◆◇◆日経新聞 「プロムナード」5月6日(木)夕刊◆◇◆


 GWといえば、昨年、GWの最中の5月2日にキヨシローこと忌野清志郎が死んだ。私は80年代前半キヨシローの大ファンだったが、その後はすっかり熱が冷め、去年の今ごろは4月に22歳になった猫のペチャが節外型リンパ腫というのが鼻にできて、日に日に腫れる、というのはさすがに大袈裟にしても3日前と比べると確実に腫れがひどくなるという状態なのに手が打てず、元気も衰え、呼吸も辛そうになって……という状態で、キヨシローどころではなかったが、キヨシローの早すぎた晩年の10年間以上に付き合った、音楽評論家というのか編集者というのか、そういう仕事をしている三田格というのが昔からの知り合いで、近所に住んでいるから妻と2人で三田の心配はした。

 GWの死といえば一番印象に残っているのは寺山修司だ。寺山修司が死んだのは83年の5月4日で、その訃報を私は鎌倉の定食屋で夕食を食べているときのラジオのニュースで聞いた。一緒にいたのはリクルートの岩見さんと戸田建設の清水だ。岩見さんも清水も大学一年からの付き合いでいまだに付き合いがつづいているんだから今年で35年。驚く長さだ。岩見さんはサークルの3年先輩で、岩見さんとは80年代後半、何回一緒に競馬場に行ったことか。彼は私のデビュー作の『プレーンソング』の石上さんのモデルだ。

 清水は大学の同級生で、私の友達の中でたぶん一番変だ。AV男優をやっていたヤツとかいろいろ知っているが、清水が一番変だと思う。清水がどういうヤツでこういうヤツで、という話を聞いて喜ばない人とは一人もいない。それで実際に清水と会うと、これがまた馬鹿馬鹿しいから受けがよく、清水を、困ったヤツと思う人はいても、つまらないヤツと思う人はいない。だから清水も一度、小説に登場させたいと思っているのだが、どこから攻めたらいいのかいまだにわからない。

 83年の5月4日、私たちは男ばっかり3人で、逗子マリーナまでぶらぶら歩いていってボーリングをやった。私の昔の話はいつも男ばっかりで女が出てこないと誰かに言われたが、そのとおりだ。逗子マリーナにいく前に、たしか葉山のラ・マーレで食事をして(これも当然男3人)、はじめて「ムース」というものを頼み、「ムースだから蒸すんだろう」みたいなくだらないことを言った。それでボウリングをしてから、またぶらぶら鎌倉駅のあたりまで歩いて、夜になってだいぶ人が閑散とした小町通りで定食屋に入った。

 しかしいくらなんでもそんなに長い距離を歩いただろうか? たぶん昼の12時あたりから夜の8時あたりまで。時間はいっぱいあった。体力も今よりずっとあった。だからきっと歩いたんだろう。今はお金はあるが時間と体力がない。あの日はとても暑く、子どもたちはもう海に入っていた。

 寺山が死んだと聞いてショックだった記憶がないのは、病状がよくないことを知っていたからだろうか。しかし、翌日だったか翌々日だったか、中学からの同級生で高校以来の寺山ファンの清水に誘われて、お焼香に行った。こっちの清水は「逗子の清水」でさっきの清水は「辻堂の清水」だ。寺山の遺影は一番知られた深い陰影のある俯き加減の写真だったが、笑い顔の方がよかったのに、と私は思った。