もある。それにじつは、『プレーンソング』はあのあとの部分も書くには書いていた。『プレーンソング』の原稿が文芸評論家の加藤典洋氏を通じて「群像」編集部の藤岡さんに渡されたあと3ヵ月、掲載の可否どころか担当者個人の感想も言われてこないので、私は「やっぱりダメか。でもまあいいや」と思って、海から帰ってからの話を4、50枚ぐらい書いていた。思えば妙なことをしたものだ。掲載されない小説を書きつづけるなんて。でも、きっと掲載されるかどうかなんて、関係なかったんだと思う。自信があるとかそういうことではなくて、「プロになるならないに関係なく、結局私は小説を書きつづけることにした。当面私が書きたい小説はこれだけだ」という気持ちだったのだろうと思う。
 しかしその原稿は、その後なくしてしまい(私はとても整理が悪い)、92年3月の時点で「続篇を書こう」と思ったときに、なくした4、50を思い出すのも、はじめから書き出すのも手間としては同じことで、私は後者を選んだ。『草の上の朝食』には、ふたつの意図、というか主題ほど明確ではない考えがあった。
 ひとつは“反復”ということ。92年の3月半ばに『草の上の朝食』を書き始めたとき、私は西武百貨店の勤務が丸11年になろうとしていた。年齢は満35歳と5ヵ月。私のまわりではみんながいつも、「何かいいことない?」という言葉を挨拶のように1日何度も口にしていた。私は、と言えば、小説家になったとは言っても、何か劇的なことが起こるわけではなくて、相変わらずのサラリーマン生活で、単行本の売れ行きや出版社が短編集を出そうとしない現状から、サラリーマンを辞めようというつもりはあんまりなくて、普段の生活は小説家になる前とほとんど変わっていなかった。「何かいいことない?」という決まり文句に対して、私は「そんなもんないんだよ」と思っていた。実際、何人かには言葉にして答えていた。これは決して否定的な気分ではなくて、“受容”という感じだ。
「どうしていいことがなきゃいけないの? ま、いいじゃん、いまのままで」というのが私の気分だった。非常に極端なことを言う仏教学者がいて、その人がインドでカーストを見て感動して、こう言ったことがある。
「カーストの下の方にいる人たちは、重いものを運ぶ人は一生重いものを運びつづける。汚い家に暮らしている人は一生汚い家に暮らしつづける。我々から見たらたまらないですよ。でも彼らはそれを喜々としてやっている。過酷な労働を苦しみながらやるということを喜々としてやっている。彼らにとって、すべてが修行なんです。過酷な労働をするカーストに生まれた人間は、それを苦しみながらまっとうするのが修行なんだから、喜々としてやるんです」
 その仏教学者には近代ヒューマニズムという尺度はほぼ完全にない。宗教はやっぱり本質的に近代市民社会には相容れないもので、彼はいつも「個人の気持ちとしてどうか」ということでなくて、「宗教としてどうか」という風にしか考えない。だから、エホバの証人の輸血拒否の事件が起こったときも、当然、エホバの証人の側を支持した。マザー・テレサがローマ法王と会ったときには、「あんな下っ端の尼さんと法王が会うなんて、とんでもない人気とりで、ローマ教会の階層に反する」と言って怒った。宗教が階層を持ったり組織を持ったりすることがいいかどうかはともかくとして、現実にその階層の中に生きているんだから、それを守らないのはおかしいという意味だ。
 私本人や私の書くことがヒューマニズムか全然そうではないかは、人によって真っ二つに意見の分かれるところで面倒くさいので突っ込まないけれど、私の感覚はこの仏教学者にかなり近く、インドのカーストのように、毎日毎日、『プレーンソング』と同じことを繰り返す、というのを『草の上の朝食』のひとつのモチーフとした。アキラは断固としてアキラであり、島田は断固として島田なのだ。『草の上の朝食』が「群像」に掲載されたとき、『プレーンソング』を絶賛したある評論家が、「『プレーンソング』は二度いらない」とか「『プレーンソング』に続篇はいらない」と言ったけれど、彼は“反復”というものがわかっていない(もっとも、「“反復”になっていない」のだとしたら、それは私の失敗ということだけれど、まあ、その評論家にそれほど高度な読解力があるとは思えない)。
