季節の記憶・前編
1.書いた期間のことなど

 この小説はやっぱりなんといってもいろいろな意味で一番重要な小説だと思う。今のところ。1994年10月後半に書き始めて最終的に仕上がったのは95年12月20日頃だった。
 ほかのところでも書いているとおり、当時私は芥川賞をとることはあきらめたというか、自分から放棄することにして芥川賞の候補の対象にならない長さの小説を書くことにした。芥川賞はよくは知らないけれど400字換算200枚ぐらいが長さの限度で、それを超えると対象にならない。何しろ芥川賞というのは、新人に「よく書けました」という賞で、別に一年を代表する作品に与えられる賞でもなんでもない(そこのところが新聞記者あたりでも誤解されている。ましてやテレビ関係者をや)。新人に「よく書けました」というのには、200枚ぐらいがいいところだろう。
 もともと日本文学には推敲に推敲を重ねた、無駄を省いた短篇を「よし」とする伝統がある。私はそういう小説の美学とは全然違ったところで小説を書き始めたのだった。でも、ほかで書いたことの繰り返しになるが、知名度、部数の面で芥川賞はほしい。短い小説を書いているかぎりどうしてもその気持ちがちらついてしまうので、そういうことと無縁な小説を書くことにした、というわけ。
 それに私は短篇で少しずつ準備をして、それらを総合する形で長篇を書くというのは違っていて、いきなり長篇で何かをして、その余波で短篇を書くという傾向があると思っていたので、何かをするには長篇の方がいい。それに長篇だといったん始めたら長期間それをつづけられて、新しい設定を考える手間がない。(と、こういう風に、あの頃考えていたことは間違いないのだが、しかし、これは案外いい加減な自己認識で、これより前に書いた『コーリング』なんかは、はじめての三人称をいきなり長篇でやらないで、短篇でやっている。それに、『夏の終わりの林の中』の方に書いておいたとおり、1年前に書いている『夏の終わり……』は『季節の記憶』に先行する『季節の記憶』のエッセンスだけのような関係になっている。しかし、『季節の記憶』を書いているあいだ、私は『夏の終わり……』が『季節の記憶』に先行しているなんて、本当に全然気がついていなかったのだった。しかもさらに言えば、「これが最後の一人称小説だから、いままでのことを全部詰め込もう」とも思っていた。いったいどこが「いきなり長篇で何かをして」なのかと言いたくなる。しかし、そういう気持ちだったし、現に「何か」はしたのだ。たぶん。)

 途中にいろいろなことがあった。230枚くらい書いたところで、阪神大震災があった(第1稿の230枚くらいというのは、美紗ちゃんがイルカの空間認識にしてしゃべっているところだったと思う)。私は阪神大震災でちょっとずっこけた。というのは、はじまりのあたりの松井さん、美紗ちゃん、僕の会話で、松井さんが「この仕事もマンネリになってきて刺激がなくなった」と言い出して(文庫27ページ)、美紗ちゃんがルワンダとかザイールとかにボランティアに行って井戸でも掘ればいい、と言うのだけれど、これがあんまりにも阪神大震災の状況と重なりすぎてしまったのだ。
 第1稿ではたしかこの部分はもっと長く書いてあったし、私は井戸掘りの方法について2、3人から話を聞いたりもしていた。しかしそれではまるで、阪神大震災があったからそんなことを考えたみたいだったので、この部分はさらりと流さざるをえなくなった。私が逆の発想をする人間だったら私の小説はもっと売れるかもしれないけれど仕方ない。私は現実に起こっている事件や出来事に触発されて考えるのが大嫌いなのだ。「犯罪ぐらいすべておれがシミュレーション済みだ。だから犯罪を犯すおまえになんか創造性のかけらも認めない」というのが私の心意気のつもりで、災害にしても基本的に同じことだ。それにもちろん、松井さんの「カエルの目玉じゃないんだ」という気持ちもある。そして結局私はなかば定期的に子猫を拾ったりして、生活を世間的にはものすごく些細なことにさかれていくのだが。
 そして毎度のことだが、300枚を過ぎたあたりで手書きの第1稿はどうにも進まなくなって、全体の流れを1枚の紙に書き出して見渡してみたりした揚げ句、結局このまま書きつづけるのを諦めて、第2稿としてワープロに入れ出すことになった。それがちょうど3月1日。300枚を直しつつ打ち込んでいけば、そのうちに打開策が思い付くだろうというのがいつもの私のやり方だ。
 ところでその第1稿の300枚というのがいったいどういうあたりだったのか、今ははっきりとは憶えていないけれど、たしか離婚して返ってきたナッちゃんに関係している部分だったと思う。ナッちゃんは、私がはじめて書く「あまり好感の持てない人物」ないし「苦手で僕の手にあまる人物」として登場させてはみたものの、書いている作者本人の手にあまってしまったのだ。私は好きじゃない人物を本当に書けない。いっそもっと嫌えるキャラクターだったらよかったのかもしれないが、ナッちゃんはそういうキャラクターでもない(それでも完成品を読んだ妻は「こんな書き方されてナッちゃんかわいそう」と言った)。とにかく第1稿では、美紗ちゃんとナッちゃんはもっと密につき合い、美紗ちゃんの手にもあまってしまい始めるのだが、そこで作者の手にあまってしまったのだった。
 オウムの地下鉄サリン事件が起きたのは3月20日だったが、オウムの方は小説の進行や中身に影響なかった。私は朝10時くらいから午後2時くらいまで、オウムの報道に関係なくたんたんとワープロを打ちつづけた。やっぱりああいう事件に基本的に関心が薄いのだと思う。私はひたすらたんたんとワープロを打ちつづけていた。ほとんどほかの仕事もなく、月に1、2度、月刊誌『太陽』の映画評のページのために銀座あたりの試写会場に行く程度、そのほかにはほとんど電車にも乗らなかった(テロの第2弾がどこで起こるかわからないので、極力電車や雑踏には行かなかった)。そして3時すぎに毎日頸椎ヘルニアのリハビリの首の牽引に歩いて20分の病院に通う。93年の年末になったヘルニアをあの頃まだ引きずっていて、ちょっと無理をすると背中の筋が痛くなるのだった。
 で、5月8日、つまりゴールデンウィーク明けの月曜日、私は病院からの帰り道、豪徳寺の山門の脇に段ボールに入れて捨てられていた4匹の子猫を拾ってしまうことになる。生後1ヵ月くらいの手のひらに軽く乗るような子猫たちだ。このときは妻の部屋に大きな段ボールで家を作って、その中で飼い始めた。というか、そこで飼って里親が見つかるのを待った。これがじつに順調で、1週間で2匹がもらわれ、12日後の5月20日には残った2匹ももらわれていった。この間の2週間弱、3、4日の中断はあったけれど、それでも全体としてはやっぱりたんたんとワープロを打ちつづけた。6月もたんたんと打ちつづけた。7月も打ちつづけていた。で、18日の夜に芥川賞の受賞が決まり、行動だけ記録しているノートによると、9月の17日までまったく再開できない状態になったのだけれど、この、ちょうど2ヵ月の中断は、中断の渦中にいた当時も、ナッちゃんをめぐる書き直しにとって「よかった」と感じながらほかのエッセイを書いたりインタビューを受けたりしていて、そのあいだも頭を去来するのは、『季節の記憶』の書き直しのことだった。
 ということは、私はこの時点でまだ『季節の記憶』の方針とか構成とか展開とかを決めあぐねていた、ということになる。私はナッちゃんの部分をだいぶ減らしたり、和歌山の白浜温泉の蛯乃木のところをもっと笑えるように書き直したりして、第1稿の300枚をちょうど打ち直し終わったところだった。中断になったタイミングもじつによかったと思う。そして再開の1ヵ月後の10月20日頃にいったん完成したことになっている。そこからもう1度手直しして、11月末にもう1度完成。しかしそこからもう1度手直しして、最終的に本当の「完成」になったのが12月26日だった(らしい)。

