1.書いた期間のことなど
この小説はやっぱりなんといってもいろいろな意味で一番重要な小説だと思う。今のところ。1994年10月後半に書き始めて最終的に仕上がったのは95年12月20日頃だった。
ほかのところでも書いているとおり、当時私は芥川賞をとることはあきらめたというか、自分から放棄することにして芥川賞の候補の対象にならない長さの小説を書くことにした。芥川賞はよくは知らないけれど400字換算200枚ぐらいが長さの限度で、それを超えると対象にならない。何しろ芥川賞というのは、新人に「よく書けました」という賞で、別に一年を代表する作品に与えられる賞でもなんでもない(そこのところが新聞記者あたりでも誤解されている。ましてやテレビ関係者をや)。新人に「よく書けました」というのには、200枚ぐらいがいいところだろう。
もともと日本文学には推敲に推敲を重ねた、無駄を省いた短篇を「よし」とする伝統がある。私はそういう小説の美学とは全然違ったところで小説を書き始めたのだった。でも、ほかで書いたことの繰り返しになるが、知名度、部数の面で芥川賞はほしい。短い小説を書いているかぎりどうしてもその気持ちがちらついてしまうので、そういうことと無縁な小説を書くことにした、というわけ。
それに私は短篇で少しずつ準備をして、それらを総合する形で長篇を書くというのは違っていて、いきなり長篇で何かをして、その余波で短篇を書くという傾向があると思っていたので、何かをするには長篇の方がいい。それに長篇だといったん始めたら長期間それをつづけられて、新しい設定を考える手間がない。(と、こういう風に、あの頃考えていたことは間違いないのだが、しかし、これは案外いい加減な自己認識で、これより前に書いた『コーリング』なんかは、はじめての三人称をいきなり長篇でやらないで、短篇でやっている。それに、『夏の終わりの林の中』の方に書いておいたとおり、1年前に書いている『夏の終わり……』は『季節の記憶』に先行する『季節の記憶』のエッセンスだけのような関係になっている。しかし、『季節の記憶』を書いているあいだ、私は『夏の終わり……』が『季節の記憶』に先行しているなんて、本当に全然気がついていなかったのだった。しかもさらに言えば、「これが最後の一人称小説だから、いままでのことを全部詰め込もう」とも思っていた。いったいどこが「いきなり長篇で何かをして」なのかと言いたくなる。しかし、そういう気持ちだったし、現に「何か」はしたのだ。たぶん。)
途中にいろいろなことがあった。230枚くらい書いたところで、阪神大震災があった(第1稿の230枚くらいというのは、美紗ちゃんがイルカの空間認識にしてしゃべっているところだったと思う)。私は阪神大震災でちょっとずっこけた。というのは、はじまりのあたりの松井さん、美紗ちゃん、僕の会話で、松井さんが「この仕事もマンネリになってきて刺激がなくなった」と言い出して(文庫27ページ)、美紗ちゃんがルワンダとかザイールとかにボランティアに行って井戸でも掘ればいい、と言うのだけれど、これがあんまりにも阪神大震災の状況と重なりすぎてしまったのだ。
第1稿ではたしかこの部分はもっと長く書いてあったし、私は井戸掘りの方法について2、3人から話を聞いたりもしていた。しかしそれではまるで、阪神大震災があったからそんなことを考えたみたいだったので、この部分はさらりと流さざるをえなくなった。私が逆の発想をする人間だったら私の小説はもっと売れるかもしれないけれど仕方ない。私は現実に起こっている事件や出来事に触発されて考えるのが大嫌いなのだ。「犯罪ぐらいすべておれがシミュレーション済みだ。だから犯罪を犯すおまえになんか創造性のかけらも認めない」というのが私の心意気のつもりで、災害にしても基本的に同じことだ。それにもちろん、松井さんの「カエルの目玉じゃないんだ」という気持ちもある。そして結局私はなかば定期的に子猫を拾ったりして、生活を世間的にはものすごく些細なことにさかれていくのだが。
そして毎度のことだが、300枚を過ぎたあたりで手書きの第1稿はどうにも進まなくなって、全体の流れを1枚の紙に書き出して見渡してみたりした揚げ句、結局このまま書きつづけるのを諦めて、第2稿としてワープロに入れ出すことになった。それがちょうど3月1日。300枚を直しつつ打ち込んでいけば、そのうちに打開策が思い付くだろうというのがいつもの私のやり方だ。
