よく「渋谷で遊ぶ」とか「原宿で遊ぶ」という言い方をするが、「遊ぶ」という言葉の意味が私にはいまだにわからない。「遊ぶ」というのは私にとって、広場で缶蹴りをしたり、フライなんか絶対に捕れないような友達が混ざって野球をしたり、あるいはもっとずっと子ども子どもした空想に導かれていろいろなところを探検したりすることしか指さない。
大人にとっての「遊ぶ」ということが何をすることなのかわからなかった私は、大学一年のときに四年生の先輩に「『遊ぶ』って、何をすることなの?」と訊いてみたことがあった。すると、彼は「映画見て、買い物して、飯でも食って、夜になったら酒を飲むことだよ」と答えるのだった。「なんだ、そんなことか」と私はがっかりした、というか「『遊ぶ』ってそんなことなの? それじゃあ、何にもしてないじゃん」と、さらに食い下がったのだが、彼は「映画見て、買い物して、飯食って、酒飲んだら、それでもうじゅうぶんだろ」と言うのだった……。
その先輩とは、その後大学を卒業してからも、毎週毎週競馬場に通ったり、夏に一緒に旅行して下手なナンパをしてみたり、いろいろしたけれど「あれが『遊び』だったかなあ……」と、今でもピンとこない。競馬でもナンパでも、行為に対して結果が問われることになっているのだから、そんなものは「労働」であって「遊び」ではない、というかもっと根底的なところで子どもの頃のあの「遊び」が持っていた躍動感がない。酒なんか飲んでいたら、いくら話が盛り上がっても「遊び」とは思えない。カラオケなんか行ってしまったらいよいよ「遊び」から見放された大人が時間を潰しているどころか、人生を潰しているような気持ちになり、その憂さを晴らすためにマイクを掴んで絶叫するから、ついでに咽まで潰れてしまう。
だから三十歳ちかくなったときに、突然、横浜の山下公園で夜の九時頃から男女合わせて八人ぐらいで「はじめの一歩」をやったことは、やっぱり遊びだったから、あれから十七、八年も経った今でもしっかり憶えている。そこにいた女の子に対して私が下心がなかったかと言われたらやっぱり「あった」としか答えられないが、その夜はそういうことは起こらなかった。「はじめのイーポッ!」と言って、鬼から逃げて「ダルマさんが転んだ」と言っているあいだに鬼に再接近していく過程は、そんな下心をはるかかなたまで飛ばしてしまった。
「人間には二つのタイプがある」式の言い方はいくらでも可能で、そんなことを真に受けていたら馬鹿になる一方だが、ひとつだけ言わせてもらえば、大人には二つのタイプがあって、ひとつは進んで大人になった大人で、もうひとつは子どもじゃなくなったために大人としか名乗れなくなった大人――で、私は間違いなく後者だ。
「大人の遊び」と言えば「飲む・打つ・買う」だが、どれもカネがなければできないことで、経済活動に巻き込まれているような行為は「遊び」とは言えないじゃないかと、子どもじゃなくなったために大人としか名乗れない大人である私は思う。
イスラム圏に行くと、子どもたちは一日じゅう広場や路上でサッカー・ボールを蹴って遊んでいて、大人たちは一日じゅうお茶を飲んで、子どもたちがボールを蹴っているのを見ながらしゃべっている、という話が嘘か本当か、イスラム圏に行ったことがないからわからないけれど、人間として理想的な時間(人生)の過ごし方はそれなんじゃないかと思う。その人生にあっては、子どもも大人もお互いの過去と未来が視界に入っているから、生きることの連続性が保証されている。。
じゃあ、いまの渋谷や新宿の繁華街はどうなってるんだろう。おカネを持っていなさそうな十代の子どもたちがうじゃうじゃ集まってきている。彼ら・彼女らは主観的な意識としてはそこに「遊び」に来ているのだろうが、十歳以下の子どもには「遊んでいる」とは見えないだろう、というか私には「遊んでいる」ように見えない。わざわざ渋谷や新宿に来るたびにもやもやが溜まるんじゃないか。
もやもやしているのは十代の特徴だし、そのもやもやがなくなってしまったら自分が自分でなくなるように感じているのも十代というものだけれど、ああいうやり方はじつは大人に誘導されたもののような気がする。路上で(芸術や表現行為として)パフォーマンスをして見せる人の行為が、それを目撃する人がいなければパフォーマンスとして成り立たないように、彼ら・彼女ら自身も大人の視線を意識してああいう風にしているんじゃないだろうか。大人に眉をひそめられたり、「理解できない」と言われたりすることが自分たちの存在証明だと思っていて、もしそうだとしたら、彼ら・彼女らはあいにくすでに大人の視線や尺度を自分の中に取り込んでしまっていることになる。
で、その「大人」の方だが、これがまた進んで大人になったような大人で、大人が大人である証拠は、十代の子どもたちのやっていることに眉をひそめたり、「理解できない」と言うことだけしかなくて、子どもたちのやっていることを「理解できない」と言えるようになったら大人なんだ、というな……。つまり、子どもの側からも大人の側からも、彼ら・彼女らがそうであることの根拠が奪われていて、現象しかない……。と、ここまで書いてきて、これは「子ども観」でも「大人観」でもなく、「都市観」のつもりでいたのだが、「繁華街観」でしかないことに気がついた。どうやら私は、都市というものがどういうものなのか、わかっていないらしい。しかし、今の東京に「都市」と言える場所はあるのだろうか。
新宿は都市なんだろうか。繁華街はあるけれどそれを取り巻いている新宿の繁華街以外の部分というのはどういう場所なんだろうか。都庁のまわり? 駅の南口から広がっているあたり? 新宿御苑? 思いつくどこにも人が暮らしていない。新宿はすでに都市ですらないのかもしれない……。
渋谷だと少し離れれば人が住んでいる。八〇年代前半には私自身も渋谷駅と原宿駅に歩いていけるところに住んでいたことがある。しかし当時からすでに外の人たちが一番集まるところは、徒歩圏に住んでいる人の気持ちと段差があった。「気楽な服装で行きにくい」というような理由ではなくて(近所に住んでいればそんなことは関係ないものだ)、人が集まり過ぎてごちゃごちゃしているという理由で、単純にそこに行きたくないのだ。今はその段差がもっと大きくなっているだろう。渋谷駅の周辺に住んでいる人たちはセンター街を通りたいなんて、きっと絶対に思わないだろう。
――そして、そういう人たちは、集まってきている十代の子どもたちを見て、眉をひそめたり、「理解できない」と言うこともないだろう。何故なら、そういうことを表明することが大人だとは思っていないから。かつて都市の核たりえたかもしれないが、今では都市自身がその存在を持てあましてしまっているだろう繁華街には、根拠を欠いた視線だけがあって、その視線を持ったり、それに見られたりすることが、自分の存在証明だと錯覚している人たちだけを呼び寄せているのではないか……。 |