◆◇◆2002年 新潟大学 人文学部(行動科学過程・情報文化過程)◆◇◆
国語入試問題
ところで「思考」とは本当のところ何なのか。「思考する」とはどういう状態を言うのか。
 ここでは「思考」を「人間の思考」ということに限定することにするが、思考とはもともと、〈外界〉に対処する手段として人間の中で発達した感覚や運動能力と同列の能力であって、枯れ葉に埋もれた茸(きのこ)を掘り当てる動物の嗅覚のように鋭くない感覚を埋め合わせるために、人間では思考が発達した。あるいは逆に、思考が発達したために嗅覚が衰えたのかもしれないが、とにかく結果として、思考は第一義的には生きていくために、動物ほど鋭くはない感覚の埋め合わせをしている。
 この、思考が対象とする〈外界〉とは、本来、自分が生きているこの具体的な〈環境〉のことであって、自分が生きることはないであろう抽象的な〈世界〉のことではない。その意味で思考はダーウィンが観察したガラパゴス諸島のフィンチの嘴(くちばし)のように、それぞれの〈環境〉に対応して発達した。しかし生物進化と違って思考は言語によって伝えることができるから、何十世代とか何百世代も必要とせずに、寒冷地と熱帯、砂漠と草原と森林で、同じ人間であっても別々の思考をするようになった。それらは場合によっては「同じ人間か!」と思うほど違ってしまったけれど、それぞれの生きてきた〈環境〉に対応しているという意味では、鳩の羽も鷹の羽も孔雀の羽もペンギンの羽も「羽は羽」である(A)のと同じように違っていない。
 しかしその段階では人間にはまだ〈環境〉はあっても〈世界〉はない。〈世界〉という概念が生まれるためには、抽象思考が可能になっていなければならない。抽象が入ってきたことによって、思考は一気に加速して、まさに人間だけの能力になった。
 よく「哲学なんか何の役にも立たない」とか「哲学なんか霞を食うようなものだ」というような言われ方をするけれど、それは当然であって(B)、哲学に限らず抽象を取り込んで以来、思考とは〈環境〉を離れて〈世界〉を対象とするものとなったのだから、原理的に、普通に生きていくうえで役に立つわけがない。

 しかしもちろん〈環境〉と〈世界〉は直接・間接に結びついている。
 たぶん民族はすべてそれぞれの創世神話を持っているだろうが、それら〈 1 〉を説明するはずの創世神話はそれぞれの民族が生きた〈 2 〉を原風景として持っている。抽象を取り込むことで自律した思考の作り出した〈 3 〉の像は、〈 4 〉に先立つ原理と位置付けられるはずだが、じつはそれぞれの〈 5 〉を元にして出来上がっているということだ。
 また理論物理学のような〈世界〉を対象にした研究の成果が〈環境〉=現実の生活に役に立つ物を生み出した例もいくらでもあるだろうし、天体観測という作業とビッグバン理論のようなものはどこまでが〈環境〉でありどこからが〈世界〉であるか、区別するのは難しい。というよりも、いまここの文脈で定義するなら、科学とは、〈世界〉を〈環境〉のメタレベルと位置づけ(C)、〈環境〉の中から個別の〈環境〉を離れたすべての〈環境〉に適用可能な一般則、つまり〈世界〉の法則を見つけ出そうとする考え方ということになるだろう。
 かたや宗教や神話の思考が、〈世界〉を作り出す際に〈環境〉を原風景としていることを意識できていなかったのに対して、科学の方は明確に意識して〈環境〉から〈世界〉を作り出してきた。――しかしここで科学の思考は驚くべき飛躍(D)をやってのける。
 人間はすでにギリシャ時代(かそれ以前)に、自分たちの住むこの大地が球体であることを割り出していたという。彼らが熟知していた星座の位置が、見上げる場所によって高さと方角が違うことから、この大地が球体だということを結論づけていたのだという。
 そしてコペルニクスになると、球体であるところの大地が太陽のまわりを回っているという世界像を作り上げる。地球の重力などがわかっていない時点で、これはなんとも大胆な世界像だ。