   2.「僕」と「私」の問題

『季節の記憶』を最初私は、「僕」でなくて「私」で書き始めた。作者本人と同じ設定の38歳の男が「僕」というのはもうちょっと変なんじゃないかと思ったのだ。
 村上春樹はずうっと「僕」で通している。40歳になっても「僕」なんてことがありだろうか。それはカマトトというものじゃないだろうか。それで私は「僕」ではなくて「私」の方を使ってみることにしたのだけれど、20枚ぐらい書いてみてもどうも「私」はしっくりこないで、50歳すぎのおじさんのような気がしてしょうがなくて、結局「僕」に妥協して、というか日和って(?)、「私」をやめて「僕」にした。「僕」にしてみたら違和感はきれいに解消したけれど、それは作品を書くという行為の中に限定した話であって、作品に対して距離を置いてみると、「僕」という一人称に対しては違和感があった。しかし結局、99年の6月に『生きる歓び』で「私」と書くまで、私は「僕」を使いつづけることになる。(ただし、評論の『羽生――21世紀の将棋』は例外。)
 余談だけれど、全共闘世代は50歳になっても「僕」を使う。村上春樹、池澤夏樹、荒川洋治……。なぜか村上龍だけは最初から「私」だったような気がする。それに対して、1960年代生まれ以降ぐらいになると平気で「私」と書く。私自身はもう数年、小説でもエッセイでも、ふさわしい一人称が「私」なのか「僕」なのかわからない状態がつづいているけれど(だから「ほさか」なんて書いたりすることもある)、「私」という一人称は使い慣れてくると、けっこう「俺」に近い気分で使えるということを最近発見した。
 ついでにいうと、手紙では30代半ばくらいから「私」になっている。手紙で「私」と書くとき、私はなんだかとても無責任男のような気分になって楽しい。全体に若い男が「私」と書いているのを読むと、私は無責任男が書いているような気分になる。つまり、キッチュであったり、借りものであったりする感じがすごく強調されているように私には見えるのだ。本人たちはそんな風な意識を持っていないはずだけれどしょうがない。若い男の考えることは借りものなのだから。と言って、五十男が「僕」というのを読むと、これまた責任の放棄のように見えてしまう。無責任男は精一杯頑張ってみても無責任なのだからどうしようもないけれど、「責任の放棄」はまずい。作家で50歳になったら、個人の実感だけを頼りに書こうという姿勢は甘いと思う。本人がいくら無関係な風を装ってみても、50歳をすぎた作家はいろいろな社会性を負わされているのだから。
 そういうわけで、小説を書くとき、作者というのはこんなどうでもいいようなことでかなりこだわる。
「『私』か『僕』かはどうでもいいことなんかじゃないですよ」という好意的な読者もいるだろうけれど、太宰の『斜陽』『人間失格』、三島の『仮面の告白』、北杜夫の『幽霊』、新潮文庫のカミュの『異邦人』、大江健三郎の『万延元年のフットボール』『懐かしい年への手紙』……等々の一人称が「僕」なのか「私」なのか、全部思い出せますか? この中には三人称が混じっているかもしれません。私なんかは大江健三郎の小説が『宙返り』以前、すべて一人称で書かれていたなんてことさえも、本人のエッセイを読むまで忘れていたというよりも気がつかなかったくらいだった。
 このこだわりは、結局作品の出来とか世界にどこまで関わるか、ということ以前に、作者の自己像の問題なのではないかと思う。「自己像」と言っても、「作家としての自己像」「語り手としての自己像」というようなことで、普段のその人と関係しつつもやっぱり「書く」という作業(時間、行為される時間)に限定しての自己像だ。
 書き言葉と自分との距離感といってもいいかもしれない。「『僕』として読まれたいか」、なのではなくて、「『僕』として書きたいか」どうかということだ。だから、書く方がこだわるほどには読む方は気にしていない。何しろ女性はほとんどの人が10代から「私」ないし「わたし」で文章を書き、日常使っている「あたし」で書こうと思う人はまずいない。「あたし」は宇能鴻一郎ぐらいのものだ。もっとも、最近では「僕」という一人称を使いたがる女性もいるけれど……。それはやっぱり目立ちたいということなのではないかと思う。私は最もひっかかりがなくて、読者が「私だったっけ? 僕だったっけ?」と、忘れてしまうような一人称を使いたい。

