◆◇◆日経新聞 「プロムナード」6月3日(木)夕刊◆◇◆

 自由の定義や概念は一つではないので、私がこれから書くのは自由の一側面だと思っていただきたい。しかしとても重要な一側面だ。

 サッカーで卓越した選手はフィールドを自由に動き回り、球を自由に操る。他の選手たちがもたもたしている中で、卓越した選手だけが伸び伸び動く。競技の性格は全然違うが、将棋でも上手い人ほど駒の動きが早い。すごく離れたところにいたはずの駒が瞬く間に戦線に参加している。駒が水を得た魚のようなのだ。

 サッカーや将棋にかぎらず、すべて競技にはルール=拘束がある。逆説的に響くかもしれないが、卓越した能力を発揮して、自由自在に動き回ると見える人ほど、体や思考を競技それぞれの拘束に順応させている。つまり拘束の中にいる。拘束に体や思考を順応させることをトレーニングといい、端からはトレーニングは退屈で不自由きわまりないように映るのだが、その「不自由」は自由を獲得するための道のりだ。もっともトレーニングがたんに不自由なものでしかなかったら、競技中の自由な状態も出現しないだろう。前サッカー日本代表監督のオシムの練習メニューはとてもクリエイティブだったと言われている。

 大事なことはルール=拘束のある競技において、自由とは不自由の対立概念でなく、不自由のずっと奥にある状態のことだと知ることだ。競技者は拘束に対して主体的でなく他の誰よりも受け身になるから自由を実現できる。創造性や想像力は何も拘束がないところから生まれるのでなく、拘束によってもたらされる。

 小説というのは作品に着手する前に作者が、事前にテーマを決め、そのテーマに沿って、始まりから終わりまで綿密に設計図を思い描いてから書かれるものだと思っている人が多い。作者は作品についてすべてを把握していて、登場人物の性格も、状況設定も、テーマを読者に伝えるための一種の道具であると。このように隅から隅まで論理的に作られた小説がないとは言わないが、これは拘束に対して競技者が主体的に振る舞うという錯覚と同じことで、競技本来の運動性がない。一方的に勝てる相手と戦うようなものだ。相手が強いからこそ、こっちも思いがけない力を発揮できる。

 小説では、風景や人の仕草などを綿密に書くという作業を通じて、作者の意図が乗り越えられ、作品着手以前には考えもしなかった姿に作品が発展してゆく。つまり、作者はテーマを事前に決めて、作品を主体的にコントロールするのでなく、受け身になって、競技者がそのつど状況を切り開くように書き進める。ということは、小説の展開の決定権は作者にあるのではなく、小説それ自体にある。私がこういうことを言うと、「信じられない!」と思う人が多いのだが、作者の仕事とは、書き進むにつれて小説が個別の作品として開始した運動を必死になって追いかけていくことなのだ。

 美術でも音楽でも、作者の事前の設計図どおりに収まるようなものはたいしたものではない。優れた芸術作品はすべて、作者の意図を超える。だからこそ芸術は一生の仕事に値する。作品が作者を超える状態を私は「自由」と呼んでいる。文庫になって先日出版された小説論の題名を『小説の自由』と名づけたのはそういう理由だ。関心のある方は書店で手に取ってみてください。