最近私は歳月について大きな誤解をしていたと思うようになった。といっても、私は今年で五十歳なので、まだ五十歳なりの理解の仕方(つまり、誤解の修 正)しかできていないかもしれないが、とにかく五十歳になって感じられるようになった歳月は、二十歳の頃に思っていたのと全然違っている。 今年五十歳になる私は一九五六年(昭和三十一年)生まれで、一九四五年に終わった戦争は物心ついたときから遠い昔の話だった。実際、社会全体としても昭 和三十年になると「戦後は終わった」と言い、大阪万博の一九七〇年には「戦後四半世紀」で、戦争は遠い遠い昔になっていた。 ところが、自分がこうして五十歳になってみると十年前のことなんて、つい昨日のことでしかない。「四半世紀」なんて言ったって、今から二十五年前と言っ たら一九八一年だから、あの年に大ヒットしていた『ルビーの指環』が聞こえてきたら頭の中で走馬燈のように記憶が駆け巡る。『ルビーの指環』なんて歌は流 行っていた当時は何の思い入れもなかったが、街でもどこでもさんざん聞かされたから、今となってはひじょうにリアルな記憶の触媒になっている。 どうやら歳月というのは、「十年前」「二十五年前」というような均一に数値化されて、遠くなったり風化したりするものではないらしい。そうではなくて、 「そのとき生まれていたか」「そのとき何歳だったか」ということの方がずっと大きな問題で、そのときにしっかり記憶されてしまったことは何十年経っても 「昨日のことのように」憶えていて、昨日のことでも思い出せないことは思い出せないのと同じように、そのときに記憶されなかったことは忘却のはるか彼方へ と消えてゆく――という、それだけなのではないか。もちろん高校の授業で教わった世界史の年表や王朝の名前なんかは全然思い出せないけれど、そんなものも ともと試験の翌日には忘れていたではないか。 こんなことがあった。一九七二年の夏、高校一年だった私たちはクラス単位で丹沢の山小屋に一週間の夏期合宿に行った。 最終日はキャンプ・ファイヤーをして、それを囲んで型どおりみんなで歌を歌うことになった。そして、これまた型どおりにキャンプ・ファイヤー係が、 フォークソング集からみんなで歌う歌を集めて、『結婚しようよ』(僕の髪が肩まで伸びて君と同じになったら〜〜)とか『風』(人は誰もただ一人ふるさとを 振り返り〜〜)とかを歌ったのだが、歌が終わって「さあ、おひらき」という寸前に、ひとりの先生が突然私たちに説教をはじめたのだ。 みんなで歌った歌の中に、「戦争が終わって僕らは生まれた〜〜」の『戦争を知らない子供たち』が入っていたのが、彼の逆鱗【げきりん】に触れたのだ。 「戦争を知らない子供たちなんて無責任なことを言ってはダメなんだよ。 戦争は君たちの世代によって語り継がれなければいけないんだよ。 いまもベトナムでは戦争をしているじゃないか。戦争によって苦しんでいる人が世界中にいっぱいいるんだよ。日本だって戦争によって家族をうしなった人た ちは、戦争があったことを忘れられる日なんか一日もないよ。」 ふだんから冗談が通じない人で、私は彼に関してはいい思い出がひとつもないが、それはともかく、鼻がまっすぐに伸びていたから“天狗”という渾名だった その先生はドイツ人の神父で、戦争のときにはすでに日本に来ていて広島で原爆も経験していた。戦争がおわって数年後に祖国ドイツに帰ったときにはベルリン の壁を目【ま】の当たりにして、ショックで日本に戻ってからも半年くらいほとんど口をきけなかった時期があったそうだ。そういう彼の個人史は生徒には広く 知られていたから、彼が説教したくなる気持ちはわからないではなかったが、 「それにしたって二十何年も前の話じゃないか。おれたちが生まれる前の話じゃないか。」(ベトナム戦争は現在進行形だったけど) 「だいたい教師の側が半強制的にセッティングしたキャンプ・ファイヤーを盛り上げてやろうと思って、歌いたくもない歌まで歌ってやったのに、あんなどうで もいい歌詞にまでいちいちイチャモンつけることはないだろう。」 ぐらいにしかこっちは思っていなかった。 どうせ、みんなの楽しい気持ちに水を差すのだったら、ああいう説教なんかしないで、いっそのこと彼はあの場で「過去」とか「歳月」とかについてきちんと 話をするべきだったのだ。