◆◇◆日経新聞 「プロムナード」5月13日(木)夕刊◆◇◆


 中井久夫は精神科医で本もたくさん出しているが、意外なことに妻は最近まで知らなかった。しかし1年ほど前から知り合いの70代の人がどうやら認知症らしいということになり、私が中井久夫を見せたらいきなり熱中して読みはじめた。そしたら今度は8月に22歳だった猫のペチャが死んだ。それ以来、20年間、夫婦のように、恋人のように、兄妹のように、べったり寄り添って生きてきたジジがものすごく不安定になった。ジジもまた高齢による体調不良は当然あるが、その不安定さはペチャがいなくなったことと関係しているとしか見えず、妻は中井久夫の本をいっそう熱心に読むようになった。

 「猫に精神医学か? 猫も高尚になったもんだ」などと呑気なことを言ってる場合ではない。人間にあるものは基本的にすべて犬猫にもある。人間は犬猫より少し知能が大きくなり、そのかわり感覚がだいぶ鈍くなった。だから体調不良は人間より犬猫の方がずっと深刻なのだ。中井久夫は、睡眠と排便のコントロールが大切と書いていて、睡眠には抗うつ剤、排便にはオリゴ糖を飲ませることで、ジジは一時期よりぐっと状態が改善した。精神に不調をきたしている人は体が曲がる、とも中井久夫は書いていて、実際ジジも一時期は上から見て体を「く」の字にして歩いていたが、今ではほぼ真っ直ぐになった。私は「中井久夫」と敬称なしで書いているが、一面識もない人にどういう敬称をつけたらいいかわからないからで、家では妻と2人で「中井先生」と呼んでいる。

 このような個別の事例はともかく、中井久夫を知らない人にどう説明すればいいか? 人格が高潔で、書いたものを読むと、こちらの気持ちまで浄化される――と、私はとても抽象的な言い方をしてしまうのだが、そんな文章を書く人が他に誰かいるだろうか。普通のエッセイも数多く書いている。
 中井久夫は精神科医だから科学の側の人間だ。ところが科学者というのは必ず、人間を高みから見下ろすようなことを言う。たとえば、

 「宇宙の中で地球はごくありふれた惑星であり、宇宙全体の中で生物が生存している星はいくらでもある。人間とは広大な宇宙の片隅に生き、宇宙のほんのわずかのことだけを知って死んでゆく、とてもちっぽけな存在なのである」

 なんて、そんなことわざわざ人に言わずに、自分の心の中に閉まっておけ!と言いたい。彼らがそれを人に言わずにいられない理由は、自分がそれを聞かされた衝撃を自分では解消できず、誰かに言ってその人の驚いた顔を想像することで、自分の体験が和らぐと錯覚しているからだ。彼らはそういう幼稚な人たちなのだ(なんて書く私も幼稚だが)。

 しかし中井久夫にはそのような高みから人を見下ろす感じがまったくない。いま自分の前にいる人の話に静かに耳を傾け、その人がなかなか話し出さなければ話しやすいような話題を探し、少しずつ解きほぐす。中井久夫以前、精神分裂病(統合失調症)は治らないとされていたのだそうだ。科学者でも本当に自分で切り開いた人は、高みから見下ろしたりしないのではないか。自分自身が最前線にいるかぎり、高みから見る視点など、ない。文字どおり手探りだからだ。中井久夫の本は、何から読めばいいか? 私にはどの本も素晴しいとしか言えない。