     3.人物

 私がいつも小説で一番悩むのは、登場人物たちの関係や職業だ(人物の性格ではなくて)。「ストーリーがないんだからそこにしか悩みようがない」と言われればそのとおりかもしれない。
「ありそうでなさそうで、なさそうでありそうで、ありそうでなさそうな人物の関係」というのが「好き」というか、そうでないとなんだかリアリティがない。何故なんだろうか。自分でもわからない。しかし「自分でもわからない」ことにこそリアリティがある。リアリティというのは、自分ではどうしても分析しきれないものなのだ。
「父と子の二人」というのが最初に思いついて、これはすぐに決定だった(しかし、思えばとてもありふれた設定で、かなり危険な選択だったかもしれない)。舞台が鎌倉というのはそれ以前に決定していた(これについては後述)。
 その二人にどういう人間を絡ませていくか。はじめに考えたのは、「夏のあいだだけ海でアイスクリーム売りをして、ほかの季節は何もしない」という人だった。「これでいけるだろうか」「冬は焼芋屋をやったりしないだろうか」などと考えているうちにたぶん「便利屋」という職業を思いついた。
 鎌倉に石田君といって、親の仕事を継いで板金をやっている私より1歳年下の男がいる。石田君は板金からはじめたのに、まわりの知り合いからあれこれ家の補修を頼まれたりしているうちに、けっこう研究心が旺盛なのも手伝って大工仕事全般ができるようになってしまった(私が前に済んでいた築30年以上と思われる借家も、95年と96年の2度、本の重みで沈んだ床の補修をしてもらった。あ、そうそう、外壁が剥がれかけてそれを塗ってもらったこともあった)。『夏の終わりの林の中』の稲村ガ崎に住んでいる佐伯さんの家の雨漏りする屋根にブルーシートをかけたのも石田君だ。何度も繰り返しているけれど、佐伯さんは実在する「たらば書房」の伊藤さんがモデルになっていて、伊藤さんの借家には本当にブルーシートが掛けられていた。
 私は自分では大工仕事みたいなことはほとんど何もできない。しかし私の父は、大工仕事だけでなく、セメントもこねるし、ブロックも積めるし、ペンキも塗れる。私の母方の親戚は画家もいるけれど基本が職人だ(私は画家も職人だと思うし、私の小説の書き方も職人のやり方にちかいと思っている)。中学のときに父が隣との境のフェンスを立てるのを手伝いながら「自分も大人になるとこういうことができるようになっているんだろうか」と思ったことをよく憶えているけれど、結局私自身はいくつになってもこういうことができないままだ。
 この石田君のような技能というのは『キャットナップ』のガイラさんも持っていて、ガイラさんが借家の押し入れの天井を抜いて、二階に通じる階段を作ってしまったのも本当の話だ。ついでに言うと、私の哲学というか考えること全般の先生である同級生の樫村晴香もこういうことが得意で、彼が20代後半に住んでいた家は、鉛の管を家中に這わせてセントラル・ヒーティングになっていて、そのすべてを彼が一人でやった。樫村は仙台に学生下宿のアパートを1棟所有していて(彼はバブル前夜にこの下宿を買って、生涯この家賃収入で食っていこうと目論んだのだが、バブルも消え去り、いまはこの下宿の経営に苦慮している)、工務店に外注するカネがないので自分でペンキを塗ったりエアコンを取り付けたりしている。
 こういう風に書き並べてみると、大工仕事みたいなことができる技能を持っているということは、私にとっては、じつは「ただならない能力」ということになるのかもしれない。『季節の記憶』の松井さんの便利屋という職業を読者は「おもしろい思いつき」ぐらいにしか思わなかっただろうけれど、作者本人にとってはもっと重要な意味があったのかもしれない。それはもしかしたら職業だけで「尊敬に値する人物」という意味が込められていたのかもしれない。(繰り返しになるが、こういうことは本人だからといって完全にわかっているわけではないのだ。本人も読者と同様、後追いで推測するしかない。もっとも本人は読者より本人にまつわる情報をたくさん持っているので数段有利ではあるけれど、鋭い読者だったら本人の気がついていないところまで気がつくだろう。)
「便利屋」という仕事にはそして同時に「何をやっているのかわからない」という側面がある。その最たる人物が、このホームページの管理者であるところの高瀬がぶんさんだ。私は「何をやっているのかわからない」という人のことも尊敬する。一所懸命働いてカネがあっていい家に住んでいるのは当たり前だ。それが社会が強調する労働と収入の因果関係だ。当たり前の因果関係の中で生きている人を私は生まれてこの方一度も尊敬したことがない。大事なことは既成の因果関係の中で頑張ることではなくて(それは強化することにしかならない)、それを覆すことだ。「一所懸命働けばいい家に住める」なんてことは誰でも言える。
 高瀬さんの隣に住んでいたのが「たらば書房」の伊藤さんで、伊藤さんが91年頃に飼いだした猫の「イッちゃん」を介して、伊藤さんと高瀬さんのつき合いが始まり、伊藤さんと一緒に私も高瀬さんの家に行くようになった。高瀬さんはいつ行っても炬燵に座っていて、話し出して10分もすると、量子力学とか時間と空間の話とかになっている(もっとも「湘南の歴史的変遷」というのもあって、これがまた話し出すと長い)。これは前述のガイラさんも同じで、話が突然抽象へと舞い上がる。もっとも私自身も同じことをやっているのかもしれないけれど、人の話がそういう風に日常と抽象を平然と行ったり来たりするのを聞くのは面白い。伊藤さんは量子力学の話はしないけれど、独特にわかりにくい抽象的な話をする。もっとも伊藤さんの抽象的なわかりにくい話は3年か4年前あたりからパッタリと聞けなくなってしまったけれど。
 そういうわけで、松井さんは石田君とガイラさんと伊藤さんと高瀬さんをブレンドした人物だ。