しかし彼は生徒に何かを考えさせたり生徒と一緒に何かを考えるよりも、生徒に説教することしか知らないようなキャラクターでは あったのだが。 しかし何をどう言えば最も記憶されるかなんて、その場では予想もつかないことであって、あのときに彼がじつに場にそぐわない説教をしたから、その中の一 人であった私の記憶にこうして残った。 この話は込み入っているので整理しよう。まず私は歳月によって記憶は風化しないという話をしようとして、この話を書いた。ところがこの話は「私の中で風 化していない体験(記憶)としての『“天狗”と呼ばれたドイツ人神父の中で風化していない体験(記憶)』」という、風化をめぐる二重の構造になっていたの だ。 キャンプ・ファイヤーで『戦争を知らない子供たち』を歌ったのは本当だが、『結婚しようよ』や『風』を歌ったかどうかまでは記憶していない。私は話を伝 わりやすくするために、少し話を創作したというわけだ。本当のところ歌について私が憶えているのは、キャンプ・ファイヤーの係が「かったるい歌を何曲も選 んで、その中に『戦争を知らない……』が入っていた」ということだけだ。 確かにキャンプ・ファイヤーの三日後だったら、あのときに歌った歌をだいたい全部思い出せたかもしれないが、そんなことはどうだっていい。キャンプ・ ファイヤーで歌った歌を三日後なら憶えているが三十五年後では思い出せないということを理由にして、記憶が歳月の長さによって風化しないということの反証 にはならない。問題なのは、「心に強く放り込まれたこと」だ。 私がこの程度の、いわば「些細なこと」を「心に強く放り込まれたこと」として三十五年たったいまでも憶えているのだから――そしてこれはあと三十五年 たっても憶えているだろう(三十五年後に私がボケたり死んだりしていないかぎり)――、“天狗”氏の戦争体験が色褪せるはずがない。あのときは戦後二十六 年だったが、それが「十年」とか「三十年」という数値化された長さで測れるものではないということは、すでに私は繰り返し書いた。 しかし、当時高校一年生だった私(私たち)にとって、戦争とは自分たちが生まれる前の「遠い昔のこと」でしかなかった。だから、“天狗”氏は「体験とい うものが数値化された歳月の長さによって遠くなるものではない」ということから話をするべきだったのだ。 しかし、思えば、あのとき“天狗”氏はそのようなことを時間をかけてでも話そうとする冷静さをすでに失っていた。彼のしゃべったことはただ場違いで、私 たちをしらけさせただけだった。しかし! 彼が冷静さを失っていたからこそ、こうして三十五年たっても思い出す出来事となった。が、しかし、ここまで話が 進んできたら「三十五年」なんてもう問題ではない。「心に強く放り込まれたこと」に数値化された歳月の作用は及ばないのだから。 こう考えると、人間が住んでいるこの世界はひじょうに重層的だ。たとえば満開の桜を眺めているときに、「いま目の前にある桜」を見ているだけではなく、 何年か前に誰かと桜を見たことも一緒に思い出している。そのことは誰でも感じていることだが、十数年前に千鳥ケ淵で出会ったお婆さんはその記憶がずうっと 遠くまで伸びて、近衛連隊に入隊して戦死した兄さんのことを思い出しながらいま目の前で咲いている桜を見ていた。 老人は冬に死ぬことが多く、冬に親戚の伯父や伯母や知り合いの老人が亡くなっていると私は桜を見ながら「××おじさんは、今年の桜を見れないんだなあ」 と思うことが習い性のようになっているのだが、そういう経験が増えてくると今度は、 「この桜を見ながら、去年は××おじさんのことを思い出して、三年前は△△おばさんのことを思い出して……。」 という風に思うようになってきていて、いちいち顔を思い出したらキリがないくらいの数になった最近では、毎年そういう風に思い出したことが心の厚みとし て感慨になるような感じになっている。――いや、これは歳月によって風化しない例でなく、そのつどの新しい情報が入力されることで古い情報(記憶)が更新 (微調整)されているという例になってしまったが、この場合でも核には更新されない記憶があるだろう。 しかし核にあるはずの更新されない記憶も物理的【物理的に傍点】には風化しないわけではない。