 そしてもうひとつが“恋愛”。これはしょっちゅう私のエッセイに出てくる、友人であると同時に先生でもある樫村晴香に言われたことで、私が「いま『プレーンソング』の続篇を書き出したところだ」と言うと、樫村が「あなたの小説世界で、恋愛がどのように描かれるか読んでみたい」と言ったのだった。樫村の言ったことをうろ憶えで再現すると、「恋愛というのは神経症の産物である。しかし保坂の書く世界は神経症と対極にある。保坂の世界に恋愛は入りうるのか」というようなことだ。いま思えば、樫村のアドバイスは全然アドバイスになっていない。というか、危険だよね。無理に恋愛を入れて世界全体が破綻したらどうするの。きっと樫村は「破綻すると思ったら、一度書いてもその部分を破棄したよ」と言うだろう。樫村はひどいやつで、いつも私が故意か無意識にか避けているものを「入れろ」と言う(『この人の閾(いき)』の説明を参照のこと)。そしてもし私が樫村のアドバイス(?)を入れて、破綻したら「それだけの小説家だったということだよ」という答えを用意している。が、彼はついでに「保坂ができないと思ったら、言わなかったよ」とも言うだろう。
 私は導き手としての樫村をほぼ無条件に信用してしまっているのだ。私のそういう姿勢に対して苛立ちを感じる人もいっぱいいるかもしれないけれど、樫村のような導き手を持たない小説家は、評論家の評価に振り回されることになる。福田和也の『作家の値打ち』なんかその最たるもので、みんな福田和也の評価を真に受けてしまう。評論家はいつも評論家として小説を読んでいるだけで、導き手ではない。作品成立のメカニズムに踏み込んで読んだり絶対にしない。作品というのは、意図やモチーフがいちおうあって、まずそれが「書く(=読む)に値するものかどうか」つまり「興味を喚起して持続しうるものかどうか」ということが起点となって、次にその処理=展開が問題となる。処理というのは、たとえば『失楽園』のような話の場合、困難な恋愛をしてそれに囚われている自分の気持ちというのを絶対化するか相対化するかが処理の出発点になるわけで(読んでないけど)、困難な恋愛に囚われている心を相対化すると話はもっとずっと面倒くさくなって読者はイライラして、あのようなベストセラーには絶対にならなかっただろうけれど、処理としてはおもしろいものになった――というようなこと。
 話を戻して、結果として『草の上の朝食』では工藤さんと「ぼく」との関係は、半分くらいしか恋愛ではなかった。恋愛というよりもセックスだった、という感じ。工藤さんと「ぼく」がつき合う過程で、多少のためらいはあるけれど、会えないことの困難さは全然ない。「ぼく」はきっとそういうことに一度ならず懲りている人間だから、「会えない」という状況になったら、やめてしまっただろう。でも、恋愛というのは本当に「会えない」ことなんだろうか。二人で会って、いちゃいちゃすることなんじゃないだろうか。いっぱいいちゃいちゃして、くだらないことをとっても楽しくしゃべりあうことが恋愛なんじゃないだろうか。恋愛をそういう風にとらえている民族はきっといっぱい。だから作者としては、かなりうまくいったんじゃないかとも思う。工藤さんをアパートに連れてくる場面は、私はとても好きで、講談社文庫に入ったときに3年ぶりに読み返してみて、一人で笑った。けっこうげらげら笑った。
 作者として、『プレーンソング』は文章の表現として書き直したいところはいっぱいあるけれど、『草の上の朝食』の方はどこもないと言ってもいい。もっとも『プレーンソング』の至福感には絶対的なものがあって、あの至福感は文章の上手い下手ではないが。『草の上の朝食』は、11月に中公文庫から再び出ます。
