◆◇◆時への視線(7)見 る力と、物言わぬ力◆◇◆
「風の旅人」16号 2005年10月発行
http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/index.html



 先日、川崎まで絵の個展を見に行った。私はいま世田谷に住んでいるから川崎までは、井の頭線で渋谷に出て、渋谷から山手線で品川に行って、品川から東海 道線という道順になる。たぶん二十何年ぶりに降りた川崎駅は様変わりしていたが、それは後で書くことにする。見に行った絵はいわゆる抽象画で、しかし抽象 だろうが具象だろうが、絵はそれを見たことのない人に言葉で説明するのは不可能だし意味がないのだが、話の必要からいちおう説明してみると――。
 絵は十点ぐらいあって、一部小さいのを除くと、どれもだいたい一メートル画ぐらいの画面に(画面はキャンバスと厚紙の二種類があったと思う)、色のかた まりがいくつも塗られている。
 「色のかたまり」というのは、たぶん太い筆を使って、円を描く、というのでもないが十センチくらいの丸に近いかたまりを、筆の動き(軌跡)が見た目にわ かるように描かれていて、ボタッ、ボタッと水平にした画面に上から落としたのではないし、エアブラシで描いたのような滑らかな平面でもない。そういう筆づ かいは私みたいな素人にもわかる。
 言葉で説明すると「よくわかるなあ」と思うかもしれないが、毛筆の書を思い浮かべてみるといい。いかにも速く、一気にシャッシャッシャッと書いた字と、 一文字一文字、筆にたっぷりと墨をつけてゆっくり書いた字は、一目で違いがわかる。私たちの目はそういうことを見分けられるようになっていて、場合によっ てはそのときの書いている人の姿勢や息の詰め方までイメージできてしまうことだってある。手紙の宛名書きの字だって、さらさらっと書いた字もあれば、小学 校の低学年生みたいにぎこちないけれど、「本人は精一杯ていねいに書いたんだろうな」ということが感じられる字だってある。
 そういうわけで、その絵の「色のかたまり」は、太い筆でゆっくり(だが、丁寧とか繊細にとかでなく、一筆一筆はわりと一気に)画面に描いていった感じの もので、そういうかたまりになった色が、絵ごとに五、六色ぐらいずつ使われていて、一色につき、十何ヵ所ずつかたまりが塗られていて(いや、「塗る」より 「置く」といった方がいいか?)、それぞれの色は重なっても混じり合わないようになっている。うーーん、これではやっぱり見ていない人は全然わからないだ ろうがしょうがない……。
 わからないついでにもっとわからないだろうことを言ってしまうと、家を建てるときにはふつう、土台を作って、次に柱をしっかり立てて、その柱をたよりに して壁となる板を打ち付けていくものだが、そういう「土台」「柱」「壁板」というはっきり分かれた部分を持たないまま、家みたいなものを、もわっと漠然と 全体的に作り上げていく……、この絵はそういう感じとだも言えばいいだろうか。
 私は個展会場でいくつもの絵の前をせわしなく移動して、そのうちに好きな絵がだんだん三つぐらいに絞られてきて(あたり前だが、こういう絵でも好きな絵 とそうでもない絵がある)、全体で二十分ぐらいそこにいて、
「この人はどういう順番で色を置いていったのだろう……」とか、
「どういう状態になった時にこの人は、絵が『完成した』と感じるんだろう……」とか、
「絵を描きながら、山の紅葉とか、紫陽花の花みたいな、画面の外のイメージは浮かんだりするのだろうか……」
 と、あれこれとりとめのないことを考えていたが、見ているあいだに一番使っていたのは頭ではなくて目だった。つまり、「どういう絵なのか忘れないように しっかり見ておこう」ということだ。
 会場では図録ももらったけれど、印刷された絵は実物とは似ても似つかない。それはこの絵にかぎらず、ゴッホやピカソやマティスの展覧会で売っている図録 だって実物とは似ても似つかない。それはもちろん表面は似ているけれど、実物の絵が持っている力というか感じというか、つまり、良さが伝わってこない。だ から、私は個展会場で一所懸命、目を使った。こんなに目を使うことはやっぱり絵の展覧会に来たときしかない。

