◆◇◆試行錯誤に漂う32◆◇◆
「みすず」2015年12月号
運命と報酬

 タイムマシンのパラドックスというのがある、私は子どもの頃からSFは好きでSF的発想の中で一番好きなのはタイムマシン、あるいは時間旅行なんだと思う、だから同じSFの中でもジュール・ベルヌの月世界旅行とか地底探検みたいなのはSFと感じなくてピンとこない、もっともフィリップ・K・ディックの妄想は好きだ、ディックでは個人の妄想に世界が巻き込まれて世界が歪む、意識というのが時間の所産というか個人の経た時間の貯蔵庫というかとにかく意識は時間と深い関係があるから私の関心の根っこは一つなのかもしれない。
「タイムマシンのパラドックスがあるじゃん。」
「何ですか? それ。」驚いたことに編集者のM君は知らなかった、私は説明した。つまりは、タイムマシンで過去に行って、自分の親を殺したら自分も同時にいなくなるわけだよ。
「何で、過去に行ったら親を殺さなくちゃいけないんですか? 過去に行ったからって言って、親を殺すなんて限らないじゃないですか。」
 M君の反論に私は感心した、ほとんどの場合、哲学的議論とか思考実験には暗黙のルールがありついついそのルールの中で、そこは論理的に整合性がないだの、いやあるだのと言ってしまう。そのルールの外に出る人が私は好きだ、教室ではきっと先生から「黙ってなさい」と言われたか、言われなくても黙っていろという無言の抑圧を受けたことだろう。
 M君の反論に出会うまで、私はたぶん、親を殺した時点で世界が、親がそこで死ぬ世界と親がそれ以降も生きつづける二つの分岐する世界を考えていたんだと思う。あるいはそのパラドックスをたいした問題と考えていなかった、とにかく私は時間旅行は子どもの頃からずっとあると考えて生きてきた、といってもマイトレーヤ(弥勒菩薩)が五六七〇〇〇〇〇〇〇年後に地上にあらわれてみんなを救うという話と同じ程度に自分がいま生きているこの生とは関わりのないものだと思っていた、だから時間旅行は私の一種の究極の救済のようなものだった。
 それで私はM君の反論に刺激されて、タイムマシンのパラドックスに対する返答を考えた。タイムマシンで過去に行ったとする、親を殺したりしたら元も子もないが、まあたとえば自分の人生は呪われている、自分なんか生まれてこなければよかったんだと思っている人がタイムマシンで親殺しに行ったとしよう、彼は首尾よく親の子ども時代に到着した、しかしその子を殺そうとするとどういうわけか邪魔が入って失敗する、何度やろうとしても邪魔が入る、そして結局あきらめる。
 なんて話を昨日、別の二人の編集者にしゃべっていて急に気がついた、タイムマシンのパラドックスだけでなく時間旅行の話をする(書く)人全般が時間旅行の出発前と到着後のその人の一貫性もっと言えば同一性を疑っていない、
「そうですよね、人間は時間と空間の相関物ですからね。」とI君が言った、関係ないが今年五十九歳になる私は仕事で自分より年上の人と会うことがなくなった。I君の発言の前にO君が、私の邪魔が入って実行できないという話のときに「出来事の不動性みたいなことですが。」みたいなことを言っていた、話というのは同じ話題ではじまっても相手によって全然違う方に行く、私はたぶんO君の言葉によって時間旅行の前と後に変化がないという前提で考えていたことに気がついた。
 たとえば人を殺すときに発動する脳細胞なり発火現象なりはきっと特殊なものがあるわけで、時間旅行はきっと体に大変な負荷がかかることだろうからその間に人を殺すという脳の働きは濾過されたり淘汰されたりしてしまう、過去の時間に到着したときには「あれ? 俺は何しに来たんだっけ?」となっている。きれいさっぱり忘れてしまうというのはそういうことだ、二階の自分の部屋に財布を取りに行ったが外で大きな音がして二階の窓から「何だ、何だ」と音のした方を見て何もなかったことを確認したら安心してそのまま降りてきてしまったときのように、自分がそこにいる動機さえ忘れている。
