人は記憶に守られている。ミステリー小説なんかでは過去の細部をほじくり返して、記憶の不確かさをことさら強調したがるけれど、もっとずっと深いところで人は記憶に守られている。事故による脳の損傷などで、新しい記憶が入らなくなってしまった人のことがテレビでたまに特集されるが、その人たちの苦しみを見れば、人間にとって記憶というものがいかに大事かわかる。 7月末に出版された私の『カンバセイション・ピース』という小説は、まずは「人が記憶に守られて生きている」ということが出発点になっている。子ども時代の記憶の中で私は庭で遊んでいる。しかし、庭で遊んでいるのにもかかわらず、家の中にいる母が何をしているかも見えている。そんなことはありえないことだけれど、記憶にはそういう一種の“全能感”のようなものが備わっていて、本当だったら見えないところにいる人のことも見えている。 私がこの小説で目指したのは、記憶の矛盾を追究することではなく、矛盾した記憶をまるごと肯定することだった。全体として「そういう過去があった」と感じられていることが一番大事なことで、その思いが私たちにとって生きるための力になっている。記憶にとって細部の狂いなんかどうでもいい。——その感じは飛び抜けたミュージシャンの演奏に似ている。少しぐらいミスタッチがあっても全体として圧倒的なドライヴ感がある演奏と比べたら、生真面目に楽譜どおりに弾いただけの演奏なんて抜け殻のようなものだ。 細部でなく全体として息づいている記憶を肯定するにはどうしたらいいか? この小説で考えたのは、家と人間の関係だった。日本語で「家」と言うと、「家族」「家系」……みたいな抽象概念を意味しがちだが、ここで言う「家」とは家屋つまり建物そのもののことだ。「建物にはそこに住んだ人たちの記憶が残る」という考え方があるが、それはたんに感傷的な思い込みなのか、それとも物質レベルで説明可能なことなのか。もしこの考えがたんなる思い込みでなければ、全体として息づいている記憶が肯定される道がググッと開かれるのではないか。 たとえば、宮澤賢治の研究者は賢治の生家を訪ねてみたいと思う。賢治にさして関心のない人が見たら、ただの「古い家」だろうが、賢治をよく知っている人がその家の中に入ったら、光の射し込み方や音の響き方など、家の持つ物質的な要素から、賢治が考えたり感じたりしたことが訪ねた人の中で再現されるのではないか。 そこにあるのは、たんなる思い込みによる「ある」でなく、かといってただの物質レベルの「ある」でもない。そのどちらでもない「ある」で、その「ある」こそが、すべての「ある」を作り出しているような根源的な「ある」なのだ。それはたとえば、人生の中でめったに感じることのない「生きている!」と感じる瞬間のようなもので、その「生きている!」があるから、「生きている」という言葉が力を持つように、その「ある」があるから、はじめて「ある」も「ない」も意味を持つことができる。 その「ある」は、細部の狂いなんか蹴散らす力を持っている。実証主義的に検証する「ある」とか「ない」なんて、大きな「ある」の隅っこの誤差程度のものでしかない。その「ある」によって、人間は自分の過去を素晴らしいものとしてまるごと肯定することができるようになり、自分が生きた証しを家(さらにはこの世界)に残すことができるようになる。 小説に必要なことは過去や記憶を疑うことでなく、そういうものを疑うことが当たり前になっている日常的な思考様式こそを疑うことだ。小説にかぎらず、音楽・美術・演劇などすべての芸術は、日常的でドライヴ感のない思考の中にとどまっていては何も生み出せない。 |