 しかしこれは、太陽系という視覚イメージがあたり前になりすぎた私たちの時代の驚き(E)なのではないかと思う。コペルニクスにしても紀元前に大地を球体と割り出した人たちにしても、視覚イメージを持たずに純粋に知的な操作としてその結論に辿り着いたのではないか。あるいは事実はもっとずっとだらしなく、ルーティンな作業をつづけつつそれの精度を上げているうちに、当時信じられていた世界像ではどうしても辻褄が合わなくなって、作業の必要上そのような世界像を生むにいたった、ということなのかもしれない。
 いずれにしろ、視覚イメージは理論が証明されてからかなりあとになって作られた。視覚イメージとはその一挙性ゆえにそれを導き出すにいたるプロセスをいっさい隠し、プロセスなしでわかったつもりにさせることができるという意味でまさに科学時代の大衆啓蒙の産物だと思う。一部の専門家だけが理解できていればよかった時代には、視覚イメージなど必要なく、それを証明するデータと計算式だけがあればよかった。ということなのではないだろうか。
 それに対して、私たちが持っている太陽系の視覚イメージなどはそれを知って理解したプロセスからいったら、暗黒といわれている中世の人たちが教えられた世界像と変わらない。少なくとも私自身は、この大地が丸いこともその丸い大地が太陽のまわりを回っていることも証明できない。鵜呑みにしているだけだ。が、そんなことはいまここでは問題ではない――人間はみんなほとんどの知識を鵜呑みにしているだけで、自分自身の力ではほぼ何も証明できないにもかかわらず、そのことを少しも不安ならないだけではなくて、その鵜呑みにした知識を元にして相手の「無知」をしゃあしゃあと論駁してしまうようにできている。これは人間の持っている重要でとても人間らしいメカニズムで、これはこれで別に一章を割くのにじゅうぶん値する。

問一 傍線部A「鳩の羽もペンギンの羽も「羽は羽」である」にならって、人間の場合について、たとえば、「アメリカ人の思考もロシア人の思考もインド人の思考も「思考は思考」である」という文を作ることができる。
 この二つの文を比較し、その主張の共通点と相違点を、〈環境〉と〈言語〉という語を用いながら説明せよ。

問二 傍線部B「よく「哲学なんか何の役にも立たない」とか「哲学なんか霞を食うようなものだ」というような言われ方をするけれど、それは当然であって」について、本文の内容をふまえて、「哲学なんか何の役にも立たない」という主張に対する反対意見を考えて示せ。

問三 空欄〈1〉〜〈5〉に、「世界」、「環境」のいずれかの語を入れよ。

問四 傍線部C「〈世界〉を〈環境〉のメタレベルと位置づけ」について、〈世界〉が〈環境〉の「メタレベル」であるとはどういうことか。文脈に即してわかりやすく説明せよ。

問五 (一)傍線部D「驚くべき飛躍」について、この「飛躍」が「驚くべき」ものであるのはなぜか。本文に即して説明せよ。
   (二)しかしまた、この驚きが、傍線部E「太陽系という視覚イメージが当たり前になりすぎた私たちの時代の驚き」であると言えるのはなぜか、説明せよ。

問六 著者は同じ書物の別の箇所で、「たぶん誰もが子どもの頃に一度は考えたであろう」疑問として、次のような問いを発している。こうした問いの仕方の前提となっている、現代の私たちの思考の特質に関して、筆者の観点をふまえて論ぜよ。

  もし宇宙というものがたった一度だけ誕生し消滅するものなのだとしたら、宇宙  が誕生する前と宇宙が消滅した後には、いったい何が「ある」というのか……。  だいたい宇宙が時間的にも空間的にも有限なのだとしたら、宇宙の外にはいった  い何が「ある」のか。
                                 以上

〈本人から一言〉問題文は『世界を肯定する哲学』の第3章からです。難しくてわたしには全然答えられません。国語の問題は2問で120分なので、これを解くのに60分あるということでしょうか。受験生はきっとこういう問いにすぐに反応できるように訓練されているんでしょうが、著者である私が解こうとしたら、たぶん30分間は質問の意味を理解するために費やされるのだと思います。で、結局正解できなくて、著作権を剥奪されたりして……。


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