 あるいはもっと極端で、時間旅行の最中に頭の中身がどんどん組み換えられてゆく、目的時に到着したときには全然別人になっている。それが完全な記憶喪失状態になっているのがパターンA、もとの記憶がうすぼんやり残っていてそれがその時代という外的情報というか圧力というかそういうものによって急激に変化して出自がわからない人になるのがパターンB、などといちいちシミュレーションしても意味がない。
 それよりもっと極端な場合、時間旅行で過去にさかのぼるにつれて旅行者の年齢も若くなってしまう、だから旅行者は自分の誕生より昔に行った場合、魂だけになってしまう、そして誰かの受精卵に入る。時間旅行は成功だがそれを証明できる人はどこにもいない。
 時間旅行に惹かれるくらいだから元々私は運命論者だった、今もそうだ。人は努力をしても上手くいかないこともあるし、努力をしなくても成功することがある、しかし同時に努力をして上手くいくこともあるし、努力をしなくて成功しないこともある。私が運命はある、世界の流れ、世界で起きることはすべて決定している、と言うと、
「だったら人は努力しなくなる。」と、たいていの人が言った。私は出来事はすべて決定していると言ったがその決定している出来事を前もってわかっているとはひと言も言ったことはないし、私はまったくそう考えていない。出来事はすべて決定しているが出来事の中身はまったくわからないのだから努力したい人はすればいいし努力したくない人はしなければいい。
 そんなことを考えていたのはしかし振り返ってみると二十歳ぐらいまでだった、あるいはもしかしたら小説家になって十年ぐらい経つまで考えていたかもしれない、その後は考えが変わったのでなく、そんな風に考えていたことをすっかり忘れていた、というのは私は「努力」という言葉・概念の意味がすっかり、ごっそり変わった。
 努力と結果(=報酬)が別々にあるのではない、何かをする人にはただ努力だけがある、努力がそのまま報酬である、巨人からニューヨーク・ヤンキースに行った松井秀喜にとってバットの素振りが最も印象に残ったことだった、ピアニストは日々ピアノを弾くことが喜びとなる、その喜びは部外者にとっては苦しみとしか映らないことだったとしても何かをする人にとって苦しみもまた喜びであり苦しみと喜びは二項目としてはっきり区別のあるようなものでない。NHKのBSプレミアムで日本百名山を南の端、屋久島だったかそこから利尻島までいっさい動力を使わず徒歩と海は自力のカヌーで渡る、徒歩といってももたもたしていると利尻島に渡る前に冬になってしまうから走れるところは足許と体力が許すかぎり走る、だから山の狭い尾根も走る、もちろん三〇キロとか四〇キロとかの荷物を背負っている、南の端の出発が本当に屋久島だった記憶は私はあやふやだ、屋久島から鹿児島までカヌーで渡れるのかどうかわからない、しかし利尻島へは荒れた海をカヌーで渡った、予定では三時間ぐらいで渡るつもりだったが波をかぶり潮の流れが逆だったので朝八時にたしか漕ぎ出して利尻島に着いたときは日が暮れていた、八時間だったか九時間だったか冒険家の田中陽希さんは漕ぎつづけた、途中カヌーが転覆した。
 田中さんは山の頂に立つ、晴れていれば見渡すかぎりの絶景だ、登っている最中も少し余裕があるときは景色を見る、高い山の頂からの眺めは私はまったく経験がないがテレビの映像でも素晴しいというか凄い、チベットに潜入するためにヒマラヤを越えた日本陸軍のスパイだった西川一三は山頂からの眺めを〈宇宙の真理〉と感じた、西川一三の書いた『秘境西域八年の潜行』は藤枝静男が〈あの〉『田紳有楽』を書くときに使った資料でもある、『秘境西域……』をそうとは知らずに読んだが『田紳有楽』に通じるアナーキーな心性があった。山頂からの眺めは凄いから山に登る理由はそれにある、あるいは山頂に立つ征服感にあると人は考えがちだ、登山家や冒険家も面倒くさいからそう言うかもしれない、しかし本当の理由・動機は〈それをする困難さ〉であることは間違いない、だから本当はテレビに映る必要はないが資金ないとつづけられないからしょうがない。
