四月になると自分が新入社員だったときのことを一度は思い出す。 まわりに誰も知り合いがいず、自分が誰なのか知られたいと思ったら、目が合った相手にとりあえず自己紹介して出身校や出身地の話題などからはじめてみ る。新しい環境に入ってみんな颯爽としているように見えるけれど、本当は緊張と不安の方が大きい……というあの感じは新入社員か新入生でしか経験できない もので、自分はたぶんもう二度と経験することはないんだろうなと思うと少し残念ではあるが、環境の激変を経験しないで済んでいるいまの境遇にはやっぱり感 謝すべきだろう。 私が新入社員だったのは八一年の四月。最初の一週間は研修で、その初日、昼休みに七、八人のグループになって、ぞろぞろランチの食べられる喫茶店に入っ ていったときのこと。ひとりの男が、 「俺たち全員、これから定年まで一緒なんだから、××××」 と、話の口火を切った。 「××××」の部分で彼が何を言ったか記憶にないが、「定年まで一緒」という言葉に私は驚いた。「そうなんだよな。ふつう『定年まで一緒』って考えるん だよな……」というこれが、一つ目のカルチャーショック。ま、これは「物は考えよう」のレベルだからどうってことないが、二つ目はすごかった。 会社というところにはとんでもなく意地悪な人がいる。しかも、同僚も上司もその人(たち)のことを見て見ぬふりをしている。 大人の世界の悪しき風潮が今ではすっかり子供の世界にまで行き渡って、学校での意地悪やいじめがあたり前になってしまったということなのかもしれない が、少なくとも私は大学まで、そういう意地悪な人間が誰からも非難されない環境なんて考えられなかった。 特に私が配属された部署は当時新設で、各部署からの寄せ集め集団で、中途採用者も多かったから、みんなが勝手な方を向いていた。私自身、学校や会社に対 する帰属意識はきわめて薄いから、「会社のために」「部のために」とは思わないが、「新入社員が困っていたら、一言アドバイスぐらいしろよ」と言いたい し、「ぶすっとした顔ばかりしてないで、にこやかにしているのが人としての礼儀だろ」とも言いたい。 そういう職場だから、新入社員の一年間(いや二年目も)私は意地悪二人組から週に二、三回ずつ意地悪されていた。もっとも、自分の机の上が物でいっぱい だからといって、きれいに片付いている意地悪A氏の机に灰皿を置いておく私も懲りるということを知らないのだが。それにしたって、制裁に私の机の上で吸い 殻いっぱいの灰皿を逆さに伏せるようなことはやっぱりしないでしょ? それで意地悪A氏B氏の二人と私はしょっちゅういがみあいになるのだが、そういうときには決まって、他の先輩社員たちは、電話をかけはじめたり、書類を 書きはじめたり(さっきまでお茶飲んでたくせに)。 意地悪な人はたいてい仕事もしない。自分に与えられた最低限の仕事はするとしても、他の人まで助けるようなことは絶対しない。仕事をしないから意地悪が 際立つ。職場というのは利益共同体だから仕事さえできれば迷惑な人ではないから、意地悪が意地悪とはならない。 意地悪な人は、「自分は正当に評価されていない」とか「不本意な仕事をさせられている」と思っているから、悪循環として仕事以外の方面に気持ちが肥大し てしまっている、というわけだ。そういうことにこだわるということは、意地悪な人はじつは人一倍の権威主義者であり、上司(ただし部門長クラスの偉さの 人)の目をとても気にしてもいる。当然、気も小さい(「豪快で意地悪な人」というのは聞いたことがない)。 これらを総合すると、意地悪はその人自身の自由意思の次元を超えた現象ということになる。大きな不安を抱えている人が明るく振る舞おうとしても振る舞え ないのと同じことで、その人の中にある職場への不平不満が、その人の行動を、意地悪へ意地悪へと歪めてしまっているのだ。心神喪失とか心神耗弱(こうじゃ く)と言うと大袈裟だが、とにかく意地悪な人は自分の意思ならざる力に操られるようにして意地悪をしてしまっているのだ。 そう思って見るようになれば、された意地悪にどっぷりとはまっていた自分の心のありようが変わる。「あの人は意地悪なんかに労力を使って、なんと人生を 空費していることか」と思うようになれる。人間関係というは心理戦だから、相手の見極めさえつけば、心理的に優位に立つことができる。そうすれば、そのう ちにやられっぱなしではなくなる。 新入社員の皆さん、あなたの配属先に意地悪な人がいたら、ぜひこのことを思い出してください。そして先輩社員の人は、せめて一言「あいつは意地悪だか ら」と耳打ちしてあげてください。新入社員の気持ちはそれだけで、ぐっと救われるんですから。 ところで、研修初日に「定年まで一緒」と言ったメンバーはその後どうなったか? 九三年からリストラがはじまり、大半はいなくなった。会社は去ったが、 同期の飲み会は不定期とはいえ続いている。 |