◆◇◆都市の視線(4)◆◇◆

「風の旅人」第6号(2004年2月発行)
 以前、イヌイットつまりエスキモーの研究者が書いたこんな文章を読んだことがある。
「私たちのように都会に住む現代人には、イヌイットの人々の生活は一週間として送ることができない。狩猟の技術は言うに及ばず、排泄の仕方とその処理にしても私たちには大変な負担だ。私たちは彼らのことを簡単に『劣っている』と考えがちだけれど、彼らの方が私たちよりもはるかに優れている。」
 エコロジーがブームになる直前の一九九〇年に読んだ文章なので、細部の正確さとなると心許ないが、意味としてはこういうことだった。最後の「優れている」は、もう少しやんわりと「自然について多くのことを知っている」だったかもしれないが、いずれにしてもこの研究者が言いたかったのは、都会に住む現代人は、イヌイットのことを簡単に「遅れている」とか「劣っている」という風に考えがちだけれど、生身のからだで過酷な自然と向き合う技術・能力・体力という面では、なまっちょろい都会人たちよりはるかに彼らの方が優れている、ということだ。
 繰り返すが、これはエコロジー・ブームが定着する以前に書かれた文章だ。だから、啓蒙的な発言として読むべき性質のものだし、ついでに言うと、研究者というのは、自分の研究対象への愛が過剰になって、対象外に向かってついつい勇み足のような攻撃をしてしまうものでもある。しかしそれでも、やっぱりこの文章を読んだときに私は、反発を感じたというか、「大事な視点が抜け落ちている」と思った。−−それは、人間は弱い者を守るためにこの文明を作ってきたということだ。
 イラクに戦争を仕掛けるのを決めたアメリカ政府の有力者たちが感じ悪いのはもちろんのこと、ウォール街を肩で風を切って歩いている金融関係者だって感じ悪いのは間違いない。彼らはみんなあるシステムの中で力を振るっているだけで、生身の人間として大自然に放り出されたら二日目ぐらいで泣き言を言い出すだろう。
 しかし、都会に住んでいる人間が全員彼らのように自分を“何者”かとカン違いしているわけではない。深夜に赤ん坊が病気になった経験のある人は救急医療のある都会のありがたみを忘れないだろうし、からだの動きが思うに任せない人たちは簡単に食事が手に入る都会の生活を日々ありがたいと感じているだろう。文明とは第一に、そういう人たちを置き去りにしないために発達してきたはずなのだ。だから、都会で生活する人たちを貶めて、大自然の中に暮らす人々を賞揚する、という発想はロマンチシズムに毒されていて、どちらのためにもならない(と私は思う)。
 都会生活者の心性はもっとずっと複雑だ。コンビニやスーパーで簡単便利に食料を調達できて、病気になればすぐに医者にかかれることを、都会生活者はつねに心のどこかで、驚嘆しつつ、戸惑っている。自分たちのようなろくでなしが楽々と生きていける環境に感謝すればいいのか、生きることの実感を見出しがたい環境を呪詛すればいいのか……。

 エコロジーとはイヌイットを賞揚したり、自然に単純にあこがれたりすることではない。エコロジーという観点ないし思想が持ち込まれるということは、視界が一挙にぐっと広がって、どちらか一方に焦点をあてて論じる単純な思考法が相対化されるということだ。
 だからたとえば、「弱肉強食」というときの「弱」と「強」という関係を作り出した軸がなくなることでもある。ライオンは捕食する側だから腕力(?)という観点からはキリンやシマウマたちよりも確かに強いけれど、繁殖力という面からは草食動物よりも劣る。ライオンは捕食する動物をつかまえられなければ生きていけない(実際ライオンはつかまえそびれて始終腹をすかせているらしい)が、草食動物だったら草さえあれば生きていける(草も最近は砂漠化で大変だが)。何より自然の中で個体数が多いのは草食動物の方で、個体の繁栄をもって「強」とするなら、肉食動物が「強」になったことは自然の歴史の中で一度もないはずだ。もし仮に一時的に肉食動物の数が勝ったとしても、食料がなくなるからすぐに肉食動物は草食動物の数を下回るだろう。
 あるいは、ペンギン。ペンギンの祖先は「弱肉強食」の面で「弱」だったから、南極なんて、あんなに過酷な土地に追いやられて、そこでペンギンという形態に進化した。ちょっと考えてみれば誰だってわかる。あんな鳥がアフリカでうろうろしていたら簡単にライオンに食べられてしまう。しかし、南極という過酷な環境で生きる適性においては他の動物よりはるかに「強」だ。卵を足のあいだにしまって、吹雪の中を何日もじっと立っている姿をみたら、その強さに感動する。だいいちペンギンは、可愛いところがすごい。しかも可愛いだけじゃなくて、泳ぐために使う翼の力はものすごく強くて、うかつに近寄ったりするとバシッとはたかれて、人間の肋骨なんか簡単に折れてしまうのだ。しかしペンギンには物見高いところもあって、ぞろぞろぞろぞろと南極観測隊のそばに寄ってきて、人間たちがしていることを一日見ていたりするらしいから、いよいよ可愛くなってしまう。
 そういうわけで私はペンギンが好きだからペンギンの話になるとつい長くなってしまうのだが、ミュージシャンの大貫妙子さんは最近ではハイエナが好きで、このあいだトークショーに行ったらハイエナの話が止まらなくなっていた。ハイエナはひじょうに用心深い動物でまだ生態がよくわかっていないらしいのだが、何十種類もの鳴き声を持っていて、それでコミュニケーションを取り合うという。その鳴き声を大貫さんは歌うように再現して聞かせてくれた。さすがはミュージシャンだ。糞(ふん)は骨か石灰のように白くて臭いがない。食べた物を完全に吸収するからで、ハイエナこそリサイクル不要の究極のエコロジーだ、なんてことも言っていた。
 実例もどきが長くなってしまったが、エコロジーという思想は、この自然全体を人間の思い込みによる物差しで測ったり、チャート図に配置することではなくて、自然全体をよく見て、自然それ自体がどういう活動をしているかを知ろうとすることだ。自然に対応するための複雑な能力を持っているということが、生き物それぞれの厚みであり、田圃が農薬で汚染されてドジョウが減ったために鴇(とき)が日本では絶滅したというような、生き物が置かれているサイクルが生き物の持つ広がりであって、この厚みと広がりを見ようとしたら、自然を人間の知識だけで配置することなんてできない。
 −−と書く私は、イヌイットを賞揚して都会人をけなした研究者と同じロマンチシズムに冒された構図にはまっていると危惧しないではないけれど、最近もっぱら悪者にされているカラスたちの写真を見て、ついそんなことを書きたくなってしまった。カラスには自然という純粋なものだけでなく、“都市”という要素が入ってくるから、都市に住む人間のように複雑になってしまう。

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