◆◇◆たいせつな本(下) カフカ 『城』◆◇◆
朝日新聞 2008年1月13日(日)


 最初に読んだカフカは『変身』だった。私は高校生で意味はわからなかったが、変な話だと思った。次に読んだのは『審判』 で、そのとき私は大学一年で水疱瘡だった。私はひたすら痒かった。『城』を読んだのは半年後の秋だった。やっぱり意味はわからなかった。三作とも普通の理 屈が通用しない感じは感じたが、それが解説に書かれているような「実存主義」だとか「現代人の疎外された姿」だとかいうようなことはわからなかった。だっ て、そういうことを言いたいんだったら論文でそう書けばいいじゃないか。
 小説は論文じゃない。朝起きたり道を歩いたりすることをわざわざ書く。そのこと自体が何かでなければおかしい。私は確信が持てないままカフカを読みつづ けた。自分のこの感じがようやく確かなものになったのは、前回の小島信夫の小説を通じてだ。小説とは読後に意味をうんぬんするようなものでなく、一行一行 を読むという時間の中にしかない。音楽を聴くことやスポーツを観ることと同じだ。いま読んでいるその行で何が起こっているかを見逃してしまったら小説の興 奮はない。そこにあるのは言葉としての意味になる以前の、驚きや戸惑いや唐突な笑いだ。
 『城』は測量師として招聘されたKがいつまで経っても城に辿り着けないという話だ。話としてはそれだけなのだが、話の展開が記憶できない。数年前、私は 『城』を四回つづけて通読したが、読むそばからどういう順序で話が進んだのか忘れている。この憶えられなさは尋常じゃない。『城』の場面の順番を憶えるこ との難しさに比べたら、「現代人の疎外……」みたいな意味を言うことのなんと簡単なことか。小説家は意味でなく一つ一つの場所や動作や会話を書く。それが 難しいのだ。読者もそう読めばいいのだが、やっぱりそれが一番難しいから、意味に逃げ込む。
 カフカの小説は比喩ではない。ある特殊な体験なのだ。あなたが自分の体験を人から比喩だと言われる不愉快さを想像してほしい。小説を比喩として解釈する 時代は、カフカが終わらせたのだ。
 

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