ところでその第1稿の300枚というのがいったいどういうあたりだったのか、今ははっきりとは憶えていないけれど、たしか離婚して返ってきたナッちゃんに関係している部分だったと思う。ナッちゃんは、私がはじめて書く「あまり好感の持てない人物」ないし「苦手で僕の手にあまる人物」として登場させてはみたものの、書いている作者本人の手にあまってしまったのだ。私は好きじゃない人物を本当に書けない。いっそもっと嫌えるキャラクターだったらよかったのかもしれないが、ナッちゃんはそういうキャラクターでもない(それでも完成品を読んだ妻は「こんな書き方されてナッちゃんかわいそう」と言った)。とにかく第1稿では、美紗ちゃんとナッちゃんはもっと密につき合い、美紗ちゃんの手にもあまってしまい始めるのだが、そこで作者の手にあまってしまったのだった。
オウムの地下鉄サリン事件が起きたのは3月20日だったが、オウムの方は小説の進行や中身に影響なかった。私は朝10時くらいから午後2時くらいまで、オウムの報道に関係なくたんたんとワープロを打ちつづけた。やっぱりああいう事件に基本的に関心が薄いのだと思う。私はひたすらたんたんとワープロを打ちつづけていた。ほとんどほかの仕事もなく、月に1、2度、月刊誌『太陽』の映画評のページのために銀座あたりの試写会場に行く程度、そのほかにはほとんど電車にも乗らなかった(テロの第2弾がどこで起こるかわからないので、極力電車や雑踏には行かなかった)。そして3時すぎに毎日頸椎ヘルニアのリハビリの首の牽引に歩いて20分の病院に通う。93年の年末になったヘルニアをあの頃まだ引きずっていて、ちょっと無理をすると背中の筋が痛くなるのだった。
で、5月8日、つまりゴールデンウィーク明けの月曜日、私は病院からの帰り道、豪徳寺の山門の脇に段ボールに入れて捨てられていた4匹の子猫を拾ってしまうことになる。生後1ヵ月くらいの手のひらに軽く乗るような子猫たちだ。このときは妻の部屋に大きな段ボールで家を作って、その中で飼い始めた。というか、そこで飼って里親が見つかるのを待った。これがじつに順調で、1週間で2匹がもらわれ、12日後の5月20日には残った2匹ももらわれていった。この間の2週間弱、3、4日の中断はあったけれど、それでも全体としてはやっぱりたんたんとワープロを打ちつづけた。6月もたんたんと打ちつづけた。7月も打ちつづけていた。で、18日の夜に芥川賞の受賞が決まり、行動だけ記録しているノートによると、9月の17日までまったく再開できない状態になったのだけれど、この、ちょうど2ヵ月の中断は、中断の渦中にいた当時も、ナッちゃんをめぐる書き直しにとって「よかった」と感じながらほかのエッセイを書いたりインタビューを受けたりしていて、そのあいだも頭を去来するのは、『季節の記憶』の書き直しのことだった。
ということは、私はこの時点でまだ『季節の記憶』の方針とか構成とか展開とかを決めあぐねていた、ということになる。私はナッちゃんの部分をだいぶ減らしたり、和歌山の白浜温泉の蛯乃木のところをもっと笑えるように書き直したりして、第1稿の300枚をちょうど打ち直し終わったところだった。中断になったタイミングもじつによかったと思う。そして再開の1ヵ月後の10月20日頃にいったん完成したことになっている。そこからもう1度手直しして、11月末にもう1度完成。しかしそこからもう1度手直しして、最終的に本当の「完成」になったのが12月26日だった(らしい)。
2.「僕」と「私」の問題
『季節の記憶』を最初私は、「僕」でなくて「私」で書き始めた。作者本人と同じ設定の38歳の男が「僕」というのはもうちょっと変なんじゃないかと思ったのだ。
村上春樹はずうっと「僕」で通している。40歳になっても「僕」なんてことがありだろうか。それはカマトトというものじゃないだろうか。それで私は「僕」ではなくて「私」の方を使ってみることにしたのだけれど、20枚ぐらい書いてみてもどうも「私」はしっくりこないで、50歳すぎのおじさんのような気がしてしょうがなくて、結局「僕」に妥協して、というか日和って(?)、「私」をやめて「僕」にした。「僕」にしてみたら違和感はきれいに解消したけれど、それは作品を書くという行為の中に限定した話であって、作品に対して距離を置いてみると、「僕」という一人称に対しては違和感があった。しかし結局、99年の6月に『生きる歓び』で「私」と書くまで、私は「僕」を使いつづけることになる。(ただし、評論の『羽生――21世紀の将棋』は例外。)
