この音の先には何かがある
佐々木中(あたる)『夜戦と永遠』をひたすら興奮しながら読んでる。この世界から革命はどこに行ってしまったのか? そもそも革命とは何をどうすること を指す概念でなければならないのか? そんなことをこの『夜戦と永遠』が一言でも書いているわけではないのかもしれないが、書いてあるのと同じことで、そ れに興奮している私に、失敗した六八年の革命とは違う革命が来ることを夢見ていた七〇年代後半の自分が襲いかかり、私はその時に聴いていたフリージャズ、 オーネット・コールマン、アルバート・アイラー、セシル・テイラーばかりをいま常軌を逸して聴いているのだが、思えば私はこの冬、『夜戦と永遠』を読む ずっと前からフリージャズに浸っていた。ということは『夜戦と永遠』に出遭う準備をしていたということか。いやしかし、時間や行為には準備と本番という区 別や序列はない。 フリージャズはおもに六〇年代の運動であり、七〇年代前半まででその活力を失ったとされ、七六年にジャズを聴きはじめた私は「乗り遅れた」という気持ち ばかりに支配されていた。停滞したいまこの時代から見ると十年内外の時間のズレなど何ほどでもないと思えるとしても七〇年代当時、それは決定的な遅れだっ た。が、それからさらに三十年内外が経って、四十年前に録音された音が古びるとか古びないとかいまでも新しいとかそういうことでなく、あの頃よりずっとダ イレクトに飛び込んでくる音に日々浸っていると、それらの音、曲でなく音が、「言語は形式ではない。口ずさまれる時の言葉の色彩であり、文体の奇妙な軋み であり、一文のなかに置かれた言葉の匂いが発する齟齬であり、声のトーンであり、訛りであり、口籠りであり、吃音であり、間であり、発すると同時に採られ る挙措であり、言葉が放たれると同時に吊り上げられる片眉であり見開かれる瞳であり、その奇妙にテンポを失ったリズムであり、言い損ないであり、…… (略)……筆先に込められた力であり、その力の圧迫で白くなった指先であり、拭いがたい筆跡の癖であり、探り直される幾つかの文句であり、使ってみたいと 思いながらもどうも自分の文章に上手く嵌め込めない語彙の歪みであり、新しいインクの匂いと爪のあいだに入り込んだその染みであり、万年筆の書き味によっ て揺れる文章の流れであり、モニタに映し出されるフォントの好悪であり、あるいは愛用のキーボードの上で踊る変則的な指遣いであり、そのカタカタと調子外 れのリズムを刻む音ですらある。だから言語とは文体(傍点)である。語り‐口(傍点)である 。書き‐方(傍点)である。言語は言語ではない。」 という佐々木中の言葉に接合される。 作品が広く流布するとかしないとか、百年後にも存在するとかしないとか、それら物を数え上げるような考え方が、書く者、描く者、演奏する者つまり何かを 表現しようとする者を表現する行為それ自体から遠ざける。 サックスやトランペットを吹く瞬間、鍵盤に指があたる瞬間、筆がキャンバスに触れる瞬間、ペンが描く線が文字になる瞬間、とそれら瞬間に移行する途中の ためらいやとまどい。それらの音や振動が空気に消えていくまでのわずかな時間。それらを感知する感覚あるいは洞察こそが革命なのではないか。三十年前の自 分はそんなことまで考えなかったが、自分たちを覆う制度は六八年のようなやり方では何も変わらない、しかしこの音の先には何かがあると感じながら彼らを聴 いていた。私はセシル・テイラーからフリージャズに入った。「インデント」は七三年三月十一日、オハイオ州アンティオーク大学での演奏。当時はなかなか手 に入らず、輸入盤を見つけたときはうれしかった。 |