◆◇◆パペットアニメという思考◆◇◆
平塚市美術館 村田朋泰展カタログ(2008年4月12日―5月25日)


 村田朋泰さんのパペットアニメの中で私はとりわけ『家族デッキ』のシリーズと『TOMORROW』が好きだ。『TOMORROW』はたった三分の作品な のに、胸にずしんと、というよりもじんわり、濃度の濃い気体がたまるような感じがあって、見るたびに(見るほどに)うるうるしてしまう。
「リアリティ」という言葉は誤解されていて、作品世界の外つまり現実としっかり連絡がとれているもののことを「リアリティがある」とか「リアルだ」とかと 思っている人が多く、「リアリティがあるからおもしろい」という言い方がされがちなのだが、それは逆で、【おもしろいものにはリアリティがある】(【 】 部分は傍点)。
 リアリティというのは作品に先行して存在しているわけではなく、ひとつひとつの作品がリアリティを発見したり、この世界にリアリティをもたらしたりす る。それをまず私たちは素朴に「おもしろい」と感じる。だから「リアリティはないけれどおもしろい」という作品は【ない】。
 パペットアニメは絵に描いた二次元のアニメと違って、まず物としての被写体がある。しかしその被写体は実寸ではないから、タイルや畳の目の大きさなどの 細部と人の比率が現実と違っている。おもしろさの起点はたぶんそこにある。物の世界は、ファンタジーと違って無限に大きくしたり無限に小さくしたりするこ とはできない。たとえば物の最小単位(の一つ)は原子だから、原子のサイズの人間を空想したとしても原子のサイズの人間を構成する原子という物は存在しな い。パペットアニメの畳の目と人との比率の現実との違いはそんなことまで考えさせる。
 それと同時にパペットアニメの被写体は人形劇の人形とも違う。人形劇だったら人形たちは私たちが経験するのと同一の質の時間の中で動く。人形劇の人形た ちは縮尺こそ違え、この世界に確かに存在している。しかしパペットアニメの被写体たちはフィルム(ビデオ?)の一コマ一コマの中にしか存在していない。私 たちのようなずうっと繋がっている切れ目のない時間を生きているのではなく、彼らの時間は繋がっていなくて、希薄で飛び飛びになっていて、飛んで不可視の 時間の中で思いがけないことが起こる可能性をつねに孕んでいる。
 空間の比率のズレや時間の不連続によってパペットアニメは、私たちが生きているこの世界に隣接しているのだが重なり合わない世界へと気持ちを連れてゆ く。私たちが見る努力を怠っているか、見る方法をいまだ知らない、この世界と隣接している世界があって、そこには小さい人たちや生き物たちがいるだけでな く、平面の生き物たちもいる。平面の生き物たちには二通りあって、完全に不透明で体が透けない生き物たちはわりと物質的らしいが、半透明の生き物たちは物 質性がだいぶ少ないらしい。
 というようなことが私の中でいま実在しはじめている。が、「実在」という言葉は隣接する世界とその住人たちを語るのになんともふさわしくない。……では 「虚在」と言えばいいのか? 数学では実数も虚数も、どちらも数だ。虚数は決して「虚」なわけではなく、虚数がなければ数は数として完全にならない。隣接 する世界は「実在」と呼ぼうが「虚在」と呼ぼうが、とにかく「ある」。しかし、「この世界と隣接する世界」というのは言葉としては伝わりやすいが、この世 界はひとつしかないのだから、「隣接する世界」と言っているかぎり、パペットアニメに喚起された私の想像はファンタジーということで終わってしまう。ファ ンタジーではないとしたら、パペットアニメによって描き出された世界は、この世界に隣接しているのではなく、【この世界の中にある】。
 いったい私は何を言おうとしているのか? 私にもわからない。私はいまはまだ遠いかすかな手触りを予感しているだけだ。私が言おうとしているのがどうい うことなのか、ということは村田さんがパペットアニメを作りつづけることによって、いずれわかってくるだろう。つまりパペットアニメというのはそれ自体で ひとつの思考なのだ。

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