◆◇◆ 天は味方した者にしか試練を与えない◆◇◆
「文学界」2002年8月号の
ワールド・カップの特集(そういうのがあるらしい)
のエッセイの前倒し掲出です。

 
 韓国の準決勝進出が決まった時点で日本のトルコ戦を考えると「あーーぁ」と思う。これがいわゆる「経験の差」なんだろうなと思う。W杯に何度も出場して、ずうっと勝てなかった経験があったから、韓国はW杯で戦えることの貴重さをよくわかっていて、一度も気を抜かずに戦うことができたんじゃないか。
 思えば予選リーグの組み合わせが決まった時点から、韓国には試練が与えられるという形で天が味方し、日本はあまり天に味方されなかった。予選リーグの最終戦は、日本は1点差負けでも決勝進出という天からの見放され方をして、韓国はあのポルトガルに引き分けなければならないという試練を与えられた。つまり天に味方された。私は試合が始まるまで韓国がポルトガルに勝てるなんて思っていなかったが、始まってみると、ポルトガルはとても勝てそうに見えなかった。その勝てそうに見えなかったポルトガルが2人も退場者を出してしまい、いよいよ「引き分けにしてください。お願いします」と哀願しているような戦い方しかしていないのに、韓国はその相手の首を堂々とはねて見せることで、試練を最終的に自分の手で引き寄せた。
 日本はベルギー戦で鈴木が同点ゴールを入れたときの必死さを発揮しようもないまま、チュニジア戦に勝ち、勝つと次はトルコで、その次はスウェーデンとセネガルの勝者で……と、イマイチ続きなのに、韓国は1位で通過したら予選が予想外の2位だったイタリアが待っていて、その次はスペインだ。そこから先のことなんか韓国人たちも考えなかっただろうけど(と、推察するのはやっぱり私が日本人だからで、韓国人はそのさきまで考えていたんだろうか)、ドイツが待っていて、ブラジルも待っている。W杯という舞台で、ポルトガル、イタリア、スペイン、ドイツ(それからきっとブラジル)と戦えるなんて運のいいことがあるだろうか。その試練の与えられ方/引き寄せ方が素晴らしい。
 ところで、四年前のフランス大会のときには、「W杯は戦争だ」というコピーがさかんに使われた。『決戦前夜』とかいう便乗商法みたいな本まで出た。それが私は嫌いでしょうがなかったが、今回このコピーは廃れていた。たった一度だけラモスがテレビで「あんまりよくない言い方だけど、W杯は戦争なんですよ」と言ったのを聞いただけだった。ただのコピーというレベルでいっせいに使われて消費されて、その後廃れたのだとしたら、それだけで「W杯は戦争だ」という定義は真理じゃないことになるが(その真理じゃないコピーに便乗した人が解説者も含めていっぱいいたのだ)、私はわりと単純にホスト国として参加国を迎えていく過程で、「W杯は戦争なんかじゃない」と感じるようになったんじゃないかと想像していた。
 だいたい「W杯とは××××だ」「サッカーとは××××だ」式の単純言い切り型の思考法は局外者が雑に理解したいためにすることで、当事者にとってそんな言い方は何の価値もないわけだし、当事者になった途端にそれは崩れるものけれど、思えば「W杯は戦争だ」というコピーはフランス大会の半年前か一年前から使われていた。だからホスト国として参加国を迎えてW杯の実態を知った後に使われなくなった、ということではない。「W杯は戦争だ」が使われなくなったのはそれ以前からだ。ホスト国として迎える側が「戦争だ! 戦争だ!」と言って、はしゃいでいるのはいかがなものか? フーリガン対策としてもマズイんじゃないか? ホスト国としては友好を強調すべきではないか! というような配慮の結果だったとも考えられる。あるいはもっとストレートに、9・11のテロがあって、「戦争」という言葉にマスコミがナーバスか臆病になった、ということも考えられる。
