科学による世界像と肉体との連絡
二十世紀の自然科学による世界の記述はやはり驚くべきもので、それ以前の、人間の想像力によって語られてきた世界像を一変させた。宇宙についても遺伝についても、二十世紀以前、人間は正確にそれらを記述する手段を持たなかったために、どれだけ“物自体”“世界自体”に就こうとしても結局は人間の想像力を超えるものにはなりえなかったのだが、自然科学によって、宇宙や自然や遺伝が人間の想像力とは別の原理によって動いているという、本来の姿を顕わすことになった。奇妙に響くかもしれないが、「人間」でさえも従来人間がイメージしていた像と別のものになった。
たとえば、「意識」というものは視覚・聴覚・反射……etc.の上位に立つ、いわばオーケストラの指揮者のように考えられてきた。しかし人間の機能の中で意識とは格別に不安定なもので、指揮者のような独立した機能とは考えにくい。感覚諸器官の方は生物としての人間に強固に組み込まれた相当程度独立した機能で、その証拠に騒音が耳から入っていても視覚が大きく攪乱されることはない。それに対して意識は騒音によって激しく乱される。意識というのはオーケストラの指揮者のような主導的なものではなくて、むしろ逆に、感覚諸器官が順調に作動している状態でようやく安定する従属的なものなのだ。感覚を個々の楽器にたとえるなら、意識とは感覚諸器官が鳴らしている音楽のような現象なのだと思う。
ここで私は、「人間は遺伝子に支配されている」とか「意識とは脳内物質の産物であって自由意志などというものはない」というような、似非科学的で似非哲学的なことを言いたいわけでは全然ない。そうではなくて、科学によって記述された世界像が、人間がイメージ可能なそれらの像と隔絶しているということが問題なのだ。イメージや想像力というのは人間から発しているものなので、そのかぎりにおいて肉体と結びついている。
それに対して科学による記述は独立した体系なので人間の肉体との連絡を必要としない。しかし、コンピュータと違って人間は理解するためにどうしても自分の肉体に書き込むという作業を必要とする。たとえば、マイナスが数であることを示すために数直線という視覚イメージを必要としたのと同じように、見えたり、感じられたりすることが、人間の肉体に像として定着させるためにどうしても必要なことなのだ。
哲学者ではない小説家の私がこういう本を書くことになった理由もここにある。文学は長いこと「自分が見たものだけを信じる」とか「自分の経験に基づいて書く」という素朴な立場を信奉してきた。しかし、科学によって明確にされつつある世界像は、自分の目に見えるものだけを信じることの虚偽を教える――というよりも、「見える」という言葉の定義が、本来人間に見えていたものをじゅうぶんに伝えていなかったことを教える。
世界とは人間が作り出したものではない。人間の方こそ世界があるから生まれてきた。――これは自然科学的に考えるまでもなく、きわめてあたり前のことだけれど、“それを知る人間”という項を介在させた途端にいきなり複雑になって、哲学は「世界が存在をはじめるのは人間が見るからだ」式の議論をえんえん繰り返してきた。この本で私はそれを断ち切りたかった。私自身が今後小説を書きつづけるためにも、人間からでなく世界からはじめる必要があったのだと思う。
「人間が見るから世界が存在をはじめる」のではなく、「世界を見るから人間が存在をはじめる」。この認識は、非−人間的な人間像(または〈世界−人間〉像)かもしれない。想像力によって世界を語ってきた人間は、結局のところ、世界を語っているつもりで自分を語るという構図に馴れすぎているために、肯定の対象が人間でなく世界にあると非人間的と感じてしまう。しかし私のこの本では、「人間として理解するとは肉体に書き込むことだ」という立場から、過剰なほど「見る」こと「見える」ことにこだわり、それによって世界が肯定され、世界が肯定されたうえで、概念としての「人間」でなく、人間のまさに生きている状態が肯定されることになるはずなのだ。――生きている状態の外にある、〈私〉が生まれる前と死んだ後と世界との関係はその次の作業ということになるのだが、これは今回の本で考えたこととかなり近接しているはずだ。 |