 その松井さんに関係の深いもう一人の人物がほしい。私の発想ではその人物というのは女性以外にありえないのだが、この理由もまた本人にはわからない。
 夫婦というのは論外だった。理由を詳しく考えるほど夫婦を出す可能性について検討したことがないのでよくはわからないのだけれど、夫婦というのは私には複雑すぎるように感じられてしまうのだと思う。夫婦には無条件なところがない。親子や兄弟というのはもっと無条件に見える。逆に友達というのもダメになったら離れればいいだけのことで、安心していられる。夫婦は維持するのに神経を使い、離れるとなったらまたそれで大変な労力を使う。夫婦は私にはつねに本質的な危機が孕まれているようで、そんな関係を小説に持ち込んだら疲れてしょうがないと判断したのだろう。
 しかし松井さんともう一人の女の子との関係を「兄妹」には本当はしたくなかった。できれば九州あたりから勝手に家を出てきた親戚の姪っこという関係にしたかったのだけれど、そうなるとセックスを想像する読者が出てくるだろう。『この人の閾』でもセックスをするかしないかばっかり考えて読むような人がいっぱいいたのだ。セックスを持ち込んだら結局夫婦と同じことになってしまう。話がそればっかりになってしまう可能性がある。そういうわけで、読者が絶対にセックスを想像しない関係は何かといったら、「兄妹」か「父娘」のどちらかしかなく、私は「年が20歳離れた兄妹」という、めったになさそうな方をとることにした。
 この私の説明を読んで「だって、あの小説でセックスのことを考えるような人はいないよ」と考えた人がいたとしたら、私の設定が成功したということだ。二階堂とか、松井さんが見つけてきたクリーニング屋の女の子とか、あるいは美紗ちゃんにかかってくる電話の相手とか、セックスを想像させるものは『季節の記憶』の中にはじつはけっこういろいろ書いてあるのだけれど、僕・息子・松井さん・美紗ちゃんの4人の中にはセックスの気配はまったく持ち込まれていない。
 美紗ちゃんは『プレーンソング』のよう子とゆみ子を合わせたような重要性をこの小説で担っている。だからたぶん現実には存在しようがないような女の子だろう。この小説が今後かりに長く長く書き継がれるとしたら、松井さんや僕が結婚したりどろどろの恋愛をしてしまったり仕事がものすごくうまくいかなくなったとしても、この小説世界は維持されるだろうけれど、美紗ちゃんが結婚していなくなってしまったら、この世界はつづかないだろう。もっとも、美紗ちゃんのことだから、結婚しても同じ家に住み続けるか、稲村の近所に住むことになるだろう。たぶん結婚相手は根性のないふやふやしたタイプで、松井さんの仕事を一緒にやったりするのだろう。

 さて、クイちゃんこと圭太だけれど、私はいままでずうっと「クイちゃんはうちで飼っていたチャーちゃんだ」と言ってきた。これは半分は本当だけれど、半分はウソだ。しかしウソの方の半分はやっぱり本当だ。
 92年の10月1日に近所で迷っているところを見つけて、声を掛けるといきなり私のジーパンによじ登ってきたチャーちゃんは、私と特別ウマが合った。チャーちゃんは影が微塵も感じられないくらい(猫にもけっこう影がある)、明るくておっちょこちょいで、私はチャーちゃんのことが本当にかわいくて仕方なかった。「こんなにかわいい子はもしかしたら不幸になるんじゃないか」と、うっすらといつも感じてしまうくらいにかわいくて仕方なかった。かわいすぎるために、「こんなにかわいい子はもしかしたら不幸になるんじゃないか」と感じてしまうようなことも、チャーちゃん以前に経験したことがなかった。だいたいチャーちゃんは明るくておっちょこちょいなのに。しかも「幸せすぎて怖い……」というような感覚は、もともと私にはない。私はあくまでも「幸せなものは幸せ」と感じるはずの人間だったのだが……。
 で、そのチャーちゃんのことを近所の友達は「チャーちゃんて、保坂君に似てるよね」と言うのだった。
 で、その頃、まだ2歳くらいだった甥っ子(妹の子ども)が、これがまた明るい性格でおっちょこちょいで、私は甥っ子を見て「チャーちゃんそっくりだなあ」と思った。私の父と母は甥っ子を見て、「和志そっくりだ」と思っていた。つまり、チャーちゃんであることは甥っ子であり、保坂和志であるということなのだった。
『季節の記憶』を最初に読んだのは妻で、妻はクイちゃんのことを「これって、チャーちゃんじゃないの」と言った。私は「バレたか」と答えた。
『季節の記憶』を読んで私にクイちゃんと同じ年頃の男の子がいると思い込んでしまった人はいっぱいいる。「子どもがいないのにどうしてあんなに書けるんだ」と言った人もいっぱいいる。私はチャーちゃんと生活しながら、自分自身の子どもの頃をついいろいろ思い出していたんだろうと思う。クイちゃんは私の幼児期の記憶とチャーちゃんがやっていたことの人間への置き換え、という二つの合成の産物だ。まあ、あとはテレビの「はじめておつかい」なんかを見ながらの観察もあるけれど。
 その逆に、「子どもってこんなもんじゃない」と言った人もけっこうたくさんいた。私は「それはそうだろうな」というか、「そういう感想も当然あるだろうな」と思った。『プレーンソング』を読んで、こんなことを言った人もいた。
「よう子ちゃんという女性と共同生活していて、女性だけに関わるいろいろなことが書かれていない。たとえば、生理はどうしたのか」
 この感想を聞いて私は「へえー」と思った。ミステリーでものすごい殺人鬼なんかが書かれているのを受け入れる人がどうして、よう子ちゃんの生理や、クイちゃんがじゅうぶんに子どもの写実になっていないということを指摘するのか。クイちゃんがどうして自分の育てた子どもと同じでなければいけないのか。どうして自分の子どもが考えなかったようなことをクイちゃんが考えてはいけないのか。
 これにはしかし一つだけ、フィクションと読者の重要な関係が表われている。
「さあ、これからフィクションを始めますよ」という書き出しで小説が始まると、たいていの読者は「はいはい」と言って、そのモードを受け入れる、というか積極的に自分をその小説のモードにチューニングする。それに対して私の小説の場合、けっこうみんな「本当のこと」と思って読む傾向がある。フィクション・モードにチューニングしようが、「本当のこと」モードでつい読んでしまおうが、読んでいる過程ではじつは気分は同じになっていて、ありえないような殺人鬼や高知能指数や強烈な恨みを土台にして書かれたフィクションでもそれなりに「リアルだ」とか「こんなのリアリティがない」とか思って読んでいる。つまり、土台がフィクションであることを忘れている。その点で、「読む」という行為はものすごく素朴な感想の持続なのだ。
 で、私の小説を読んで「(自分の子どもと比べて)こんな子どもはいない」というような感想を言う人は、自分がフィクション・モードで読んでいると思いつつ、「本当のこと」モードに陥っていることに気がついていない。完全に「本当のこと」モードだけだったら、「へえ、こういう子どももいるんだねえ」と思うだろう。「こんな子どもいない」と言うことは、フィクションであることを意識している。しかしその意識が徹底されていない。何の変哲もない日常を描く小説だから人物たちも何の変哲もなければいけなくて、そこで自分の子育ての経験だけが突然前に出てきてしまっているのだ。
 松井さんのような人や美紗ちゃんのような人は本当にいるだろうか。小説に描かれる大人に対して、子どもには偏見があって、可能性がかなり限定されていることを、「こんな子どもいない」という感想は表わしているのではないかと思う。……ちょっと論旨がわかりにくかったと思いますが、私は人間のあるがままの姿を描きたいと思っているわけじゃなくて、やっぱりフィクションとして登場人物たちをある意味で将棋の駒のように使って(誤解されがちな表現だけど)、それによって何かを描こうとしているわけです。もっとも、10人が感想を言って、8人までが「こんな子どもいないよ」と言うような子どもは、やっぱり私の小説の場合、論外だけど。(以下、後編へ)