余談だけれど、全共闘世代は50歳になっても「僕」を使う。村上春樹、池澤夏樹、荒川洋治……。なぜか村上龍だけは最初から「私」だったような気がする。それに対して、1960年代生まれ以降ぐらいになると平気で「私」と書く。私自身はもう数年、小説でもエッセイでも、ふさわしい一人称が「私」なのか「僕」なのかわからない状態がつづいているけれど(だから「ほさか」なんて書いたりすることもある)、「私」という一人称は使い慣れてくると、けっこう「俺」に近い気分で使えるということを最近発見した。
ついでにいうと、手紙では30代半ばくらいから「私」になっている。手紙で「私」と書くとき、私はなんだかとても無責任男のような気分になって楽しい。全体に若い男が「私」と書いているのを読むと、私は無責任男が書いているような気分になる。つまり、キッチュであったり、借りものであったりする感じがすごく強調されているように私には見えるのだ。本人たちはそんな風な意識を持っていないはずだけれどしょうがない。若い男の考えることは借りものなのだから。と言って、五十男が「僕」というのを読むと、これまた責任の放棄のように見えてしまう。無責任男は精一杯頑張ってみても無責任なのだからどうしようもないけれど、「責任の放棄」はまずい。作家で50歳になったら、個人の実感だけを頼りに書こうという姿勢は甘いと思う。本人がいくら無関係な風を装ってみても、50歳をすぎた作家はいろいろな社会性を負わされているのだから。
そういうわけで、小説を書くとき、作者というのはこんなどうでもいいようなことでかなりこだわる。
「『私』か『僕』かはどうでもいいことなんかじゃないですよ」という好意的な読者もいるだろうけれど、太宰の『斜陽』『人間失格』、三島の『仮面の告白』、北杜夫の『幽霊』、新潮文庫のカミュの『異邦人』、大江健三郎の『万延元年のフットボール』『懐かしい年への手紙』……等々の一人称が「僕」なのか「私」なのか、全部思い出せますか? この中には三人称が混じっているかもしれません。私なんかは大江健三郎の小説が『宙返り』以前、すべて一人称で書かれていたなんてことさえも、本人のエッセイを読むまで忘れていたというよりも気がつかなかったくらいだった。
このこだわりは、結局作品の出来とか世界にどこまで関わるか、ということ以前に、作者の自己像の問題なのではないかと思う。「自己像」と言っても、「作家としての自己像」「語り手としての自己像」というようなことで、普段のその人と関係しつつもやっぱり「書く」という作業(時間、行為される時間)に限定しての自己像だ。
書き言葉と自分との距離感といってもいいかもしれない。「『僕』として読まれたいか」、なのではなくて、「『僕』として書きたいか」どうかということだ。だから、書く方がこだわるほどには読む方は気にしていない。何しろ女性はほとんどの人が10代から「私」ないし「わたし」で文章を書き、日常使っている「あたし」で書こうと思う人はまずいない。「あたし」は宇能鴻一郎ぐらいのものだ。もっとも、最近では「僕」という一人称を使いたがる女性もいるけれど……。それはやっぱり目立ちたいということなのではないかと思う。私は最もひっかかりがなくて、読者が「私だったっけ? 僕だったっけ?」と、忘れてしまうような一人称を使いたい。
3.人物
私がいつも小説で一番悩むのは、登場人物たちの関係や職業だ(人物の性格ではなくて)。「ストーリーがないんだからそこにしか悩みようがない」と言われればそのとおりかもしれない。
「ありそうでなさそうで、なさそうでありそうで、ありそうでなさそうな人物の関係」というのが「好き」というか、そうでないとなんだかリアリティがない。何故なんだろうか。自分でもわからない。しかし「自分でもわからない」ことにこそリアリティがある。リアリティというのは、自分ではどうしても分析しきれないものなのだ。
「父と子の二人」というのが最初に思いついて、これはすぐに決定だった(しかし、思えばとてもありふれた設定で、かなり危険な選択だったかもしれない)。舞台が鎌倉というのはそれ以前に決定していた(これについては後述)。
