◆◇◆日経新聞 「プロムナード」1月28日(木)夕刊◆◇◆

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
 この、誰でも知っている小説の冒頭の一節を私は子供の頃、スイスに行く話だと思っていた。しかし、どうして国境なんだろうか? だいたいこれは「こっきょう」と読むんだろうか? どの本を見ても「国境」にルビが振ってないから、みんな「こっきょう」と読んでいるが、本当に「こっきょう」なんだろうか? トンネルが抜けていくのは県境なんだから、せめて「くにざかい」と読むべきなんじゃないだろうか? なんてことを私は昔も今もぐだぐだ考えてしまうのだが、岩波文庫の『雪国』についている川端康成自身によるあとがきを読むと驚く。
 「(『雪国』は)息を続けて書いたのでなく、思い出したように書き継ぎ、切れ切れに雑誌に出した。(略)はじめは『文芸春秋』昭和十年一月号に四十枚ほどの短篇として書くつもり、その短篇一つでこの材料は片付くはずが、『文芸春秋』の締切りに終りまで書ききれなかったために、同月号だが締切りの数日おそい『改造』にその続きを書き継ぐことになり、(以下略)」
 つまり、『雪国』はひとつのまとまった作品として発表されたわけでなく、細切れの短篇として発表された。しかも、最初の短篇は「文芸春秋」の締切りまでに書ききれなかったので、続きを同じ月だが締切りが少し遅い「改造」に書いた。柔軟というかフレキシブルというかテキトーというか、この態度がすごい。実際には「改造」に掲載された原稿にあたってみると、さすがにいきなり途中からはじまっているわけではなく、導入には独立した短篇としても読める配慮がなされてはいるが、それにしてもこういう、あっちこっちに掲載する仕方なんてあり? と思う。結果、『雪国』は、「文芸春秋」「改造」「日本評論」「日本評論」「中央公論」「文芸春秋」「改造」という順に、見事にばらばらに掲載されることになった。
 しかし、と思う。あっちこっちに掲載するなんて、あり? と思ってしまう私たちの方がおかしいんじゃないか? 少なくとも、不自由に自分を縛って、もともとありもしなかった規制とか枠を作ってしまっているんじゃないか? 正岡子規は死の寸前まで毎日、「日本」という新聞に随筆を書き続けたが、この長さがまた驚くほど自由自在で、岩波文庫の『墨汁一滴』などの子規の随筆を見ると、たった二、三行しかない日もあれば三ページも四ページもある日もある。この「プロムナード」は書く人が替わってもスペースはいつも同じだが、そんな枠に縛られた発想はまったくない。しかも、内容から推察するに子規は随筆を掲載の前日に書いている。自由自在に長くなったり短くなったりする原稿に当時の新聞は対応した。これは現在の新聞では考えられないことだ。
 新聞も出版もいまでは立派な歴史と伝統があり、歴史と伝統によってそれなりの枠ができあがっている、と思われているが、創成期や初期においては枠の発想なんかなかったんじゃないか。枠という外側でなく、内側の「書きたい」という衝動があったからこそ、新聞や出版など、それ以前にはなかった産業が発展して軌道に乗ったんじゃないか。インターネットの普及によって、新聞・出版は未曾有の不況に突入しつつあると言われているが、産業というのはいつだって創成期のはずだ。