家(うち)には毎晩、七匹の猫がエサを食べに来ている。 最初に現われたのはマミーで二〇〇一年の初夏で、他の六匹はすべてマミーから産まれた。三毛のピースは〇二年の夏生まれ、茶トラのチャッピーは〇三年の夏生まれで、残りの、斑(まだら)のマーちゃん、白のシロちゃん、茶色のチャロちゃん、黒トラのシマちゃんの四匹は、〇一年の夏に生まれた三毛のミケコが〇三年の夏に産んだのだが、ミケコは〇三年の十一月末の冷たい雨が降っている朝に死んでいた。 外傷がなく、口から血を吐いていたわけでもないので、交通事故や毒殺でなく、心臓発作だと思うが、〇三年はマミーから産まれた他の二匹も、一匹は生後三ヵ月くらいで姿が消え、もう一匹は車にはねられて死んだ。マミーからは他にも〇一年と〇二年で合計五匹産まれていてそれぞれ無事に生きているが、いちいち書いていたらキリがないのでやめておく。「このまま増えつづけたらヤバイ」と思って、かれこれ二年におよぶためらいを振り切って、猫助けのボランティアの人と一緒に捕獲器を仕掛けて避妊に踏み切ったのは〇三年の夏だったが、そのときにはマミーもミケコも出産済みだった、というわけだ。 それにしても、マミーの妊娠はわかっていたが、ミケコまで妊娠していたとは思わなかった。コロコロした体型だったからわかりにくかったし、だいたいミケコは満二歳になろうというのに母親のそばにいつでも一緒にいて、一年目に妊娠しなかったから、「弱い猫で、妊娠できないんだろう」と思っていたのだ。事実、それから三ヵ月半後に急死してしまったんだから、やっぱりミケコは弱かったのだろう。もっと早く避妊手術しておけば四匹も産んで育てるという負担がかからなかったのだから、ミケコは生きていたんじゃないかと思うけど、今いる四匹はこの世にいなかった……。 捕獲器を仕掛けたのは、素手で掴まえられないからだ。ここからが今回の本題なのだが、野良に育てられた生粋の野良猫は、毎日エサをもらいに来ているのに人間に触らせない。エサを出すのが遅くなると、私の足にまとわりついて、私を見上げて「ニャーニャー」抗議までするくせに、じかに触らせない。 七匹の中で一番人懐っこいのは斑のマーちゃんで、マーちゃんだけはエサを待っているときには首を掴んで持ち上げられたりしても平気なのだが、他のときにはやっぱり触らせない。夜中に私がゴミを出しに出たときもたいていマーちゃんは私のそばに寄ってきて、ゴロゴロ転がってお腹を見せたりするのだが、触ろうとするとピュッと逃げる。 今年の五月のメチャクチャ寒暖の差が激しくて雨ばっかりだったときにはピースがひどい鼻風邪にかかって一週間現われず、やっと姿を見せたときにはヒゲにまで泥がついているという本当にボロボロの状態で、鼻が利かないからエサをエサと認識できず、「苦しい」とか「つらい」とか一所懸命私に訴えかけて、私が箸で差し出した刺身をやっと食べられたという状態で、それくらい私を頼っているのに、それでもやっぱりじかに触らせない。 じかには触らせないけど、猫たちはみんな私になつき、私を頼っている。これは明白で、相当筋金入りの懐疑主義者でもそれを否定することはできないだろう。問題は「愛の感じ方」と「愛のあらわし方」のあり方なのだ。 猫が見ても人間が見ても、エサはエサだ。猫が食べ残すとカラスがそれを食べに来るから、カラスにとってもそれはエサだ。もちろん猫のエサが「食べ物」の範疇に入らない生き物もいるから、すべての生き物にとって「エサはエサだ」とまで言えないけれど、エサにはかなり簡単な共通了解がある。 しかし「愛」にはそんな簡単な共通了解はない。言語哲学や分析哲学の人たちは「エサも愛も同じだ」と言いたがるが、同じ名詞でも、視覚を起源に持つ物とそうでない抽象的なものでは、人間には別の引き出しに整理される、ということを、自閉症児の観察から証明できるらしい。自閉症児は視覚を起源に持つ物は理解できるけれど、そうでないものは理解できない——ないしは、理解しているかどうか外から証明できない——そうだ。 視覚起源の物を子どもに教える場面を想像してみれば、(1)子どもが指差して「あれは何?」と言った物に対して、大人が「あれはコアラだよ」と答えているか、(2)「どれがハムスターなの?」と子どもが訊いてきて、大人が「真ん中のカゴにいるこれがハムスターだよ」と答えているかのどちらかで、(1)(2)いずれにしても指で差し示すという動作が介在している。しかし「愛」は指で差し示すことができない。 アメリカの作家のカート・ヴォネガットがカーペットの上で犬とじゃれ合っていると、それを見ていた息子が「お父さん、お父さんは僕を愛してないの?」と言ってきたから、ヴォネガットは息子ともカーペットの上でじゃれ合ってあげた。という話がたしか『スラップスティック』に書いてあったが、そういう笑い話はさておき、「愛」や「懐かしさ」などの抽象概念を知るためには時間が介在しなければならないから、指では差せない。 「あなたのママはどこにいるの?」と訊かれたら指で差せるけれど、「ママ」とは外から見えるどこにでもいる女性のことでなく、自分にとってのかけがえのなさなのだから、やっぱり指では差せないもののうちに入るだろう。ただし、ママという人物はいつも指で差せるから、指差し先行で、指で差し示すうちに「ママ」としての厚みが加わるということなのかもしれないが……。「恐怖」や「驚き」も、はっきりその場でわかるから、案外指差し先行型の概念かもしれない。 