◆◇◆特別に忘れがたい猫◆◇◆
「ねこ新聞」2017年3月号

 猫はみんな忘れがたいが中でもマミーは特別に忘れがたい。マミーは、子供と孫を合わせて総勢14匹のファミリーのお母さんだから「マミー」で、そのうちの10匹が03年の夏からうちの前で毎晩ご飯を食べるようになった。他にも生まれた猫はいるが、近所の人から消息のごく断片を聞くだけで姿を一度も見なかった猫もいるし、子猫のうちに死んでしまった猫もいただろう。何しろもともとが野良だったと思われるマミーは子供にも孫にも「絶対人間にさわらせない」という躾を徹底させ、私が一族の猫にさわれるのは、よっぽど弱ったときか死んだあとだけだったから全貌はわからない。
 全員を避妊・去勢したのは03年の12月、それまでマミーは私の知る限り、年に1度ずつ3回出産して9匹の猫を育てた。それから01年生まれの娘のミケ子が03年の夏に4匹の子猫の子育て中に急死したので、その猫【こ】たちの世話もした。マミーは母性に溢れていたから発情期でも子供たちをほったらかしにしなかった。うちの周囲4、5軒がテリトリーで、入ってくる猫たちとは激しく喧嘩して追い払った。体はやや小さく細かったが芯はとても強かった。
 毛がパサつきだしたのは08年頃だっただろうか。たぶんその頃口内炎にもなっていたが、まだ私は外暮しの猫の生涯の過酷さがよくわかっていなかったから何も手を打たなかった。同時期にテリトリーの守りは孫のマアちゃん(メス)が引き継いでいたが、マアちゃんは11年の10月、子供のときに感染して持病になっていた鼻風邪が悪化して死んだ。マアちゃんは一族の中でとびきり人懐こかった。マアちゃんが死んだとき私は胸が裂けるほど泣いた。
 その冬からマミーは食欲がガクンと落ち、昼間の指定席となっていたガス床暖房の給湯器の上にいるマミーのもとに私は毎回、マグロの刺身を細かくしたやつにステロイドを混ぜて運んだ。マミーは相変わらず体はさわらせないが、刺身は私の手のひらに載せたのを食べるようになっていた。夜と雨雪の日は発泡スチロールと木箱を組み合わせたハウスの中にいた。蓄熱ブランケット入りだから中は炬燵並みにポカポカだった。もっと早くあのハウスを作っていたら、もっと長く生きられただろうか。でも元気な猫たちは誰もそこに入らなかった。猫はこっちの思い通りにはならない。他に入ってくれたのはやっぱり弱っていたピースとコンちゃんの2匹だけで、ピースもコンちゃんも翌年の冬にはいなかった。
 12年の夏は特別暑く、私は毎朝自転車で10分の氷屋から氷の大きなかたまりを買ってきてマミーの居場所を少しでも涼しくしようとたが何日経ってもマミーは警戒して寄りつかず、夏バテはひどくなるばかり。もう限界だと、8月16日の夜ぐったりしているところを首筋を掴んで持ち上げると、マミーはもう抵抗する元気はなかった……というか、賢いマミーはその瞬間、自分がこの人の家の中で面倒を見られる運命になったことを理解して、二階の私の部屋の中に作っておいたケージに静かに入った。
 家の中にいる猫たちがどうしても許さないからマミーはとうとう部屋からは出られなかったが、部屋の中ではすぐにケージから自由になって好きな居場所にいて、秋が過ぎ冬になると毎朝窓辺で日向ぼっこしていた。たまに外に出すともうふたりしか残っていない一族の一方、特別美形でスマートだったビジンちゃんが嬉しくて嬉しくて甘えて甘えて体をすりつけてくる。マミーはよろけるがよろけながらもかわいい孫を舐めてあげる。
 マミーを中に入れると、ビジンちゃんは開けたままのドアから家の中をじいっと覗き込んでいる。「おばあちゃんと一緒に入る?」と言うと、さっと身を翻して行ってしまう。マミーは私の部屋に戻ると旅行から帰ってきたときのように深く息をついて体を横たえた。夜は毎晩、部屋に訪ねてくる妻の膝の上で1時間も2時間もじっとしていた。膝の上でじっとしている健気なマミーを撫でながら、妻は毎晩マミーの外での日々に想いを馳せた。うちの猫たちは揃いも揃って誰も膝の上に乗らなかった。外の暮らしで驚くほど大人になっていたマミーは妻の気持ちを察してその願いまで叶えてくれたのだ。
 死ぬ前日、マミーは急に立ち上がり、意識は朦朧としているのにさかんに外に出たがった。出すとビジンちゃんが待っていて、体をすりつける、マミーは倒れそうになりながらもビジンちゃんを舐めてやる。ようやくビジンちゃんが落ち着くと、去年の夏まで12年間いたうちの前の敷地をよろける足でひととおり歩きまわり(目はたぶん見えてなかった)、隅に置いてある飲み馴れた水の容器の水を飲み、玄関脇の一番よくいた場所で昔のように寝そべった。
 それで家の中に入れるとマミーは5分後にひきつけを起こし、そのまま意識が戻らず翌朝息を引き取った。2013年6月20日のことだった。