 執筆時期を書き忘れていた。92年の3月末から書きはじめて、それと同時期に「会社に勤める」ということに突然ものすごく煮詰まってしまった。西武百貨店がリストラに向かって本格的に体制を変えていったのは、その1年後だったけれど、まるで炭鉱のカナリヤのように私は体制の変化を察知して、池袋駅のJRの改札を出て事務所にたどり着くまでの2、3分のあいだに動悸がどんどん激しくなり、ついにある晩、一人で泣き出しそうになって、「いまここで涙が出たら、このままずっと止まらないんじゃないか」と思った。このことともうひとつ、「会社に行くような拘束が全然なくなった状態で、自分は毎日規則正しく小説を書いていくことができるんだろうか」という疑問があったので、とても理解のあった上司に(その上司というのは、『揺籃』を読んで理解しなかった編集者崩れのことではない)2ヵ月休職して小説を書きたいと言ってみた。彼は、「おう、いいよ。やれやれ」と言った。たぶん彼自身、会社勤めの人間から会社をとって何か残るのか考えていたのだと思う(その後、彼も会社を辞めた)。
 それで4月16日から6月15日までの2ヵ月休職して、その2ヵ月で書き上げるか、そこまでいかなくても完成のメドだけはたてて会社に戻ろうと思ったのだけれど、そして書くという作業は毎日本当に規則正しく午後3時間夜2時間ぐらいの感じで続けることができたのだけれど、5月20日くらいに250枚くらいまで書いたところで全然前に進まなくなってしまって、またはじめから書き直すことにした。というか、そうせざるをえなくなった。小説の場合、私はいつも第1稿が手書きで、2稿でワープロに入れるのだけれど、あのときはあまりにメドが立たないので2稿も手で書いた。「はじめから書き直す」と言っても、ゼロからやり直すわけではないので、2稿は1稿よりは速く書いていくことができる。で、6月15日の休職期限切れのときには250枚弱ぐらいまで書くことができていて、完全にメドが立ったわけではなかったけれど、「まあ、書き上げられるだろう」という気分にはなっていた。なんでこんな細かいことを憶えているかというと、私は見開き1ヵ月のダイアリーに、どこで誰と会った、何を読んだ見た、と、その日に何枚目から何枚目まで書いたということだけつけていて、それによるとそういうことになっている、というわけです。
 で、7月頭に300枚ぐらいで再び前に進まなくなって、3稿のワープロ入力に移ることにした。これはもういつも同じなのだけれど、書いていてどうしても先に進まなくなった時点で、次の稿として最初から書き直す。書き直すときには3分の1か半分くらいを残しつつ、他を情景とかすべてやり直す。そうしていると、前に全然進まなくなったところまで来たときには、100枚が120枚から150枚くらいなっていて、前回進まなくなったところは自然とクリアできている。『草の上の朝食』で、ワープロが3稿目だったということは、進まなくなったときが2回会ったということ。で、仕事に戻ってペースはダウンして、8月半ばに一応完成して「群像」の編集の藤岡さんに渡したのだけれど、「ぼく」と工藤さんとのセックスのシーンが多すぎると言われた。その原稿はもう残っていないから正確なところは憶えていないけれど、毎日「ぼく」は工藤さんの部屋に通って、毎日いろんな体位でセックスしていちゃいちゃしていた、と思う。そして「ぼく」は工藤さんから料理を教わって、みんなのいるアパートに帰ると料理ばっかりする。そのあたりを省略した形で、もう一度おもに後半を書き直したのだけれど、さすがにうんざりして、9月は手をつけなかった。
 そうしたら、10月1日の夜に、よく話題にするチャーちゃんが迷子の子猫で裏道をうろうろしているところを拾って、チャーちゃんのなんだかものすごい明るさに感激して、後半だいぶトーンを変えて書き直すことができた。そういうわけで、本当に仕上がったのは11月の半ば。チャーちゃんという猫は私にとって、本当に重要な存在で、チャーちゃんがいたあいだ、私は自分の明るい気分はすべてチャーちゃんから与えられているような気持ちがしていた。だから、彼が96年12月に思いがけない若さで死んだとき、私は私の明るさも一緒に死に、もう明るい気分が戻ってくることがないんじゃないかと思って、実際、半年以上毎朝暗い気分で目が覚めていた。
                  
以上