◆◇◆日経新聞 「プロムナード」6月17日(木)夕刊◆◇◆

 井上ひさしさんが鎌倉に転居したときに、小さい店なのに棚の充実にぶりに感心したのが鎌倉駅西口を出たところにあるたらば書房だった。井上さんは鎌倉ではぜひここを贔屓にしようとは思ったものの念のため、「ここは評論家の江藤淳さんはお見えになりますか?」と聞き、「いいえ」という答が返ってきたので、井上さんは安堵してにっこり微笑み、それ以来亡くなる前まで、井上さんは月に一度お店に来ては、棚が空になるほどごっそり本を買っていった。

 井上さんが買った大量の本を毎回お宅まで配達したのが伊藤さんだ。「たらば書房の伊藤さん」といえば、鎌倉中の読書人で知らない人はいないと言えば少しだけ大袈裟だが、経営者でもないくせに伊藤さんはやたら知られている。実際、伊藤さんの交遊範囲は尋常でなく広くかつ多岐にわたり、その中に小津安二郎の映画に欠かせなかった笠智衆の次男の奥さんで、笠智衆さんと同居していた笠智子さんもいた。

 その笠智子さんと伊藤さんをいつだったか、もうずいぶん前に、「うち(世田谷)の近所に変わった店があるんだ」と言って連れて行ったのが、「中級ユーラシア料理」を謳う日の丸軒で、笠さんも伊藤さんも私の期待をはるかに超えて日の丸軒を喜んだ。レトロというのか昭和モダンというのか大正ロマンというのか、寺山修司というのか横尾忠則というのか、とにかく店内はそういう装飾で、流れる音楽もそういう音楽。しかしなんと言っても一番はマスターのたたずまいで、伊藤さんとマスターははじめて会ったときから、魂の兄弟のように意気投合した。見つめ合う目と目が優しいが熱い。それ以来、日の丸軒は、伊藤さんと笠さんのお気に入りで、特に笠さんは友達を何度も日の丸軒に連れていき、その中に菅伸子さんもいて、菅伸子さんも日の丸軒が大好きになった。

 それである年の年末、忘年会だったかどうかは定かではないが、笠さん菅さんたちの集まりに菅直人さんもやってきて、猫の世話をして出るのが遅くなっている私に、興奮したマスターが電話で「早く来てください。菅直人さんが来ているんです」と言うのだった。政治家は案外年末は暇なのかどうかわからないが、そのときは総理の椅子を目前にしてスキャンダルで撃墜されてしまった時期で、それが女性絡みのスキャンダルだったために菅直人さんは奥さんの伸子さんの前で小さくなっていた。というのはこっちの勝手な解釈で、一年の疲れでただ眠っていただけか。

 菅直人さんもまた日の丸軒が好きになり、その後もう一度菅直人さんは日の丸軒に行き、そのときは党首の激務から解放されたためか酔って眠ることもなく、かつて菅直人事務所にいたという、ものすごく雄弁な中川さんに郵政民営化解散総選挙惨敗の原因などでやりこめられていた。と見えただけで、受け身の練習をしていたのかもしれない。

 つまり菅直人さんが日の丸軒に行けるのは、民主党の旗色が悪く仕事が詰まっていない時期に限られるということか。ならばこれからしばらくは菅直人さんは日の丸軒には行けない。残念ではあるが、そういう事情ならば、マスターもきっと「菅さん、また来てください」などとは言わず、あのときみんなで撮った写真を店に飾って、菅さんを応援していることだろう。