◆◇◆日経新聞 「プロムナード」4月15日(木)夕刊◆◇◆

 もう1年半前の話だが高校の同窓会があり、そこに集まった同級生の中でたった1人、志賀君だけが「新潮」という文芸誌に私が連載していた「カフカ『城』ノート」を読んでいた。酒の席でのことだから志賀君との話はそれ以上突っ込んだものにはならなかったが、私はあとで気がついた。高校1年のとき私がカフカの『変身』を読んだのは志賀君に言われたからだった。関係ないが志賀君は昔からなぜかみんなから君づけで呼ばれていた。
 志賀君と私は帰りの電車が一緒で、ある日志賀君が「このあいだ、すごい気持ち悪い話を読んだんだ」と言った。「何、何?」「カフカっていう人の『変身』っていうんだ」という話で、私は電車を降りるとすぐに新潮文庫の薄い『変身』を買った。高校一年生の私は本なんてほとんど読んだことがなく、まして『変身』の裏表紙には、現代人が奥底に抱える社会への不安とか、実存主義とか書いてあったから、私は『変身』が全然楽しくなく、志賀君のように気持ち悪いという素朴な感想すら持たなかった。
 では志賀君はなぜ『変身』を読んだのか? 彼もまた文学少年ではなかった(はずだ)。文学少年でなく彼は昆虫少年だった。同窓会のそのときも、別れ際にボランティアでやっているという、子供相手に作った蝶のパンフレットをもらった。こんな話を書けば、『変身』を読んだことのある人は「!」と思ったのではないか。『変身』は主人公ゴレーゴル・ザムザが、ある朝目を覚ますと巨大な毒虫になっていた、という話だ。つまり志賀君は昆虫の興味から『変身』を読んだのだ。これは私の勝手な想像だがそうに違いないし、カフカもこの話を知ったらきっと喜ぶだろう。
 主人公が毒虫に変身したら、読者はまず「その毒虫は何の比喩か?」と考える。文学に縁がない私でさえ、国語の授業でじゅうぶんその考え方に毒されていた。しかし志賀君は毒虫としての主人公の生活をファーブルが観察するように読んだ。だから「気持ち悪い」という素朴な感想を持つことができた。
 主人公の変身こそ少ないが、カフカは動物が主人公の話が多い。動物の話で私が一番好きなのは『歌姫ヨゼフィーネ、あるいは鼠の族』という話だが、どれもそれぞれの動物としての特性の上に話が作られていて、それら動物は比喩としてでなく、そのまま読むから面白い。いちいち意味を考えていたらカフカはつまらない。比喩・意味・テーマ等々あたりまえの文学的思考を捨てて、書かれていることをそのまま読む。カフカはサーカスの話も多いが、それもそのまま読む。
 小説には伏線がつきものだが、そういう読み方もしない。だから勘繰りとか裏読みの類いもしない。いま自分が読んでいるページにひたすら集中する。これは最も原初的な読み方が、じつはほとんどの小説はこのような原初的な読み方に耐えない。テーマとか意味とかもっともらしい読み方は退屈なのだ。作品一つ一つの個別性が消えて、何種類かに分類可能になってしまう。
 カフカを読んだことのない人に、いまとりあえず薦めたいのはちくま文庫の『カフカ・セレクション』だ。短いが起伏や屈折に富んだ話がいっぱい入っている。それを機敏に追うのが楽しい。