◆◇◆それは外からではわからない◆◇◆
「i feel」(紀伊国屋書店PR誌)2004年秋号 
特集「だから経済学はおもしろい。」
 
 保坂和志の小説の登場人物たちは、いったいどうやって収入を得ているのか?
 これはよく訊かれる質問で、もっともらしい答えをすることもあるけれど、本当のところ「どうでもいいじゃないか」と思っている。カネというのは、新聞やテレビで“公式”に言われているような流れ方だけしているわけではない。
 たとえば数年前、私の友人が再編される前のある省庁からビデオ製作の仕事を受けたときのこと。その省庁には「スタジオ使用料」「機材レンタル料」「ビデオ実費」などの項目がいっさいなく、あるのは「人件費」だけ。しかもその人件費は一人一日七万円! 友人が仕方なく、すべての製作費を人件費に換算して、「一日五人」とかにして提出すると、向こうは「そんなもんでいいんですか? もう二人増やしておきましょう」と、優しいことを言ってくれたりする。あるいはまた、私が別の省庁から講演を依頼されたときには、講演直後に御祝儀袋に入った謝礼を手渡されて、「領収書はいりません」と言われたりもした。
 官のやってることは非公式なことだらけだが、それをもって「カネの出所なんか、どうでもいいじゃないか」と思っているわけではない。一九七〇年代後半、自主映画を作っていた私の友人たちは半分は学生で、残りの半分はプータローだった。映画作りというのはけっこう忙しくて、それにまともに関われば関わるほど、毎日時間が拘束されるアルバイトなんかはできない。
「腹が減ったら食い逃げ、歩くのが嫌になったらタクシー乗り逃げ。これが本当のシンプル・ライフ」なんて言ってたヤツもいないわけではなかったけれど、全体として、みんな何となく食って、安い飲み屋で酒も毎日のように飲んでいた。若さというのは、文字どおり“財産”で、カネがなくてもなんだか適当に楽しい日々を送れてしまうようになっている。私自身は映画作りにのめりこんでいたわけではなかったから、西武百貨店に就職したけれど、これがまたびっくりするような安月給で、給料日の二週間後にはもう一銭も残っていない。私のカネの使い方に計画性がなかったことは認めるけれど、それ以上に絶対額が低すぎて、一ヵ月分に振り分けたくても振り分けようがなかったのだ。
 世間では安定した生活のために給料取りになると思われているが、額が低すぎれば給料で安定した生活は得られない。「計画的に使う」というのは安定の基盤がある人に当てはまる原理で、収入の絶対額が少なくて不安定な生活を強いられる人間は計画性なんかない方がいい。スケートボードと一緒だと思う。
 スケートボードの競技を見ていると、「滑る」のでなく「落ちて」いる。高い所から落下していく人間と一緒にボードも落下していて、足からボードがかろうじて離れないですんでいて、その瞬間を制止画像で見たら、空中分解寸前のようにしか見えない。それは普通に考える「安定」とはほど遠い姿なのだが、垂直にちかい傾斜を滑るスケートボードにとってはそれこそが安定であって、緩やかな傾斜を滑るときの重心の位置にこだわっていたら、本当に、人間とボードが空中分解して、地面に叩きつけられてしまう。
 私たちが子どもの頃から教え込まれた収支計算は、一定以上の額の定期的な収入が保証されているサラリーマンをモデルにした収支で、そこでは支出の項目に計画的に振り分けることや倹約して貯蓄することばかり教えるわけだけれど、いい加減にやっていた方がうまくいく条件や環境がけっこういっぱいある。日々の生活はサラリーマンと比べたら場当たり的になるけれど、若いうちはやっぱりその方が楽しい。
 あの頃映画を作っていた友人たちが今どうしているかと言えば、映画やビデオ関連の製作会社を経営して羽振りがよくなっていたりする。そういう人間が一人二人だけではない。私だって勤めていた頃よりずっと収入が増えた。企業に所属していれば「安定」が得られるというのは、リストラがなかった時代から、すでにじつは嘘で、勤め人が独立して自分の知恵でカネを稼ぐことを妨げるために企業が流した幻想だったのではないかと思ったりもする。カネの流れというのは環境や業態ごとにいろいろにできていて、外から想像するだけではわからないことだらけなのだ。


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