 でも、「W杯は戦争だ」が使われなくなったのは、本当に、やっぱり、ただの、流行(はや)り廃りだけだったのかもしれない。しかしどういう理由であっても、「W杯は戦争だ」と、無責任に雰囲気を煽るためだけに使った人たちは、責任をとってほしい、というかちゃんと反省して、自己嫌悪に陥ってほしい(陥りなんかしないだろうけど)。四年前私は新聞に「W杯は戦争じゃない」というコラムを書いたが、そういう証拠を出してきて、自分の正当性を主張するのもうさん臭い。そういう場所を与えられていない人は、過去に感じていた不快感をどういう風に表明すればいいのか、ということだってある。
 そういうことと全然関係なく、保坂和志名義で友人と一緒にやっているホームページの掲示板があって(http://www.k-hosaka.com)、五月十五日以来しばらく閉鎖にしていたんだけど、W杯が始まってあまりに自分が毎日毎日楽しんでいるからそれをみんなで共有したくなって、W杯期間中だけ掲示板を再開することにした。自分名義のホームページだから自分が一番でかい顔をしているのはしょうがないし、一種の礼儀みたいなものでもあるわけだけど、私の書くことが他の人たちよりも「いい」とか「すぐれている」というようなことは全然ない。
 それはあたり前なことで、私はW杯の専門家でも何でもない。「南米に住んでスタジアムの熱狂ぶりをじかに見たことがあるから」とか「イギリスに住んで、イギリス人たちがフットボールのことでどれだけ長い時間しゃべるかを知っているから」とか「イスラム圏に住んで、イスラム圏では子供は一日中ボールを蹴って遊び、大人はそれを見ながら一日中お茶を飲んでいる。そういうことを知っているから」とか、その程度の見聞で小説家や評論家がW杯について突然書いてもしょうがない。咸臨丸に乗って帰ってきた人たちからアメリカの話を聞く幕末の人間と変わらない。
 だからこういう風な特集があって、「小説家だから」というような理由でW杯について原稿料をもらう文章を書いていると、「W杯は戦争ではない」けれど、「W杯について書くことは戦争について書くことと同じだ」ということがよくわかる。もしも、これからさき戦争が起こったとしても、新聞の文化面とか社会面で文学者たちが書く文章は、W杯についてみんなが書いている今回の文章程度のものなのだ。
 韓国があと何回勝つか、ブラジルがこれからさき一度ぐらい目を見張るようなサッカーを見せてくれるかわからないけれど、いずれにしてももうすぐW杯は終わってしまう。私はきっと、秋風の立ちはじめた鎌倉の海岸に立っているときのような、空しいような、淋しいような気分になるだろう。四年後もアイルランド・チームは魂を揺さぶる戦い見せてくれるだろうか。欧州選手権の予選に行けば、アイルランドのサポーターも見れて、アイルランド・チームの戦いも見れるんだろうか……と思うと、そこまで追いかけていきたい自分がいるのがわかる。
 日本は「次のドイツ大会こそベスト8」なんて言ってないで、まずはきちんとアジア予選を突破できるチームを作ってほしい。今回の日本チームの戦い方を見て、私はいよいよ日本の将来について楽観できなくなってきた。選手の問題ではなくて、そのまわりの大人たちの問題だ。大人たちは選手が油断せずに必死さを維持する環境を作れなかった。選手はみんな20代だ。彼らと同年代の若者たちに大人たちは手を焼いている。でも、はじめて世界に通用するサッカーをして見せたのは彼らだ。なんのかんの言っても、それをやったのは彼らの同世代の若者たちだったのだ。
 十四歳の少年や十七歳の少年が犯罪を起こしたときだけ、世代論が言われるのはおかしい。日本中があの期間、元気になることができたのは彼らのおかげだ。大人たちはその恩返しも、彼らと同世代のまわりの若者たちにする必要があるんじゃないか。そうしないと大人たちは、自分たちは世界に通用しなかったバカなサッカー解説者か、教育レベルの高い外国人は受け入れたいがそうでない外国人は困るというような発言をした政治家と同じことになってしまう。それにしても私はアイルランド・チームの戦いを忘れられない。あのチームがあのカラーを持っているうちに、私は一度スタジアムで見たい。

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