◆◇◆ピンチョンが現れた!◆◇◆

「新潮」2003年11月号 新潮新人賞選評


 『四十日と四十夜のメルヘン』を読みながら私は現実が変容する体験をした。いや、まだ繰り返し読んでいるのだから、現実の変容はいまもつづいている。

 野口悠紀雄の引用をエピグラフにして、人を食ったように始まるこの小説はしばらくは作者の意図がどこにあるのかわからないまま、細部ばかりが明快で、全体がいっこうに見えてこない(という、それ自体すでにじゅうぶんに戦略的な)状態で進んでいく。その明快さは言葉づかいによるもので、小説らしい隠喩的な言葉の使用法によって書かれていないために、書かれていることの奥で醸し出されるはずの意味がない。つまり情緒がない!

 その感じがいいと思って読んでいると、作中の日記が七月四日から七日のあいだを何度もなぞりはじめる。それが変だから最初のページに戻ると、数字の四から七と、三以下が別の領域を形成しているらしいことがわかってくる。メイフラワー下井草の主人公の部屋は四階にあり、「三階の二部屋には誰も住まない」。「住んでいない」でなく「住まない」と書いているところも変だ。それだけでなく、数字・色・形・品物など客観的な名称というか、とりあえず誰にでも貼れるラベルに類した名詞・形容詞の類を、この小説ではてきぱきとためらわずに使い続けている(それが「意味」を醸し出さない原因の一つでもある)。

 こちらの注意がそういう風になった途端に、この小説は直線的な流れから突如として自由になって、あらゆる細部が響き合いはじめる。ニコライ先生の書いた『裸足の僧侶たち』の元となった『ユルバン記』は「護符」という羊皮紙片の裏に書かれていて、この小説もまたチラシという紙片の裏に書かれている。『ユルバン記』同様、チラシの裏の文章ももともと日付がなく、主人公は野口悠紀雄の言葉を盾にとって、憶えだけで七月四日から七日という日付を何度も書いている。チラシとは数字や名詞を拡散させるものであり、そのようにしてこの小説全体に分類に使う明快な言葉が散乱することになるのだが、そうなれば当然、事実は壊乱されることになる。バベルの塔は高くなり過ぎたために言葉が乱れたのだが、この小説が描き出すところによると、そもそも壊乱は言葉が何かを指し示すために起こる。

 しかしそうだとしても、私たちは言葉の外に出られない。ここにある言葉が何を伝えようとしているのかと、新人賞の選考会を前にして、ピンチョンのファンである私と、同じくピンチョンのファンである妻は、判じ物のようなこの小説に興奮して、「新大久保のホームから転落死した人も3だよ」「ニコライ先生が四十三歳なら『今年』は二〇〇三年だ−−でも、西東京市っていつ?−−二〇〇一年か。じゃあ、新大久保の事故は?−−二〇〇一年一月」「創世記では四日目に季節や日付や時間が生まれるんだよ」「染織家といい、色にはもっと意味があるよな」「印刷機はもともとワイン絞りだったんだよ」「4は四大元素のことなんじゃないの? 地・水・火・風が汚染されるのよ。水銀、ダム、火事……」などと言い合いはじめた(そして今に至るもつづいている)。

 判じ物というのは不思議な魔力があって、その意味するところ、指し示すところを考えれば考えるほど、真理値が現実から判じ物の方にシフトしていき、判じ物を解くこちらの主観としては、作品が現実世界を飲み込むような気持ちになってくる。つまり、現実が変容しはじめて、街を歩いていてもマンションのカタカナの名前や店の看板に書かれた文字が何か別の意味があるように見えてくる。

 私は作品に込められた裏のメッセージを読み解いたりするマニアックな読み方は好きではないし、この小説にも裏のメッセージが込められているわけではない。そういう“真理”が裏にある世界像とは一線を画している。「四」は「死」に通じるから病室に「四」がないように、鴉や黒猫が凶事の前兆であると思う人がいるように、世界の連関が突如噴出することを畏れる世界像であって、ここにあるのは特定の誰かが力や真理を握る世界像ではない。この世界には裏も奥も超越もないけれど、言葉があるだけで意味や力はすでに充満している。

 これは「一回の通読」という行為が意味を為さない小説で、紙片をいろいろに構成するように何度でも飛び飛びに読むことができ、そのつど新しい発見や憶測が生まれてくる。とんでもない新人が現れたものだ。ピンチョンのように、事情が許すかぎり焦らず、ゆっくりと次作を書いてほしい。

『家畜の朝』は個人でなく群像劇になっているところが素晴らしかった。『〈一〉と〈二〉をめぐる思考』は二葉亭の引用部分だけで、私にはじゅうぶんに読む価値があった。

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