以上
後編

 
『季節の記憶』後半

   4.場所を鎌倉にした理由

 鎌倉は海があるけれど山もある。松井さんのモデルの一人であるところの、「たらば書房」の伊藤さんは山歩きが好きで、休みのときには何人かで八ヶ岳とか黒駒とかに登って、温泉につかって帰ってくる。
 その伊藤さんが鎌倉の山歩きも好きで、94年の秋分の日に北鎌倉から歩いて行けるところにある“沼”に私を連れて行ってくれた。開発された場所の道路から下に降りると藪があって、その藪を掻き分けて行くと、“沼”に辿り着く。地図にも載っていないような、周囲百メートルかそこらの沼で、薄暗くてじめじめしていて、たまに「キー」とかなんとか言うような啼き声がどこからともなく聞こえてくるようなところなので、楽しくもなんともないので観光客なんかは誰も知らない。
 でもそういうところはじんわり楽しい。子どもの頃、鎌倉の山に入っていって“探検”していたことなんかを思い出したり、そういう子ども時代の記憶と離れて、いまままさに大人としての感覚でもやっぱりどこか探検めいていて楽しい。前に2回ぐらい来ている伊藤さんが「あれ? こんなところにこんなものあったかなあ」なんて言うのを聞いているのも楽しい。結局、「子ども時代の記憶」なんかじゃなくて、いまがそのまま子どもと同じになって楽しい、ということなのだろうか。とにかく楽しいのだ。
 その秋分の日の“沼”の約1ヵ月後に私は『季節の記憶』を書き始めることになった。書き始めた時点で、「今回は景色をいっぱい書こう」と決めていた。僕、息子、松井さん、美紗ちゃんという4人を決めたのとほとんど同じくらいに「景色をいっぱい書こう」と決めていた。「そうすれば猫を書かないで済むかもしれない」とも考えていた。
 最近はようやく認知されてきたみたいけれど、私が小説の中で書く猫は、あくまでも「猫」であって、何かの「比喩」ではない。猫は猫であって猫以上でも以下でもない。つまりありがちな小説のように、猫によって人間の心情が代理されたり、小説の展開が予感されたりすることは全然ない。この了解を得るまでの時期は本当に面倒臭かった。「猫はいったい何を意味するのか」。だったら「子どもは何かを意味しなければいけないのか」「母親は何かを意味しなければいけないのか」。もっとも私は、文学の流儀に精通して小説を書き始めたわけではなかったので、「猫はいったい何を意味するのか」という批判の意味が本当言ってよくわからなかった。
 よくわからなかったけれど、猫を書くことによって「私の悩み」「私の孤独」「私の苦労」……といった「私」がんじがらめの小説と別のものになっていることはよくわかっていた。もちろんこの「私だらけ」は日本文学のごく一部しか指さない偏見だけれど、ごく一部のわりにはこの偏見はけっこう根強く広く、日本人の心に定着している。つまり、「日本文学って、暗いよね」という言葉だ。
 私が『プレーンソング』で猫を登場させたのは、あんまり深い意味はなくて、「猫を登場させてみたかった」からだけなのだが、その効果はわかった。で、ただ「登場させてみたかった」だけの猫も、続篇の『草の上の朝食』を書いたり、『猫に時間の流れる』を書いたりしているうちに、もっと積極的な意味を考えるようになっていた。つまりは、「猫を猫として本気で書いてみると、小説の言葉がいかに人間中心に出来上がっているかよくわかった」ということで、その「人間中心」であるところの小説にそれ以外のものを入れると、「ディスクールの質が必然的に変わる」ということだ。「ディスクール」とは簡単に言うと、「言葉」「しゃべられる言葉」「書かれる言葉」というような意味です(「体系としての言葉」とは少し違う)。
 で、景色というのもたいていの小説では猫と同じような扱いしか受けてきていない。ひどい場合には、景色は小説の導入で書かれて、最後に書かれるだけだ。
「彼が歩いて行く後ろには、険しい山がこれまでと変わらずそびえ立っていた」なんて。
 景色を書くことでどのような効果が生まれるか、というようなことはわからなかった。ただ、書いたことのないものを書くことは面白い。山を見て、「これをどういう風に書くんだろう」と漫然と考えてみても見当がつかない。いざ書いてみると、「ブロッコリーみたいにこんもりしていた」なんて、描写にもなんにもなっていない信じられないようなことしか書けない。「どう書けばいいかわからない」となると、(私の場合)ほとんど必然的に「見えたものを順番に書いていこう」という発想になる。ここが気持ちいい。頼るものが何もないので、「書く」に任せるしかない。