その二人にどういう人間を絡ませていくか。はじめに考えたのは、「夏のあいだだけ海でアイスクリーム売りをして、ほかの季節は何もしない」という人だった。「これでいけるだろうか」「冬は焼芋屋をやったりしないだろうか」などと考えているうちにたぶん「便利屋」という職業を思いついた。
鎌倉に石田君といって、親の仕事を継いで板金をやっている私より1歳年下の男がいる。石田君は板金からはじめたのに、まわりの知り合いからあれこれ家の補修を頼まれたりしているうちに、けっこう研究心が旺盛なのも手伝って大工仕事全般ができるようになってしまった(私が前に済んでいた築30年以上と思われる借家も、95年と96年の2度、本の重みで沈んだ床の補修をしてもらった。あ、そうそう、外壁が剥がれかけてそれを塗ってもらったこともあった)。『夏の終わりの林の中』の稲村ガ崎に住んでいる佐伯さんの家の雨漏りする屋根にブルーシートをかけたのも石田君だ。何度も繰り返しているけれど、佐伯さんは実在する「たらば書房」の伊藤さんがモデルになっていて、伊藤さんの借家には本当にブルーシートが掛けられていた。
私は自分では大工仕事みたいなことはほとんど何もできない。しかし私の父は、大工仕事だけでなく、セメントもこねるし、ブロックも積めるし、ペンキも塗れる。私の母方の親戚は画家もいるけれど基本が職人だ(私は画家も職人だと思うし、私の小説の書き方も職人のやり方にちかいと思っている)。中学のときに父が隣との境のフェンスを立てるのを手伝いながら「自分も大人になるとこういうことができるようになっているんだろうか」と思ったことをよく憶えているけれど、結局私自身はいくつになってもこういうことができないままだ。
この石田君のような技能というのは『キャットナップ』のガイラさんも持っていて、ガイラさんが借家の押し入れの天井を抜いて、二階に通じる階段を作ってしまったのも本当の話だ。ついでに言うと、私の哲学というか考えること全般の先生である同級生の樫村晴香もこういうことが得意で、彼が20代後半に住んでいた家は、鉛の管を家中に這わせてセントラル・ヒーティングになっていて、そのすべてを彼が一人でやった。樫村は仙台に学生下宿のアパートを1棟所有していて(彼はバブル前夜にこの下宿を買って、生涯この家賃収入で食っていこうと目論んだのだが、バブルも消え去り、いまはこの下宿の経営に苦慮している)、工務店に外注するカネがないので自分でペンキを塗ったりエアコンを取り付けたりしている。
こういう風に書き並べてみると、大工仕事みたいなことができる技能を持っているということは、私にとっては、じつは「ただならない能力」ということになるのかもしれない。『季節の記憶』の松井さんの便利屋という職業を読者は「おもしろい思いつき」ぐらいにしか思わなかっただろうけれど、作者本人にとってはもっと重要な意味があったのかもしれない。それはもしかしたら職業だけで「尊敬に値する人物」という意味が込められていたのかもしれない。(繰り返しになるが、こういうことは本人だからといって完全にわかっているわけではないのだ。本人も読者と同様、後追いで推測するしかない。もっとも本人は読者より本人にまつわる情報をたくさん持っているので数段有利ではあるけれど、鋭い読者だったら本人の気がついていないところまで気がつくだろう。)
「便利屋」という仕事にはそして同時に「何をやっているのかわからない」という側面がある。その最たる人物が、このホームページの管理者であるところの高瀬がぶんさんだ。私は「何をやっているのかわからない」という人のことも尊敬する。一所懸命働いてカネがあっていい家に住んでいるのは当たり前だ。それが社会が強調する労働と収入の因果関係だ。当たり前の因果関係の中で生きている人を私は生まれてこの方一度も尊敬したことがない。大事なことは既成の因果関係の中で頑張ることではなくて(それは強化することにしかならない)、それを覆すことだ。「一所懸命働けばいい家に住める」なんてことは誰でも言える。