などといろいろ言っていると、明快だったはずの二つの区分がどんどんあやふやになってくるから困るのだが、「愛」はやっぱりどうしても指では差せない。理屈を並べて「エサ」と「愛」の区別を曖昧にするのはいくらでもできるだろうが、そんなことをしても何も得られるものはない。 話を戻すと、毎晩エサを食べに来る猫たちは、私になつき、私を頼っている。親しみも感じているだろう。そこまできたら、飼い猫だったら、当然濃密な感情表現をして応えてくれる。家の中にいる三匹の猫たちは、それぞれ表現の仕方は違うけれど、みんないろいろな親しみの表現をしてくれて、それを「愛情表現」と言ってもほぼ間違いはない。 しかし、家の猫たちがどれだけ私を信頼しているとしても、私に何をされても嬉しいと思っているわけではなくて、たとえば、獣医に連れて行かれるのは嫌で、キャリングケースが出てきたら逃げ回る。最年長のペチャはひどい便秘症で、ウンチがどうしても出ないときには私が肛門に指を突っ込んで掻き出すのだが、そのときはもうギャーギャー大騒ぎで、油断したら引っ掻かれて噛みつかれる。 外の猫たちにとって、人間に直接触られるのは、そのレベルの恐怖なのではないか。生粋の野良猫として野良猫に育てられる過程で——しかし人間からエサをもらっておきながら「生粋の野良猫」もないもんだが——、人間に頭を撫でられたり顎の下を撫でられたりするのもけっこう気持ちいいものだということを教わらなかった、というような。ゴロンと仰向けになった姿勢でお腹を撫でられる気持ち良さを知らないのはもったいないが、それが外の猫たちにとって愛情表現の範疇に入らないのだから仕方ない。 人間だって、たとえばアナル・セックスを愛情表現の一環と思える人とそうでない人がいるではないか。前者と後者の恋愛は不幸だろうが、それはともかく、人間に「愛」を教えることは可能だろうか。逆に言えば、他人から「愛」を教わることは可能だろうか。サディズムが愛だと思っている人が世の中にはたくさんいて、彼らは猫や人間の幼児をさらってきて切り刻んだりすることに歓びを感じたりする。彼らは「性欲」の発露を「愛」と誤解しているのだろうが、普通と分類される人たちだって、恋愛の最も濃密な段階では「愛」がほとんど「性欲」しか意味していない。 もっとノーマルな人に限っても、嫉妬を感じられなければ自分がその人を愛していることを確認できない人がいっぱいいる。駄々っ子が母親を困らせるように、好きな相手を困らせることが「愛」だと思っている人もいっぱいいる。かと思えば、相手が事故で入院した途端に恋愛感情が噴出する人がいたり、誰がみても全然取り柄のない男を心の底から愛している美人で頭のいい人がいたり……と、「愛」は不可解なことだらけだが、だいたい、「愛」と「恋愛」はどこまで同じと考えていいのか。 昨年末に母方の伯父が亡くなったときの伯母の憔悴した顔が忘れられない。伯父と伯母は見合い結婚で、お見合いから結婚するまでの期間も結婚してからも、恋愛のように気持ちが燃え上がった時期があったとはとても思えないけれど、四十数年連れ添うあいだに二人は深く愛し合うようになっていた。 それが「本当の愛だ」なんて言うつもりはないけれど、これもまた「愛」であり、大恋愛の「愛」も四十年連れ添うあいだに醸成された「愛」も、相手を自分の一部であるように感じているところは共通している。恋愛の渦中にいると、信じがたいことに相手なしには生きていけないと思い込んでいて、見るものも考える内容もすべて相手と共有しているような気がしていて、さらに信じがたいことには失恋と同時に本当に精神が破綻する人までいる。 「愛」というのはつくづく厄介なもので、「愛」はどうやら意識や記憶と同じように〈私〉を構成する不可欠な要素であるらしい。つまり、〈私〉から意識や記憶を取ったら〈私〉でなくなるように、〈私〉から「愛」を取り除くことは不可能なのだ。それは私が生きてきた時間の厚みそのものであり、〈私〉が世界と関わる関わり方に甚大な影響を及ぼす。「愛」は〈私〉の内部そのものだから、人に教えられないし、人から教わることもできない。意識や記憶の内容を知ることはできても、意識や記憶の過程そのものを共有することができないのと同じことだ、とでも言えばいいか。 生まれてから一定期間母親に面倒をみられなければ成長できない哺乳類という意味で、猫にもおそらく人間と同質の「愛」があり、「愛」はそれぞれの猫の内部そのものであるために、毎晩エサを食べに来る猫たちに私は「愛し愛され方」を教えることができない。というか、一度猫たちの内部で確定してしまった「愛し愛され方」を変えることができない。しかし私に変えられなくても猫たちは今の自分たちの「愛し愛され方」で苦しみを感じてはいない。 ……では、小動物や幼児を切り刻むことに快感を感じる人たちの内面にあるものを「愛」と呼ぶことはできるのか。それは性衝動を「愛」と同義に規定することになるだろうが、性衝動の影が微塵もない「愛」はきっと存在しない。マザー・テレサやダイアナ妃のような弱者への眼差と彼らの衝動を同一平面で論じることはおぞましすぎるが、両者の中にある心的エネルギーが本当に違うものなのか私にはわからない。 その違いがわからない私がおかしいのかもしれないが、私は考えれば考えるほどわからなくなる。フロイトは人間の意識を、無意識の大海に浮かぶ孤島のようなものだと言ったけれど、「愛」について考えていると、人間とは「愛」というマグマを内に持ちつつ、それを噴出させることもその熱に熔かされることも逃れている、奇跡的な存在のように思えてくる。 |