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私たちの日常というのは、何かに直面しないですむようないろいろな工夫がなされていて、その代表的な“物”が携帯電話で、電車の中でも街の中でちょっと立ち止まったときでも、メールをカチャカチャやっていれば、疑似的なおしゃべりをすることができて、それゆえ孤独に向かい合わないですむことができる。「孤独と向かい合わないために」などとはっきり意識してケータイをカチャカチャやっている人なんか誰もいないけれど、孤独と向かい合うことはとても怖いことなので、その意識の芽生えすら持たないように私たちの無意識は日夜勤勉に働いていて、それが確保されると思われる製品を選び択る。
私がこの映画の脚本を読んで、台詞の説明過剰と思われるところを削ったときには(「台詞協力」という名目で私がしたのはじつはほとんどこれだけなのだ)、気がつかなかったことだったのだが、この映画に出てくる人たちはケータイを使わない人たちだ。一人一人が多くの時間を沈黙のうちに過ごしていて、そのため彼女たちも彼も必然的に孤独と向かい合わさせられている。脚本に関わった人間が「気がつかなかった」というのも、迂闊というか無責任な話だけれど、これが脚本と完成した映画の差であると同時に、小説と映画との差でもあって、映画は言葉のない時間を作り出すことができる。小説では誰も一言もしゃべらずに、風景だけを延々と描写したとしても、とにかく文字=言葉が書かれ、それが読まれるために、沈黙を作り出すことがものすごく難しい。映画はその言葉のない時間を作るのではなく、無造作にただ自然に身を任せていただけのようにして、見せることができる。それがこの映画全体の基底音となっている。 では、沈黙して孤独と近しい世界に生きている人が何を見ているのか、といえば“過去”としか答えようがない。過去―現在―未来という三つの時間が等分に存在するわけではないのは、誰でもちょっと考えてみればわかることだろうけれど、しつこく考えていると、だんだん過去しかないと思えてくる。おしゃべりをしている時間は現在なのだろうが、その現在もまた過ぎ去っていく時間で、もしかしたらその時間こそがいつか回想するために準備された過去でしかないのかもしれないのだが、そんな穿った理屈はともかくとして――、誰ともしゃべらず一人でものを思っているときには、私たちには心底、過去しかない。そのとき未来を想像しているとしても、その未来は自分自身の経験から割り出した、経験の変奏でしかなくて、つまり私たちが沈黙の中で見ているものはすべてが過去で、それが一人一人の“内面”というものなのだと思う。 映画はそれを“見せる”。小説は“語る”という本性から逃れられないために、言葉によって沈黙が描けないのとたぶん同じ理由によって、内面というものが過去でしかないことをいくら強調しても、過去を現在と錯覚させてしまう何かが混じり込んでしまう。この映画では三人が、その内面=過去を意識して守っていて、その姿に私は感傷でない、もっとずっと毅然としたものを感じる。 * 脚本だけを読んでいたときに、私はこの映画の沈黙の多さに気づかなかったのだが、もっと気がつかなかったのは、映画となったときに描き出されている空間だった。しかしこの空間の方は、私の迂闊でもなんでもなく、まさに“映画が持っている力”“映画になることによって実現される空間”としか言いようがないものだ。
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