◆◇◆「好きなもの」というリレー・ エッセイ◆◇◆
毎日新聞 2008年11月16日(日)読書面


 日々のささやかな幸福は、家人が寝たあと、音楽がかかる居間で猫を撫でながら本を読むことだ。ここに私の好きなもの三つが 凝縮されている。
(1)猫を撫でる
 猫を撫でるということは、撫でる私の側にも猫を撫でるだけの時間と気持ちのゆとりがある、ということでもある。猫は三匹だが撫でられるのが好きなのは、 ペチャ(21歳オス)とジジ(19歳メス)の二匹だけで、若い花ちゃんは撫でられそうになると逃げる。猫も老齢になると自分の世界に閉じこもりがちなの で、撫でられるときには心身が良好な標でもある。それがまたしみじみ嬉しい。
(2)夜、音楽をかける
 最初に書いた情景はいかにも優雅だが、猫を撫でるとき私はフローリングの床にべったりすわっていて、再生装置は20年前のミニコンポだ。そしてかけるの は、フリージャズや現代音楽だから、どちらかというと騒音にちかい。しかしメロディアスな音楽は私は苛々してきて、騒音的な音楽の方が心休まる。しかしそ れらの音楽は猫にもあんまり心地よくないらしく、たまに耳をひっぱったりする。寝ている家人=妻を起こしてはまずいから、騒音的な音楽を私はとても控え目 な音量で流している。
(3)本(中でもカフカ)を読む
 片手で二匹の猫を交互に撫で、片手で本のページを押さえる、という体勢だから頻繁にページをめくらない本が望ましい。最近それにぴったりの本が出た。 『カフカ・セレクション』(平野嘉彦編・ちくま文庫)だ。カフカの短篇とノートに書き遺された断片をテーマ別に三冊に編集してある。この翻訳が素晴らし い。
 カフカの書き方を比喩だと安易に解釈せず、「むしろそれは現実である」という線で訳されているから、奥行きが圧倒的に増し、わずか一行の中に劇的な動き が起こる。いままで素通りしていた短篇や断片が楔のように、私の胸に打ち込まれてくる。同じページをゆっくり何度でも読んでいたい。できれば丸ごと記憶し たいと思う。(小説家)


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