◆◇◆日経新聞 「プロムナード」6月24日(木)夕刊◆◇◆

「死なないこと」とはどういうことか

 「死なないこと」をテーマとして活動した荒川修作つまりアラカワが五月に死んだ。私は冗談や皮肉を言いたいのではない。アラカワは美術家だったのか建築家だったのか、あるいは思想家だったのか私は知らない。とにかくアラカワはアラカワだ。

 アラカワが言っていた「死なないこと」というのはどういうことなのか。アラカワは美術家で作品を残すから、「芸術は人生よりも長い」という意味で「死なない」と言っていたわけでは全然ない。「肉体は滅んでも精神は滅びない」という意味で言っていたのでもない。それは悪しき文学的解釈だ。アラカワは言葉の真っ正面の意味で「死なないこと」を追求していた。アラカワははっきり言ってまともではない。とんでもないことを平気で言うわけだが、さすがのアラカワでも個体としての人間が本当に死なないとは思っていなかっただろう。では何をして「死なない」と言ったのか。ひとつの仮説だが、肉体に刻印される動きとして、彼は不死性を考えたのではないか。

 人間は歴史において誤った方向に進んでしまったのだ。特にここ3千年くらいがひどい。人間は自分の営みを記録して保存する方向に肥大してしまった。歴史を持ち、それを忘れないための記念碑のようなものを建てる。図書館や博物館など保存する装置を建てる。芸術家が作品を残すという考えもその延長線上にある。これが芸術だけでなく、人間の活動を見えなくする。これらは標本であって、いきいきとした活動そのものではない。

 わかりやすいのは音楽だが、音を記録する方法を持たない時代、音楽はその場かぎりで消えていくものだったか? 音楽はその場かぎりで消えてゆくものだというのは、作品を残すという貧しい思想に縛られた誤りで、記録する方法がなくても音楽は消えない。一度響いた音はこの世界に刻印される。そうでなくてどうして、音楽が進歩したり深化したりすることが可能か。誰かによって鳴らされた音は、必ず他の誰かの肉体と精神に刻まれるのだ。ダンスも演劇もそうだ。

 では、絵画・彫刻・映画・小説のように、形として残る芸術はどうか。これも一番肝心なところは音楽と変わらない。小説の本質はテーマや筋や題材ではないということは、この欄で何度も書いた。小説の本質は作者が、次に何を書くか、どう転換させるか、ここでどう書きあぐねたか、という手つきや息継ぎの次元にある。私はカフカや小島信夫の一つ一つの作品がいいとか悪いとかでなく、いろいろな作品のいろいろな場所で、カフカや小島信夫の手つきや息継ぎを感じ、それが私の中で再現される瞬間を追いかける。不死性とはそのことだと思う。

 それにはもちろん感受性の鍛練や作品への能動的な働きかけのようなことが必要で、一般読者にはわからないかもしれない。スポーツだって武術だって、最も重要なところは本気でやっている者にしかわからない。ここを譲歩したら芸術は滅ぶ。芸術を創ってきたのはありきたりの感受性しか持たない受け身の人間ではないのだから。音楽・絵画・小説等々それぞれの芸術は、それぞれの形式に見合った身体性や感受性を開く回路なのではないか。アラカワのしようとしたことは、その回路を全身というか存在全体に開くことだったのではないかと思う。