ku:nel[クウネル]創刊2号(2003年12月発行)
かれこれ十数年前のこと、不倫もので名を売っていた女性ライターがこんなことを書いていた。いわく、「クリスマス、正月は愛人にとって最も嫌なシーズンだ。相手の男はその期間だけ家庭に戻り、“いい亭主”“いいお父さん”を演じ、愛人である私はひとり淋しく部屋で過ごすことになる」と。このエッセイを読んだとき、私は「猫も同じじゃないか」と思った。 その頃は、私と妻も三十代前半だったから、クリスマスとなるとやっぱりどうしても世間のイベントに便乗して、夜遅くまで出掛けたり、どこかに一泊旅行に行ったりしてしまう。当然そのあいだ猫は部屋にひとりで置いておかれることになる。猫がひとりで部屋にいると思うと、どこにいても心の底から楽しむことはできないけれど、猫とずうっと一緒に過ごせばそれでじゅうぶんと思えるほど達観(?)しているわけでもなかった。 そんなクリスマスを二回送って、三回目のクリスマスには猫は二匹になって淋しさもかなり軽減され(出迎えるときの態度がはっきり違った)、それがさらに三匹になった頃には、私も妻もクリスマスという誘惑に乗らない、つまりは何でも億劫がる年齢に達していた。そうして、私の心の中にわだかまっていた“飼い猫=愛人”説は自然消滅したのだが、ところで、クリスマスとお正月を、猫も人間みたいに特別な気持ちで過ごすものなのか。 正解と言えるほどの自信はないが、クリスマス〜正月は猫にとってもやっぱりいくらかは特別なシーズンだ(と思う)。飼い主が楽しそうにしていたり、寛いだりしていれば、猫にも少しはそれが伝染する、というか、そういう気配を猫は呼吸している。人間が楽しそうにしている空間で、いかにも無関心に怠惰に寝ている猫の姿が、家庭的な幸福の象徴であることを否定することは難しい。猫や犬を飼ったことのない人は「そんなの、たんなる思い込み」と言うかもしれないけれど、彼ら(彼女ら)の態度は雄弁に家庭の空気を語ることができる。 とはいえ、クリスマスのケーキや鳥の丸焼きは、猫にはそんな嬉しいものではない。家の一番上のペチャ−−かつてクリスマスにひとりで留守番をさせられた今十六歳のペチャ−−は、上等な生クリームだったら三口、四口、五口……と嘗め、二匹目としてやってきた十四歳のジジは鳥をまんざら嫌いではないけれど、やっぱりどちらもテーブルから離れなくなってしまうほど好きで好きでしょうがないわけではない。だから悪食(あくじき−ルビ)の人間である私と妻は、「ペチャたちももっと何でも食べられればよかったのにねえ」なんて、偽善的なことを言いながら自分たちだけでクリスマスのご馳走を食べるのだが、おせち料理となるとそうはいかない。 おせちには蒲鉾があり、いくらがあり、刺身もたいていある。これらは我が家の猫たちの三大好物だ。七年前に四歳半で早死にしてしまったチャーちゃんなんか、塩抜きするために水に浸していた数の子を一本一本咥えて押し入れの隅に隠したことまであった。「台所で誰か(もちろん猫のこと)何かしてないか?」と言って、見にいったときには最後の一本を咥えたところで、チャーちゃんは慌ててそれを床に落として逃げた。あれには驚き呆れたけど、かわいかったなあ……。チャーちゃんは食べるわけでもないくせにそういう悪戯(いたずら−ルビ)ばっかりしていたっけ。おせちの数の子を見ると何年経っても、チャーちゃんの数の子事件を思い出して、おかしくて、かわいくて、悲しくなる。 それはともかく、ジジは日本酒も好きだ。屠蘇散が入っていたらさすがに飲まないが、普通の日本酒だったら、ぺちゃぺちゃ、ぺちゃぺちゃ、嘗めて、そのうちに足がよたよた千鳥足になっている。私は家では酒を飲まないことにしているから、食卓に日本酒が出るのはお正月だけで、だからジジが酒を飲むのも年に一度と決まっている。年に一度、ジジは千鳥足になって、酒乱の気があるらしく、迂闊に手を出すと引っ掻かれる。それを年長のペチャは「君子危うきに近寄らず」で遠巻きに眺め、若くて軽率な花ちゃん(四歳)は変だと思って近寄って叩かれる。ジジは柔らかく煮た筍(たけのこ−ルビ)も好きだ。けっこう酒飲みということらしい。 つまり、猫にもお正月はある。みなさん、良いお年を。 |