◆◇◆「朝霧通信」連載を終えて◆◇◆
読売新聞 2014年6月24日 朝刊

 蓮の葉の上でキラキラ光る朝露の一滴が世界を映すという教えが仏典の中にある。私は小学校の夏休みの朝、山梨の母の実家で従姉兄たちとラジオ体操をしに近くの広場に向かうと道の端の草に朝露が光っていた、あの夏の朝はとても清々しく、かれこれ五十年経つ今でもあのときの澄んだ空気を忘れていない。
 人は死んだらいなくなるというのが私が生きているこの社会の常識だ、しかし五十年以上も生きてきて、私が同じ時間を生きた人たちが死んだ経験が積み重なると、その常識は現に生きている私の実感にそぐわない。四十年前五十年前に話したり私と遊んでくれた人の表情や言葉の響きが、ほんの二、三日前のようなリアルさで浮かんでくることがしょっちゅうだ、それは記憶というよりも記憶という引き出しに整理して仕舞われる以前の生き生きした断片のようだ。
 書くという行為は漫然と思い出すよりも知的な行為とされている、人は書くとなると時間の前後関係や出来事の因果関係がちゃんとしているかどうかに気をとられる、するとある光景が心を過った瞬間の脈打つような感触が遠のいていることに気づきそびれる、前後関係に囚われたために記憶自体が色褪せたのだ。私は今回、『朝露通信』では、前後関係や因果関係よりも心を過った瞬間の鼓動や光や風をそのまま捕らえることの方がずっと大事だった、それは生きることそのものに接近することに等しいと考えた。
『朝露通信』は、一回一回、“断片”というより流れる水がしばらく緩やかになって水の表面が何かに見えた、という、そういう感じの書き方だ。新聞小説は読む人は毎日読むわけでなくたまに忘れる、忙しければしょっちゅう忘れるだろう、何日か抜けても小説=世界はそこにある、その世界は小説として閉じられているのでなく、読者の経てきた時間やいままで出会った人たちや一人で眺めた海や空や山や川に向かって開かれている。
 小説には主役がいるとされている、この小説の主役は語り手の“僕”でなく、僕が経てきた時間と光景だ、それ以上に、読みながら読者の心に去来するその人その人の時間と光景だ。人は孤立していない、一人一人は閉じられた存在ではない。人は別々の時間を生きて大人になるが、別々の時間を生きたがゆえに繋がっている。今の私の言葉を読んで「意味わかんない。」と思った人への答えの一端が『朝露通信』であることが私の願いだ。