 それで会場から出て、様変わりしたJR川崎駅に戻るのだが、大学生まで私はよく川崎に来ていた。何人か友達が住んでいたし、大洋ホエールズのホームグラ ウンドが川崎球場だったし、それに、複々線化される以前の横須賀線は東海道線と同じ線路を走っていたので、鎌倉から早稲田大学に通っていた私は毎日川崎駅 を通過していたのだった。川崎といったら横浜や鎌倉の人間には特定のイメージがあった。しかし様変わりした川崎はなんだかやけに頑張っちゃってて……、地 方の大都市の駅周辺みたいで……、個性がなくて……と、そんなことを考えながらしばらく駅の周辺をギロギロという感じで見て歩いたわけだが、私がふだんと 全然違う「ギロギロ」した視線になっていたのは、個展を見ていたあいだに一所懸命「目」を使っていたからだった。
 そして、私は駅の周辺のスターバックス・コーヒーみたいな店にも入らずに、帰りの電車に乗ったのだが、私の目は相変わらずギロギロしていて、私が大学を 卒業してわりとすぐに横須賀線が複々線になって東海道線と分かれてしまったから、大学に通っていたあいだずっと見ていたこの東海道線沿いの風景をもう長い こと見ていなかったことに気づき、数分後に通過した蒲田の駅を見ていたら、結婚して山梨から蒲田に引っ越してきた従姉のアパートに、母に頼まれてお祝いか 何かを持っていたことを思い出した。
 私が大学一年か二年のことだからかれこれ三十年前だ。その従姉はすぐに三島に引っ越したので、蒲田のそのアパート(たぶん社宅だったのだろう)に行った のは一回きりで、そんなこと、もうずうっと忘れていた……と思っているうちに今度は大森駅にさしかかり、川崎方面から来て手前にあたる、駅の南に伸びる商 店街(たしか山王商店街といったはずだ)が遠くにちらっと見えたら、新入社員の七月を思い出した。
 一九八一年の七月、私は西武百貨店のカルチャーセンターにいて、大森の西友を拠点にしたカルチャーセンターの設置が可能かどうか、その予備的な調査とし て、大田区の地域特性がわかる資料を区役所に行ってもらってこいと言われて、池袋から山手線〜京浜東北線と乗り継いで大森まで来て、大森駅から商店街をう だるような暑さの中、だらだら歩いて区役所まで行ったのだった。着いたのはたしか四時半くらいだったが、当時の区役所はすでにほとんど誰も人がいなくなっ ていて、私はぽつんと残っていたいかにもやる気のなさそうな中年おじさんから(いまの私はあのときのおじさんより年上になっているかもしれない!)、大田 区の地域別の人口とか住民の職業・年齢の構成がごく大ざっぱにしかわからない資料とか、「大田区の沿革」みたいな冊子(あるいはコピーだったか)なんかを もらって、駅に戻る途中にあった田舎っぽい喫茶店に入って、小一時間本を読んだ。
 何を読んだか、さすがにそこまでは思い出さなかったが、この全体の光景は二十何年忘れていたとは思えないほどはっきり出てきた。いや、実際にはあのとき から川崎の個展に行った日までに二度か三度はちらちらと思い出したことがあるかもしれないが、あのとき以来私は一度も大森に行ったことがないし、電車の窓 から山王商店街を見たことは本当に全然なくて、私のこのときの記憶は山王商店街をギロギロ見たことによって喚び起こされたものだった。山王商店街は東海道 線から間近に見えるわけではなくて、かなり離れている。看板の字なんかひとつも読めないような距離だ。それでも目がギロギロしていると、ふだんだったら遠 くて何も感じないようなものまで、こちらの気持ちに訴えかけてくる。
 喫茶店で時間をつぶして六時半の就業時間より少し遅れて帰ると、先輩の女子社員が、
「大丈夫だったぁ。『暑いから、保坂君溶けちゃったんじゃないのぉ』って、みんなで言ってたのよぉ。」
 なんて、なかば本気に「溶けちゃう」ことを心配してくれていた――などということまで次々思い出したのだが、それはともかく、ギロギロと神経が集中して いる目で見てみると、品川から渋谷まで、山手線から見える風景のなんと雑然として美的でないことか!
 電車から見えるビルは、それを建てた年代ごとの流行のデザインになっているだけで、周囲との調和なんて何も考えていない。古くて低いビルに囲まれていか にも「インテリジェント・ビルです」みたいなガラス張りのビルが聳え立っている光景は滑稽ですらあるのだが、その滑稽さを当のビルは自覚していない。ビル の設計者の得意満面の愚かな顔が見えるようだ。まわりに関係なくビルをデザインするのは簡単なことなのだ。
 ビルを建てる前提となる街があり、その街から浮かずに、しかもシャキッと格好いい建物を造るとなると、きっとふつうにビルを設計するのの十倍くらい頭を 使わなければならないだろう。小説でも現実から切り離して、ただフィクションとしてよくできた話を書くのは簡単だけれど、現実と連絡をつけるとなると俄然 むずかしくなる。ただのフィクションを書くのだったら、頭はほとんどルーティン化してストーリーを生産する。ああいう滑稽なビルもその程度のルーティン化 した頭の使い方だろうと想像がつく。
 あたり前だが、ビルは街の一部だ。その街がどういう歴史を持っているのか? ということや、その街がいまどういう街で、これからどういう街になろうとし ているのか? ということまで、視覚的に――理屈でなく視覚なのだ――感じられるようなビルになっていなければプロの仕事とは言えないのではないか。
 そんなデザインは不可能だ?
 素人には不可能と思われることを可能にするのがプロの仕事というものではないか。不可能と思われる要素を入れてなお何事かを成し遂げなければプロとは言 えないはずではないか。一人でいい気になっているビルがそこらじゅうに建っているということは、ビルの計画がただカネを持っている人のあいだだけで決めら れているということを語っている。街の歴史を含めた全体の景観を無視した設計でかまわないと言うのだったら、全国どこに行っても同じ看板が出ているコンビ ニのデザインと同じことになってしまうじゃないか。
 そういうわけで、目に神経が集中してギロギロと見てしまったために、私は山手線で不愉快になったり、ちょっとした憤りを感じたりした。本気になって美術 や建築をやっているごく一握りの人にとって、いまの日本の風景はさぞ不愉快で苦痛だろうなあという気持ちにもなった。
 ――日本中の人が、半年に一回でも展覧会に行って、目に神経を集中させる経験をすれば、街を見るみんなの視線が力を持つようになるのではないか。それは 文字どおり“物言わぬ力”だけれど、文化というのはそういうものの集積のことなのではないか。この“物言わぬ力”が十年、二十年……とつづくことによっ て、街は見られていることを自覚するようになって、やすやすと流行に流されるようなビルを受けつけず、その街の歴史を反映した建物でないと「街として」受 け入れないようになっていくのではないか、と思った。

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