 しかしやっぱり山の景色というのは猫よりずっと難物で、部分と全体のバランスがなかなか取れない。で、そうなると今度は山を見ているときの自分の気持ちも動員することになる。
「自分の気持ちを書きたくて山を書く」のではない。
「山を書くために自分の気持ちも書く。そうしなければ山が書けない」のだ。
 でもそうなると、自分の記憶の中にある山の風景では追いつかない。『季節の記憶』では海にも山にも散歩に行くけれど、海の方は苦労しなかった。中学一年から大学を6年かかって卒業するまで、私はほとんど毎日犬を連れて海まで散歩していたから、海の波の違いや砂浜の変化はよくわかっている。しかし山の方はそれほど密ではないし、海より山の方がずっと変化に富んでいるし、こまごまいろいろな要素がある。そういうわけで、書き始めてかれこれ2ヵ月というところで、私は伊藤さんに頼んで、伊藤さんと一緒に稲村ガ崎の山に登った、というか入っていった。使い捨てのカメラを持って。
 木の形というのは、不思議なほど記憶できない。記憶に頼ると鎌倉の実家の庭の木になってしまう。形をきちんと記憶している木はそれぐらいしかない。だからカメラでちゃんと撮ることが必要で、カメラで撮った木のほうが実際に木の前で書くよりも書ける、ということも発見した。これは邪道かもしれない。木をスケッチするときに、いったん写真にとったものをスケッチしたら邪道だろう。小説の描写も同じことじゃないかと思うけれど、私にはどうしてもできなかった。本気でスケッチするように腰を据えたらまた別だったかもしれないけれど、実際に木の前に立つとふらふらアングルが変わって、一つの像にならないのだ。写真だったら一度決まったアングルが動くことはない。
 余談になるけれど、友人の樫村晴香が『現代思想』で私とした対談の中で、
「石灰岩地帯に広がるガリグと呼ばれる低木林に一日いると、太陽の高度と雲の動きに従って、植物と空気が刻々と色を変えていくのが観察できます」
 と言ったあとで、
「私の場合、その光景に没頭しながら、実は見えるすべてを言葉に記述しつづけ、想像上の他者に送っているらしいことに、後で気がつきました。日が沈み、周囲が暗くなった後で、日が沈みだしてからの刻々たる情景変化を、すべて言葉で再現することができるからです」
 と言っている。
 作曲家の加古隆もNHKの「スタジオ・パーク」で、「自然の風景が一番好きだ」と言った後、「夕焼けで赤く染まった雲も好きですし、秋の空の高いところで白くくっきりと刷毛で引いたようになっている雲も好きですし、……」みたいなことを、まるで文字で書いたみたいに正確に澱みなくしゃべったので驚いた。
 私は樫村や加古隆みたいに情景を的確に再現することはできない。こういうとき、頭の性能の違いを実感する。私は自分より格段に優秀な人間を見るとうれしくなる。性能の違いというのは厳然とあって、それはもう嫉妬したりするような次元ではない。その性能の違いが、情景を再現するときに現われている、ということもまた面白い。自然というのは、やっぱり人間にとって「何か」なのだ。モーツァルトは木の中を樹液が流れる音まで聞こえた、という神話があるけれど、自然からどれだけ情報を得て、どれだけそれを再現できるか、というところに人間の能力が反映していて、それと同時に人間の能力も磨かれるんじゃないだろうか。
 そういうわけで、私は一度写真に撮って、自然にある情報を減衰させたところでそれを文字に書く、という邪道をしなければ鎌倉の山を書くことができなかった。小説の中で最も印象的に書かれている赤い実をつけた「モチの木」は、じつは鎌倉の山で見たのではなくて、朝日新聞社から刊行されていた「週間・植物の世界」という雑誌から見つけたものだ。本当に好きな写真で見ているうちにだんだん彼らが歩く山に生えているような気がしてきてしまったのだ。すいません。
 まあとにかくそういうわけで、『季節の記憶』ではじめて猫を出さずに人間以外のことにたくさんの言葉を費やすことができて、しかもそれが人間について書いている部分と遊離しないことを確認することができた。
 もっとも『夏の終わりの林の中』のノートの方に書いたけれど、『季節の記憶』に先行して『夏の終わりの林の中』という木や草ばっかり書いた小説があった。しかし私は『季節の記憶』を書いているあいだ『夏の終わりの林の中』との関係にまったく気がつかなかった。『残響』のノートに、2匹の猫が野瀬俊夫夫婦が置いていった猫なのではないかという可能性をまったく考えなかったということを書いたけれど、書いているあいだというのは不思議なことに、まったく頭が働かない方向というのがあるらしい。

