◆◇◆リレーエッセイ「おふくろ」 母の中の山梨◆◇◆
「文藝春秋」2004年6月号

 父と母は属性がよく似ている。どちらも山梨県南巨摩郡の出身で、鰍沢町と増穂町という隣り町同士。父が八人きょうだいの末っ子で、母が七人きょうだいの末っ子。この欄を依頼されて「オヤジ」「おふくろ」、どちらにしようか迷ったが、この号の発売が母の日に近いから「おふくろ」欄の方を選ばせてもらった。
 そういうわけで夫婦揃って末っ子だから、甥や姪と年が近くて、「叔父ちゃんと叔母ちゃんは話がわかる」と言われていた。他のきょうだいが山梨にいる中で、二人だけ鎌倉に住んでいたので、モダンなようにも見えていた。しかし二人とも七十歳を過ぎた今では、なんと言えばいいのか、「現代」と「その前の時代」の蝶番のような感じになってきた。山梨には私もたまに行くけれど、山梨だってもうかつての山梨ではない。地方はどこもそうだろうが、よっぽどの山の中でもないかぎり都市化されてしまって、固有の歴史や風土を感じさせない。
 そういうものは山梨という現実の土地からは消えているのだが、その消えてしまった山梨の固有性が、父と母の中にあると感じることが多い。隣り町同士だから、父と母の昔話には共通のおじさん・おばさんが登場する。明治生まれかせいぜい大正前半生まれの、近代化されていない思考様式の人達だから、突飛でタガが外れていて馬鹿々々しくて逞しい。例えば、せっかちで有名なあるおじさんは、戦争中、ゲートルを巻くのに、自分の足と縁台の足を一緒に巻いてしまった……なんて、そんな話が甲州弁で語られると変なリアリティがあるからいよいよおかしい。もちろんおかしい話だけではない。しみじみする話もあって、どれも昔の山梨の風景を彷彿とさせる。
 私の妻は母の昔話を聞くのが好きで、そんなに面白いんだったら、そういう話を少しずつ書き溜めてもらう手もあるな、と考えたことがある。紙は原稿用紙でなく便箋だ。というのは、父が船員で、母は外国の港に入る父に宛ててしょっちゅう手紙を書いていたからだ。一人離れて暮らしていたので、田舎にもまめに手紙を書いていた。一番手の届きやすい引き出しに、山吹色っぽい表紙の便箋がいつも入っていたのを憶えている。筆記用具は万年筆だが、インクを貯めずに付けペンのようにして、ちょこちょこインク壺にペン先をつけながら書いていた。
 あの頃と同じように、手紙のように、しゃべるように書いたら、よそ行きの変な文章にならなくていいかもしれない。——なんてことを考えたこともあるが、昔の思い出話は、その人自身から方言まじりで直接聞くのにはかなわない。文字にして外に出してしまうより、中に仕舞っておいて、たまに思い出してしゃべる方が、母の(そして父の)心の中の山梨は、いきいきと生きつづけるだろう。

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