現実の底に横たわるリアル
町田康『屈辱ポンチ』解説(文春文庫・2003年5月刊行)


町田康の小説は面白い。しかし面白い理由は面白く書いているからではない。笑えるからでもない。真面目に書いているからだ。町田康の小説の主人公もまた一見ものすごい怠け者のように見えるけれど、真面目に生きている。しかしもし
かしたら主人公たちの真面目さは最後まで理解されなくて、「一見」どころか徹底的な怠け者としか思われないかもしれない。そうだとしたらそう思うその人が、サラリーマン根性というか社会人根性で町田康を読むからだ。「文学というものは普通に社会で生きるのと別の価値観や感覚で読まなければいけない」と言っているのではない。いざというときになると、普通に社会で生きる価値観や感覚なんて何ほどのものでもなくなって、人間には文学が迫上がってくる。
 それは文学が社会生活の片隅の余暇だからでなく、社会の根底に横たわっているものだからで、船や飛行機に乗っているときに海の深さや空から地面までの高さを意識しないでいられたものが、沈没や墜落のときに圧倒的にその深さや高さ
が問題になる、その領域が文学というもので、社会生活というのはそういう恐怖や不安の実在を忘れさせるようにできていて、だから一生懸命働いたり家を買ったりできるのだが、町田康の主人公たちは社会生活からずり落ちたために文学に
直面することを余儀なくされる。が、主人公たちはそのことをよくわかっていない。主人公たちがわかっていないということは、一人称の視点で語られていくこの語りを読む読者が、主人公の誤った現状認識によって主人公の置かれている状況を理解しそびれる可能性がじゅうぶんにあって、「あはははは、町田康って面白いね」という感想を持つことになるのだが、それは社会人根性と別の「読者としての未熟さ」ということだから、こっちの方は責められない。責めてもしょうがない。責めなくてもいずれはわかるだろう。
 しかしやっぱり読者は笑う。主人公の考えのバカバカしさを読んでいたら笑って当然だ。しかし笑うことは深刻でないことを意味しない。人は楽しいときや気楽なときしか笑わないわけではない。人はいつだって笑う。臨終の席で冗談を
言ってしまう可能性だってある。それを「不謹慎だ」と言ったとしたら、その人は臨終の席にまで社会を持ち込んだことになる。未体験の場で人がどんな反応するかなんて誰にもわからないし、それを強制なんかできない。少し穿った表現が
できる人は町田康の笑いを「苦い笑い」とか「やむにやまれぬ笑い」とか言うかもしれないが、町田康の笑いはまさに「笑い」なのだ。「こんなときにも人は笑う」あるいは「こんなときにこそ人は笑う」ということを知らされる笑いなの
だ。
 だから町田康の小説はひじょうにリアルだ。「リアル」ということは「現実的」ということを意味しない。現実の底に横たわっているもののことだ。「もの」でなく「感情」なのかもしれないが、「感情」なんかを超えて、「物」にち
かいような「もの」だ。法則、宿命、掟……そんなような言葉を使いたければ使っても、まあかまわないかもしれないが、そういう実体があるような言葉を使ったら、現実の底に横たわっている「もの」は、小さくなったり弱くなったり
して、御しやすくなってしまう。夢の中で人は何歳になっても、与えられる状況や試練に翻弄されて切実に対処することを余儀なくされるようにできているけれど、リアルというのはそういうことで、リアルなものの前では人は普通に持って
いると思っている意志を働かせることはできない。信じがたくくだらないことばかりを真面目にやるだけだ。
 町田康が小説の第一作として大黒に振り回される話を書いたのは必然だったのではないかと思う。「河原のアパラ」では骨壺が大黒のかわりになり、「きれぎれ」は「無数の大黒天吉祥天女」ではじまり、ランパブで悪鬼羅刹や牛頭と馬頭
が出てくる。馬頭(ばとう)観音という観音様もいるが、牛頭馬頭というのは「ごずめず」と読んで地獄の獄卒のことなのだ。「けものがれ、俺らの猿と」でも突然、ほとんど無用の巨大な大仏が出てくるが、この大仏によって主人公はい
よいよ出口のない世界に入らされることになる。ついでの話だが、私の知り合いの精神科医が「仏像って、大きな赤ん坊に見えませんか」と、おかしなことを言ったことがあったが、それが本当だとすると、「夫婦茶碗」と「人間の屑」で
生まれる赤ん坊は仏のかわりということになる。何が言いたいのかというと、町田康は社会でなく、その向こうの神・仏・鬼……の世界に向けて書いているのだ、きっと。
 最初に書いた「真面目」というのはそういう意味で、町田康は社会とか世間に向かって書いていない。人に褒められたくて、褒められようとして、褒められやすいように書いているわけではない。幸か不幸か彼はいろいろ文学賞をとってし
まったし、いきなり本もたくさん売れてしまったけれど、そういうつもりで書いているのではない。彼が小説を書くのは、彼の小説の主人公たちがあれこれあれこれすることとひじょうにちかく、ただ彼と彼の書く主人公が決定的に違っているのは、町田康が「小説を書く」という状況を最後までやりとげることだが、それはもしかしたら町田康の「まともさ」を意味しているのではなく、町田康の生きている状況が主人公たちよりも重いということを意味しているのかもしれない。文学とはそういうものなのだ。
 グレン・グールドやセロニアス・モンクのピアノの音はほとんど最初のタッチでわかる。町田康の小説も同じように最初の一行で町田康とわかる。最初のレコードで脚光を浴びたグールドと違って、モンクには不遇の時代があって、その
あいだも彼はスタイルをまったく変えなかったらしいが、大事なことは注目されるされないにかかわらず最初からスタイルが確立していたことだ。グールドとモンクのレコードは何十枚も出ているけれど、あれほど特徴のある音なのに一枚と
して同じレコードがなく、何枚聴いても飽きることがない。
 しかし印象はある意味、混乱する。これは大事なことで、スタイルが確立しているものは、記憶の中では区別がつきにくいのに、作品に接している最中はまさにその作品であって他と間違うなんてとんでもないという、正反対の感想をこち
らに抱かせる。そして、こういう風にこの人はやってきて、これから一体どうするんだろうとも思う。次作でなく、作品の中でさえもそう感じることがある。こんな話、一体これからどういう風に展開させることができるんだろう、と。しか
し話はちゃんと展開する。しかし、ひとつ前の「しかし」は、受け手としての大きな誤解で、いかにも展開しそうな話はじつは、すでにある物語の雛型を借りてきているわけで、それは「展開」でなく「踏襲」でしかない。本当に展開する話は、だからつねに一行先に起こることすら見当がつかず、それゆえ展開のしようがないという錯覚を受け手に抱かせる。夢の中で次の展開が予想できるだろうか。現実の底にあるもの、リアルなものとは、そういう見通しを遮断する力に溢れていて、それに立ち向かえるのはほんの一握りの小説家だけなのだ。

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