 ところで小説の舞台を鎌倉にした理由は景色を書きたかったからだけではない。
 人間というのは大人になっても子どもみたいなところがあって、ある時期なんだかやたらと親しくなって行き来していたかと思うと、理由もなく潮が引くようにつき合いが疎遠になっていく……。つき合いが疎遠になったことの理由がはっきりしないのと同じくらい、じつはつき合いが密だったことの理由もはっきりしない……。でもとにかく密につき合っている時期は楽しい(私は義理でつき合ったりしないので、密につき合っているときは表面だけでなく単純に心から楽しんでいる)。
 93年94年頃の鎌倉の伊藤さんのまわりはそんな感じだった。いろいろな人が取り立てて用もないのに伊藤さんの一人暮らしの古い一軒家に出入りしていた。3人か4人で酒を飲んでしゃべっていると夜の12時すぎにガラガラと玄関の引き戸を勝手に開けて誰かが訪ねて来たりしていた。伊藤さんの一人暮らしの古い一軒家は鎌倉周辺の人たちの中心地だった。板金の石田君、美容師の笠さん、彫金の伊藤さん夫婦、逗子の生地屋の本保さん、たまに印刷の仕事やアドバルーンをあげる仕事が入る松本さん、横須賀の魚屋で写真家のチクマさん、発電所作業員のチワキさん、八百屋といっても別のネットワークを作っているらしい浦島さん、工場の生産管理の仕事が苦痛で仕方ない堀本さん……などなど、職業の平均値が全然とれないような人が寄り集まってくる。私はそういう場所が大好きなのだ。
 いろいろなところで書いたことだけれど、私が3歳11ヵ月まで育った山梨の母の実家は何人も職人を抱えた石屋で、祖父、祖母、伯父、伯母、従姉、従兄、従兄、母、私という基本の構成に(父は船員なのでいないのが普通だった)、事務のおじさんが入り、職人が入る……という一種の大家族だったので、人が鷹揚に出入りする家が私はものすごく好きで、ものすごい郷愁を感じるらしいのだ。こういう場所にいたり、こういう設定を思い描いたりしていると、頭の中できっとものすごくポジティヴな化学物質が放出されているに違いない。
 小説の中では、当時の伊藤さんの家ほど激しくいろいろな人が出入りすることはないけれど、とにかく伊藤さんの家と同じ稲村ガ崎に舞台を設定するというのは自分の気分を作る上で、ほとんど絶対的に必要なことだった。
 よく知っている場所にいろいろなものを置き換えていく(当てはめていく?)記憶術がある。中世の修道院なんかは、建物が全体として聖書を記憶するための装置だったという話もある。場所というのは、ねぐら、餌場、水場、危険な場所……など動物にとって特別に重要な意味を持っていて、そのメカニズムが人間になっても残っているのだとテレビで言っていた。だから人間もある場所に行くと忘れていたことを一気に思い出すのだという。それだけでなく、ある場所を思い描くだけでも忘れていた記憶を思い出すことができる。『季節の記憶』で私はこの方法を使ったということになる。記憶との関係を知っていて使ったわけではないけれど、場所や季節や時間をできるだけたくさん書くというのは、小説が書き手の最初の意図を越えていくものになるという意味でとても重要なことだということはわかっていた。それについてはいずれ『小説論』の方で書きます。なかなか手が回らなくてすみません。
『季節の記憶』を書き始めた94年の秋ごろというのは、伊藤さん周辺のこういう雰囲気のピークで、1年ぐらい前からその隣の高瀬さんの家への出入りも始まっていた。もっとも、94年の夏ぐらいに伊藤さんの古い家は取り壊しの期限が来て、伊藤さんは同じ稲村ガ崎のもう少し奥のあるけっこう普通のアパートに移っていたのだけれど、それでもみんなの頻繁な行き来はつづいていた。97年の2月に伊藤さんはそのアパートからもう一度、今度は佐助というだいぶ離れたところの古い一軒家に引っ越してしまうことになるのだけれど、頻繁な行き来はそれからまだしばらくはつづいていた。どうしてそれが「潮が引くように」、そうでなくなっていくのか、きちんとした理由があるわけではないだろう。さっき書いたように、大人も子どもと一緒で、急に親しくなってずうーっとつき合っているかと思っていると、なぜだか急にあんまり合わなくなってしまうものなのだ。
 その時期に私は、95年の7月に芥川賞をとり、『季節の記憶』で97年の6月に平林たい子賞、8月に谷崎賞をとった。授賞式の会場には、鎌倉の人間がいつも6、7人来ていて、そのうちの何人かは全然正装していなくて異彩を放っていた。私にとって、『季節の記憶』という小説は、伊藤さんの家にぞろぞろ人が集まっていた頃の記憶にもなっている。

    5.その他のエピソード

 白浜温泉でホテルのメンテナンスの会社を親の後を継いでやっている蛯乃木のモデルは、そのとおりの白浜温泉を中心にしてそのとおりの仕事をしている多田だ。
 多田と私が出会ったのはあいにく小説と違って『ガープの世界』の上映中ではなかったけれど、「宮沢賢治が農業によってみんなを幸せにすると言ったから、おれは事業によってみんなを幸せにする」というような蛯乃木の台詞は本当に多田が言った言葉だ。多田は驚くべきことに、本当にみんなを幸せにするために仕事をしている。そんなことを本気で考えることのできる日本人がいまの日本にいったい何人いるだろう。『季節の記憶』を読んで、蛯乃木という人物が読者にどれだけ「本当にいそうだ」と思われているかわからないけれど、かつて私が書いた登場人物の中で、最も本人に近く、最も小説家として脚色していないのが蛯乃木だ。多田には『季節の記憶』を書いている途中、何度か電話で蛯乃木のくだりを朗読して、本人(?)の多田に受けまくっていた。
 その蛯乃木がラスト間近に送ってきた会社紹介のビデオは私の創作だけれど、『季節の記憶』を読んだ木田先生――つまり哲学者の木田元――は、すっかり本当のことだと思い込んで、多田に「小説に出てきたビデオをおれにも送ってくれ」と手紙を書いたのだった。しかし、これは蛯乃木にかぎらないことなのだけれど、蛯乃木がビデオを作るというのはいったいどこまで小説家・保坂和志の創作と言えるんだろうか。蛯乃木=多田というキャラクターがいなかったら、私は「ビデオを作る」ということを考えなかった。松井さんの台詞にしろ美紗ちゃんの台詞にしろ、あるいは夕食を機嫌よく持ってきたつぼみちゃんが首を下に向けたまま動かさなくなってしまったという行為にしろ、そういう人物を書いている過程で思いついたことで、書く前からそういう台詞なり情景なりが私の頭の中にあったわけではない。
 しかし蛯乃木のビデオにはまださらに後日譚があって、本物の方の多田が本当に和歌山県紹介のビデオを作ってしまったのだ。タイトルは『ミナカテラステップ』。これは和歌山生まれのかの博物学者・南方熊楠が見つけた粘菌の名前だ。多田は地元の青年会議所のメンバーで、若い人たちに地元に就職してもらおうという意図で、このビデオを作った。驚くほどよくできている。しかし特別いいのは全篇に溢れる和歌山の夏の太陽の光だ。中身の面白さをはるかにこえて、「和歌山っていいところだなあ」と思う。で、ラストに製作に関わった人がえんえんアップで映る。これは『季節の記憶』で書かれたビデオとほとんど同じだ(もっとも多田は作っているあいだ蛯乃木のことなんか全然忘れていたらしいけど)。一人ずつ映るって、どうしてこんなにいいんだろう。一人ずつ映ることが無条件にいいわけではなくて、きっと、やっぱり、それの前提となる本篇が、その気分の基盤を作っているということなんだろうと思う。

