◆◇◆谷崎潤一郎全集 月報◆◇◆ 

〈暗い青春三部作〉とか〈三大青春鬱屈小説〉とか私が一人で長年呼んきた小説があって、坂口安吾『暗い青春・魔の退屈』、尾辻克彦『雪野』と谷崎潤一郎の『異端者の悲しみ』だ。安吾の『暗い青春・魔の退屈』は自伝的短篇を幼年期から順に角川文庫で独自に編集したもので、『雪野』は幼年期からはじまるがものすごく貧しかった画学生時代が回想の中心となる長編小説で、これは野間文芸新人賞を受賞しているが私は尾辻克彦というより赤瀬川原平ファンだったので発表直後に読んだ。どれも正確には〈青春〉というより〈世に出る前の鬱屈〉が題材だ。読んだ順は、『異端者』〜『暗い青春』〜『雪野』で、前の二つは大学の四年か五年のときで、『雪野』は就職三年目だった。
「小説家になる」と思った若者は、思ったその日からデビューが決まるまではどんなに気楽で楽しくやっていそうに見えても「小説家になる(のに、まだなってない)」の一点ではズンッと重い。六十歳になった今から見れば二十代の自分はまったく夏の青空のようにスッコーンと抜けて明るかったが、本人の意識の奥には重く晴々しないところもあった(あたり前か)。
 この原稿の依頼がきたのは十二月二十日すぎのことだったから、年末は『異端者の悲しみ』を少しずつ読んでいて、大晦日の夜七時、鎌倉の実家に向かう駅から長谷観音前につづくバス通りのすっかり店が閉まっていつもよりだいぶ暗い商店街を歩きながら、大学五年の元日の夕方六時頃、この道を逆に歩いていたのを思い出した。鎌倉は街全体が大晦日の夜十時頃から初詣客で賑わいだし、それが元日の日中いっぱいつづく。そして日が暮れると街は一気に閑散とする。大学五年目の自分はやっぱり外に出るのに華やぐ初詣の人だかりが去った夜の通りを選ぶような心境ではあったということなのだろう、そしてそのとき読んでいたのがまさに『異端者の悲しみ』で、そのときが再読だった。
 今回、〈三大青春鬱屈小説〉を読み返してみたら『雪野』が突出して暗い。作者の赤瀬川さんもよくこれを書ききったと思うし、読者の私も読みきったものだ。私は『異端者』の谷崎のように学生のうちにデビューすることは叶わず、就職して三年が経過しようとしていたところだったが、特別鬱屈していたわけではないどころかむしろ毎日が楽しすぎて、それでこういう逆のガス抜きを必要としたのかもしれない。
 安吾のこの自伝的短篇集に収録された中では幼年期を描いた『石の思い』が一番好きだ。安吾の自己省察は犯罪捜査のプロファイリングに近く、自分のことを書いていても私小説ではない。
 この三つは今読むと(といっても『雪野』は入手しにくいが)、三者三様の文学観の反映で、この時期の谷崎は自伝的題材を扱っても耽美になると思った。耽美主義というのは観念つまり形而上学だから、この小説にはいわゆる時間は流れない、ということは主人公は時間の非情さにさらされない。妹は死につつあるが死もまた美だから哀れさでやりきれなくなるというのでない。死の床にある妹の眼差しが作者のマゾヒズムの起源であると読みようによっては読めるような書き方をすることで、自分がマゾヒズムを生きることが妹の眼差しが生きつづけることであるという幻想も持つことができる。だから一番ふつうの上質の文学作品と感じた。主人公の章三郎は一見救いがない状況にいるが作品全体が観念みたいなものだから『雪野』のように感情がべったりこっちに貼り付いてくることない。学生だった私は浅はかにも書かれた題材だけで〈暗い話〉と思い、この暗さに救いがあるのはラストで主人公が文壇デビューするからだと、自分の将来の願望も反映させて考えていたわけだが、つまりそういうことではなく作品がそもそも過度の心理的な同調を求めていなかったというわけだった。
 それで『異端者の悲しみ』をちょうど読んでいたこのあいだの大晦日、その夜の人通りがなく店も閉まっているから街全体の照明がいつもより暗い閑散とした商店街、ということに話をもどせば、私はそのとき大学五年の元日の夕方、同じ閑散とした商店街を歩く自分を思い出すというよりそれとちょうど六十歳の自分と重ねることができた原稿依頼が年末だったというタイミングを僥倖と感じた。六十歳という年齢ではあの若かった先の見通しがない時期を回想するのもまた楽しくもある。その二週間前、私は二十代の前半に関わっていた映画の仲間が死んだそのお別れの会でピチピチに若かったみんなが映っている映像を観て、死んだ友達までが仮設の祭壇で笑っているように感じたのだった。
 フロイトが「夢が願望充足であるとするなら、中年期以降になって若く貧しかった頃を夢に見るのはいかなる願望充足と考えればいいのか?」という問いを立てて、自分でそれに答えているが、私はむしろ今の自分の方こそ、考えのなかった二十代の自分が見ている夢かもしれない、いや、おまえはそうであることを望んでいるに違いない、あの年をまたがる、いつもよりずっと暗く閑散としたバス通りをあっちに向かって歩くうちにこっちに向かって歩いていたことに気づいていないのだ。