戦死した兄さんの顔が彼女の中で、写真と同じようにいつま でもくっきり鮮やかに残っているということはさすがにないだろう。私は十年前に思いがけない若さで死んだ猫のことを思い出さない日はいまでも一日としてな いが、その猫の姿そのものをはっきりと思い浮かべられるわけではない。それどころか、死んで実物を見られなくなった一ヵ月後にはすでに映像としての記憶は 怪しくなっていた……のだが、これは記憶の特性であり、視覚像と記憶の決定的な差異でしかない。 思い出すときに現われる像は、実物を目の前にして見ているときのように鮮明というわけには絶対にいかない。だから、いま生きていて毎日一緒にいる猫にし たって頭の中では細部まで完全に再現することはできない。風化しない記憶や体験というのは、そういう映像や音やその場の人の配置がどうなっていたか? と いうような物理的(あるいは具体的)なことではない、もっと別の次元なのだ。 しかし困ったことにそれは個人の頭の中にしかない。その記憶や体験を検出して、自分以外の人に物理的に再現して見せられる装置でもできれば話は別だが、 そんな装置はきっと永遠に作れないのだから、記憶や体験がどうなっているか、本人以外の誰にもわからない。しかもその本人でさえも、死んだ猫の像を思い出 そうするだけで像の不鮮明さに直面して――「直面」というより、不鮮明さによって目隠しされたようになってしまって――、なんだかとてもあやふやな気分に なってしまう。 記憶や体験は個人の中にしまわれていて、しかも像として想起しようとするとどうしたって不鮮明でしかない。そういうものは勢い“主観的”と言われること になる。“主観的”という言葉には「あやふや」とか「他者と共有できない」とか「本当は存在しない」というネガティヴな響きがある。しかし“主観的”なも のは決してあやふやなわけでなく、まして存在しないわけではない。物理的に確認可能な、“客観的”と言われている事象と別の仕方で存在している。 たとえば3Dの画像。両目を寄り目にして見る交差法と逆に離して遠くに焦点を合わせる平行法の二種類がある、あの立体画像だが、あれはやり方がわからな い人には見えない“主観的”な画像だけれど、やり方がわかっている人には共通の立体画像として見える。 立体画像の鮮明さには感心する。こんな立体的なものがペラペラの紙から見えてしまっていいのだろうかと思う。しかも立体視している最中は画面の全体から 光が発散しているようにも見えている。立体的な像が見えること以上に、その光の発散に私は驚く。そして私は、人間はふだん見るために目を使っているつもり でいて、その実、見ないために見ているのではないかと思う。もしふだんの視覚が立体画像を見ているときのように活発だったら、言葉でそれをフォローできな くなってしまう。そうなると五感の調和がなくなるし、言語への信頼も弱くなってしまうではないか。 “客観”というのを、何人もの人間に共有されうる共通了解だと考えると、それは情報の縮減を意味することになるだろう。『罪と罰』をまるまる一冊読むの は個人の体験であって、それは共有しがたいけれど、『あらすじで読む名作文学』の類いに書かれているあらすじ程度だったら共有可能となる。しかしそこには 人の生き方を変えてしまうような力は何もない。 ……私は「歳月」のことだけ書けばいいのに、“主観”と“客観”に話が逸れてしまった。このままいけばこの文章はもっと別のところに逸れてしまうだろ う。 体験が数値化された歳月によって風化しないということは、あたり前のことのはずなのだが、それをいちいち確認しなければならないほど私自身“数値化”や “客観”というものに冒されているのだ。「私らしさ」とか「私にしかできないこと」というようなちっぽけな考えは、そのような時代に生まれた先のない感傷 的な思考でしかないだろう。それは“主観”とは全然別のことだ。 言葉の体系全体が“数値化”や“客観”が優位になってしまった時代に“主観”の意味をどう復活させればいいのか。このことは、文学という狭い枠の問題で はない。というか、もともと文学とは「私」とか「私の内面」というような狭いものを対象にしていたのではなく、本当の意味での“主観”をめぐる思考だった のだ。 |