◆◇◆日経新聞 「プロムナード」2月4日(木)夕刊◆◇◆

 本紙の1月18日週の「人間発見」欄に5回にわたってインタビューが掲載された、元世界銀行副総裁の西水美恵子さんという人を私はまったく知らなかった。専門が英文学の妻も全然知らなかった。インタビューを読んで、二人で西水さんの人生に感動した。いくら畑違いとはいえ、こんなにすごい人を知らなかった自分達を恥じたが、まんざら私の無知ばかりが悪いわけでもなく、日本という社会は、海外にいてなお日本に直接的な利益をもたらしてくれる人でないと無視する傾向があるように思える。
 しかし海外に行きっきりになって、日本とまったく関係なくその土地や組織で成果をあげる人ほど、ある意味、日本人を勇気づける人はいない。いや、日本人を勇気づけるのでなく、規制の枠と闘っている人を勇気づけるのかもしれない。この二つはえらい違いだ。いずれにしろ、西水さんのような人の存在を知って凹む人はめったにいない。
 その西水さんの記事の2回目、進路に迷っていたときの経験がこう語られている。
 「山の上のスキー場にロープウエーでのぼり、眼下に開ける太平洋を見ていたら『何を悩んでいるのだろう。私のやりたいことは経済学だ』という答えが、すうっと見えてきました」
 面白いのはここだ。答えが風景からもたらされた。ここは話の本筋から少し外れるところだし、いともあっさり語っているから誰も、「どうして風景を見て答えがわかるんだ」というツッコミを入れないが、これは見方によっては神秘主義の2、3歩手前だ。私は否定的に言いたいのでは全然ない。人間とはそういうものなのだ。論理的な積み上げだけではどうにも解決が得られないとき、人は風景から答えを与えられる。論理的な積み上げだけで得られる答えなど、普通サイズの人間の枠を一歩も出ない。
 哲学者ニーチェに「永遠回帰」の思想が到来したのも、スイスのオーバーエンガーディン地方を歩いていたときで、そのときニーチェは手元の紙に「人と時のかなた6000フィート」と走り書きした。6000フィートとはもちろん標高のことだ。私の知り合いの仏教学者もインドに行って、インドの険しい山の稜線に太陽が沈むのを見ていたら、それまでいまひとつわからなかった経典の意味がくっきり明確になったと言っていた。つまり、“啓示”ということだ。日常べったりの思考では啓示なんて、ただ神懸かっているだけで敬遠されるのがオチかもしれないが、本当に重要な問題は、風景つまり自然の力によって切り開かれる。
 ちょっと変わったところでは、『秘境西域八年の潜行(抄)』(中公文庫)という本にも風景から啓示を与えられる経験が書いてある。著者の西川一三は日本政府の諜報員として蒙古人になりすましてチベットに潜入するために昭和18年9月に満州を発ち、紆余曲折を経て、ヒマラヤを越えてチベットに辿り着く。その間に戦争は終わり、「なんのためにそんな苦労しなきゃいけないんだ?」と思わざるをえないが、ヒマラヤの峰々を見て、彼は「宇宙の真実を表わしている荘厳さと威厳」を感じる。
 人間の思考というのは風景の力を得て、一段階上に行くのだと思う。