高瀬さんの隣に住んでいたのが「たらば書房」の伊藤さんで、伊藤さんが91年頃に飼いだした猫の「イッちゃん」を介して、伊藤さんと高瀬さんのつき合いが始まり、伊藤さんと一緒に私も高瀬さんの家に行くようになった。高瀬さんはいつ行っても炬燵に座っていて、話し出して10分もすると、量子力学とか時間と空間の話とかになっている(もっとも「湘南の歴史的変遷」というのもあって、これがまた話し出すと長い)。これは前述のガイラさんも同じで、話が突然抽象へと舞い上がる。もっとも私自身も同じことをやっているのかもしれないけれど、人の話がそういう風に日常と抽象を平然と行ったり来たりするのを聞くのは面白い。伊藤さんは量子力学の話はしないけれど、独特にわかりにくい抽象的な話をする。もっとも伊藤さんの抽象的なわかりにくい話は3年か4年前あたりからパッタリと聞けなくなってしまったけれど。
そういうわけで、松井さんは石田君とガイラさんと伊藤さんと高瀬さんをブレンドした人物だ。
その松井さんに関係の深いもう一人の人物がほしい。私の発想ではその人物というのは女性以外にありえないのだが、この理由もまた本人にはわからない。
夫婦というのは論外だった。理由を詳しく考えるほど夫婦を出す可能性について検討したことがないのでよくはわからないのだけれど、夫婦というのは私には複雑すぎるように感じられてしまうのだと思う。夫婦には無条件なところがない。親子や兄弟というのはもっと無条件に見える。逆に友達というのもダメになったら離れればいいだけのことで、安心していられる。夫婦は維持するのに神経を使い、離れるとなったらまたそれで大変な労力を使う。夫婦は私にはつねに本質的な危機が孕まれているようで、そんな関係を小説に持ち込んだら疲れてしょうがないと判断したのだろう。
しかし松井さんともう一人の女の子との関係を「兄妹」には本当はしたくなかった。できれば九州あたりから勝手に家を出てきた親戚の姪っこという関係にしたかったのだけれど、そうなるとセックスを想像する読者が出てくるだろう。『この人の閾』でもセックスをするかしないかばっかり考えて読むような人がいっぱいいたのだ。セックスを持ち込んだら結局夫婦と同じことになってしまう。話がそればっかりになってしまう可能性がある。そういうわけで、読者が絶対にセックスを想像しない関係は何かといったら、「兄妹」か「父娘」のどちらかしかなく、私は「年が20歳離れた兄妹」という、めったになさそうな方をとることにした。
この私の説明を読んで「だって、あの小説でセックスのことを考えるような人はいないよ」と考えた人がいたとしたら、私の設定が成功したということだ。二階堂とか、松井さんが見つけてきたクリーニング屋の女の子とか、あるいは美紗ちゃんにかかってくる電話の相手とか、セックスを想像させるものは『季節の記憶』の中にはじつはけっこういろいろ書いてあるのだけれど、僕・息子・松井さん・美紗ちゃんの4人の中にはセックスの気配はまったく持ち込まれていない。
美紗ちゃんは『プレーンソング』のよう子とゆみ子を合わせたような重要性をこの小説で担っている。だからたぶん現実には存在しようがないような女の子だろう。この小説が今後かりに長く長く書き継がれるとしたら、松井さんや僕が結婚したりどろどろの恋愛をしてしまったり仕事がものすごくうまくいかなくなったとしても、この小説世界は維持されるだろうけれど、美紗ちゃんが結婚していなくなってしまったら、この世界はつづかないだろう。もっとも、美紗ちゃんのことだから、結婚しても同じ家に住み続けるか、稲村の近所に住むことになるだろう。たぶん結婚相手は根性のないふやふやしたタイプで、松井さんの仕事を一緒にやったりするのだろう。
さて、クイちゃんこと圭太だけれど、私はいままでずうっと「クイちゃんはうちで飼っていたチャーちゃんだ」と言ってきた。これは半分は本当だけれど、半分はウソだ。しかしウソの方の半分はやっぱり本当だ。
92年の10月1日に近所で迷っているところを見つけて、声を掛けるといきなり私のジーパンによじ登ってきたチャーちゃんは、私と特別ウマが合った。チャーちゃんは影が微塵も感じられないくらい(猫にもけっこう影がある)、明るくておっちょこちょいで、私はチャーちゃんのことが本当にかわいくて仕方なかった。「こんなにかわいい子はもしかしたら不幸になるんじゃないか」と、うっすらといつも感じてしまうくらいにかわいくて仕方なかった。かわいすぎるために、「こんなにかわいい子はもしかしたら不幸になるんじゃないか」と感じてしまうようなことも、チャーちゃん以前に経験したことがなかった。だいたいチャーちゃんは明るくておっちょこちょいなのに。しかも「幸せすぎて怖い……」というような感覚は、もともと私にはない。私はあくまでも「幸せなものは幸せ」と感じるはずの人間だったのだが……。