 それからもうひとつ。自分で面白いと思えなければ小説を書き通すことはできないけれど、書き通してもなお、人が面白いと思うかどうかはわかなくて、「この人」と思っている何人かの反応を聞くまでは確信が持てない、という宙ぶらりんの気分がつづく。(「自分が面白いと思う」というのはやっぱりどうしてもアテにならない。1年以上も書いていると、「その時間と労力に対して寛容になっていない」という保証は、いくら自分に厳しくやっているつもりでも、自分ではできない。)
 で、『季節の記憶』のときの「何人か」のうちの重要な一人が小島信夫さんだった。このホームページを読んでいる人で、小島信夫をまったく知らない人はいないだろうとは思うけれど、よく知っている人もあんまりいそうもないので一応説明しておくと、小島信夫はここ30年ほどの日本文学で、三島由紀夫、大江健三郎と並んで、文学の流れを作ってきた人の一人だ。もっとも、三島由紀夫は一番オーソドックスな「文学」の系譜に位置していて、つまり、過去の文学の流れを素直に受け継いでいる。大江健三郎はサルトルから出発したくらいで、その後もブレイクとかガルシア=マルケスとかスピノザとか、一説によればカート・ヴォネガットとか、たえず世界文学の歴史と現在に目を凝らしてかなりはっきりとそれを移入する、という、ある意味でとても日本的な方法をつづけているので、やっぱり受け入れられやすい。
 ところが小島信夫となると書くものがとても奇妙なのだ。しかし『アメリカン・スクール』という芥川賞受賞作のタイトルからして、内容の奇妙さをまったく伝えていない。『アメリカン・スクール』と聞いたら、たいていの人は一時期流行った外国に住んだり外人と結婚したりした人の、少しおしゃれっぽい(?)日常小説ぐらいにしか思わないだろう。あるいはまた、「名前だけ知っている日本人作家」というイメージにありがちな、私小説作家と思っているかのどちらかだろう。しかし、作品は全然違う。どこがどうとはっきりとは言えないけれど、なんだかものすごく馬鹿気ている。主人公の気持ちはやたらと空回りする。しかし主人公を取り巻く世界は確かに、主人公に対して変に攻撃的な雰囲気を持っている。
 評論家の江藤淳は日本とアメリカとの関係みたいな小島信夫論をいくつか書いたけれど全然そういうことじゃない。突き詰めていくと、小島信夫本人がおかしいのだ。本人がおかしいからすべてのことがスンナリ進まず、もつれてゆく……。全然尊敬も何もしていない人間の言葉を出すのもどうかと思うが、手っ取り早いので使うと、蓮実重彦いわく、「戦後の日本人作家は、小島信夫がかろうじて二流か一流半、それ以外はすべて三流以下」だ。小島信夫は語りにくい。なぜなら、読んでいるという行為・時間の中に圧倒的に面白さがあるからだ。三島由紀夫や大江健三郎は読み終わった後にいろいろ言うことができる。書く以前に作者としての意図を強く持っているからだ。ところが小島信夫にはそれがない。だから三島由紀夫は小島信夫の小説を「気味悪い」と言った。ついでに言うと、深沢七郎の『楢山節考』のことも三島由紀夫は気味悪がった。
 話が長くなったが、その小島信夫が私のデビュー以前からの心の先生で、デビュー以後小島先生と私は親しいのだが、『季節の記憶』を書き始めた94年頃からとくに親しくなって、小島先生は何かあると私に電話をかけてきた。で、『季節の記憶』が最初「群像」に掲載されたときのことだ。
 まず「あなたの小説、今度の「群像」に載るんだったよね」と電話がかかってきた。
 次に、「「群像」が今日届いたので、これから読みます」と、午前中の10時頃電話がかかってきた。
 そして、2時すぎにちょっと外に出ていたあいだに留守電が入っていた。
「70ページくらいまで読んだところなんですけどねえ、ちょっとダレてきたので、少し休んでからつづきを読むことにします」
 あのときの「群像」が手元にないので「70ページ」だったか自信がないが、朝の散歩で海岸に行って、前夜の話を美紗ちゃんが思い返して「人間は特別じゃない」と言うところだ(文庫165ページくらいから先)。全体の半分より少し手前だ。
 言われてみると私もここはかったるい気がする。というか、こういう記憶はアテにならないけれど、書き上げた時点で作者として「自分に寛容でないと言いきれない」部分のひとつだった。お説教か講義みたいになってしまっている。小島先生はホント、すぐに弱点を突いてくる。だから評価がアテになる。
 で、翌日。「あのあとは最後までずうっと面白かった」という電話が入って、私は安心した。

 もうひとつ、おかしい裏エピソードがある。たまに文芸誌にエッセイを書いている日本文学研究者(大学教授)がいて、その人の書くことは本当に馬鹿で、「文学というものがわからないとはこういうことを言うんだな」と前々から私は思っていたのだが、その人が、『季節の記憶』が平林たい子賞に決まったあとで、選考委員の佐伯彰一さんに大学の中で話をしていたついでに、
「保坂和志のいったいどこがいいんですか」
 と言ったのだそうだ。
 そうしたら佐伯先生、答えて曰く、
「まず第一に頭がいい」。
 おかしいでしょ。「あんたは頭が悪いからわからない」と言ってるのと同じことだよね。念のため言っておきますが、この話を私に教えてくれたのは佐伯彰一先生ではありません。そこに居合わせもう一人の人です。
                   

                    以上