で、そのチャーちゃんのことを近所の友達は「チャーちゃんて、保坂君に似てるよね」と言うのだった。
で、その頃、まだ2歳くらいだった甥っ子(妹の子ども)が、これがまた明るい性格でおっちょこちょいで、私は甥っ子を見て「チャーちゃんそっくりだなあ」と思った。私の父と母は甥っ子を見て、「和志そっくりだ」と思っていた。つまり、チャーちゃんであることは甥っ子であり、保坂和志であるということなのだった。
『季節の記憶』を最初に読んだのは妻で、妻はクイちゃんのことを「これって、チャーちゃんじゃないの」と言った。私は「バレたか」と答えた。
『季節の記憶』を読んで私にクイちゃんと同じ年頃の男の子がいると思い込んでしまった人はいっぱいいる。「子どもがいないのにどうしてあんなに書けるんだ」と言った人もいっぱいいる。私はチャーちゃんと生活しながら、自分自身の子どもの頃をついいろいろ思い出していたんだろうと思う。クイちゃんは私の幼児期の記憶とチャーちゃんがやっていたことの人間への置き換え、という二つの合成の産物だ。まあ、あとはテレビの「はじめておつかい」なんかを見ながらの観察もあるけれど。
その逆に、「子どもってこんなもんじゃない」と言った人もけっこうたくさんいた。私は「それはそうだろうな」というか、「そういう感想も当然あるだろうな」と思った。『プレーンソング』を読んで、こんなことを言った人もいた。
「よう子ちゃんという女性と共同生活していて、女性だけに関わるいろいろなことが書かれていない。たとえば、生理はどうしたのか」
この感想を聞いて私は「へえー」と思った。ミステリーでものすごい殺人鬼なんかが書かれているのを受け入れる人がどうして、よう子ちゃんの生理や、クイちゃんがじゅうぶんに子どもの写実になっていないということを指摘するのか。クイちゃんがどうして自分の育てた子どもと同じでなければいけないのか。どうして自分の子どもが考えなかったようなことをクイちゃんが考えてはいけないのか。
これにはしかし一つだけ、フィクションと読者の重要な関係が表われている。
「さあ、これからフィクションを始めますよ」という書き出しで小説が始まると、たいていの読者は「はいはい」と言って、そのモードを受け入れる、というか積極的に自分をその小説のモードにチューニングする。それに対して私の小説の場合、けっこうみんな「本当のこと」と思って読む傾向がある。フィクション・モードにチューニングしようが、「本当のこと」モードでつい読んでしまおうが、読んでいる過程ではじつは気分は同じになっていて、ありえないような殺人鬼や高知能指数や強烈な恨みを土台にして書かれたフィクションでもそれなりに「リアルだ」とか「こんなのリアリティがない」とか思って読んでいる。つまり、土台がフィクションであることを忘れている。その点で、「読む」という行為はものすごく素朴な感想の持続なのだ。
で、私の小説を読んで「(自分の子どもと比べて)こんな子どもはいない」というような感想を言う人は、自分がフィクション・モードで読んでいると思いつつ、「本当のこと」モードに陥っていることに気がついていない。完全に「本当のこと」モードだけだったら、「へえ、こういう子どももいるんだねえ」と思うだろう。「こんな子どもいない」と言うことは、フィクションであることを意識している。しかしその意識が徹底されていない。何の変哲もない日常を描く小説だから人物たちも何の変哲もなければいけなくて、そこで自分の子育ての経験だけが突然前に出てきてしまっているのだ。
松井さんのような人や美紗ちゃんのような人は本当にいるだろうか。小説に描かれる大人に対して、子どもには偏見があって、可能性がかなり限定されていることを、「こんな子どもいない」という感想は表わしているのではないかと思う。……ちょっと論旨がわかりにくかったと思いますが、私は人間のあるがままの姿を描きたいと思っているわけじゃなくて、やっぱりフィクションとして登場人物たちをある意味で将棋の駒のように使って(誤解されがちな表現だけど)、それによって何かを描こうとしているわけです。もっとも、10人が感想を言って、8人までが「こんな子どもいないよ」と言うような子どもは、やっぱり私の小説の場合、論外だけど。(以下、後編へ) |