 日本百名山のそれを見ていて、やっぱり千日回峰行はすごいことだと思った、千日回峰行を成し遂げればアジャリとか大アジャリとかになれるが、「それになりたい」からという理由で真っ暗で足許がガタガタの山道をひと晩中走りつづけることを来る日も来る日もつづけられるわけがない、だいいちそんな「なりたい」なんて俗な気持ちがもし仮りにあったとしても千日の途中で消え失せる、千日回峰行は真っ暗い山道を走りつづけることそれ自体に意味がある、「意味」というのはここでそれ以外に言葉がないからそう言うだけで、いわゆる意味ではない、自分を見つめるとか自分と対話するとか仮りに言ったとしても、そこでの「自分」、「自己」はいわば山や山道のことだ。
 「千日」という区切りがあったり、「百名山」という目標みたいなものがあったり、松井秀喜では「試合」があったりするが、それは動機でなくかろうじて一般人が住む社会との接点なのではないか。というのは千日、百名山、試合……etc.を持たずに日々がそれだけになった人がいたとしてももう社会にはその存在が見えない、ポアンカレ予想を解いたロシアの数学者ペレルマンはそうなった人なんじゃないか。
 運命というのは失敗や成功や敗北や勝利や民族や国家の没落と結びついた概念と見える、運命は何かの渦中や行為のプロセスにいる人にのしかかる、私はあるときから結果や成果でなく日々それをすることの方にだけ関心が向くようになった、私はそう考えてみるともう運命論うんぬんに関心はなくなっていた。
 それでも子どものときに熱中した『怪傑ハリマオ』やハリマオより放映された範囲がずっと狭かったため一九五六年生まれの私と同年代でも知ってる人がずっと少ない『ナショナルキッド』のDVDのBOXセットを買ってしまうようにタイムマシンや時間旅行には心が動く。運命論をとらず過去に行って歴史を変えてしまうパラドックスの回答には今思いつくかぎり二つある、ひとつはバートランド・ラッセルが言い出した〈世界五分前仮説〉だ、しかし私は分析哲学が嫌いで世界五分前仮説もじつにくだらない、ラッセルは誰にも論駁できないと言ったとしても論駁できなければ正しいわけでない、仮りに正しかったとしてもくだらないことに変わりない。
 もう一つはパラレルワールドだ、時間旅行して過去に働きかけるたびに宇宙が二つに分岐する、そんなことしたら宇宙は無限に増殖していく、しかしそれで何か不都合があるだろうか。大きな天体望遠鏡で見える小さな光の一つ一つが銀河系だか銀河系が集まったものだとか言う、太陽のある銀河系に「恒星だけで」2000億個ありそういう銀河系が1000億以上あるという、しかも宇宙全体の質量に対して星?全部の質量は約五%で残りはダークマターとダークエネルギーだと言うんだから宇宙がどうなっていようが何でもありうる。
 2000億個だ1000億個だと口や文字ではひと言だが並べたらとんでもないことになる、人間が百歳まで生きてもたった五千二百五十六万分だ、一億分にならない、億というのはものすごい大きさで、人生とか愛という言葉を内実も知らないまま使っているように億になると内実はわからない、これは本当に大変なことなのだ、個人が感覚的に理解できるような次元で億単位の物の一つ一つを見たり聞いたりすることはできないそういう宇宙が並行宇宙で何千億個に分岐したって、それもありだ。
 しかし並行宇宙のそれぞれの宇宙は出合うことはない、並行宇宙のそれぞれに生きる私はそれぞれの私を知らない知ることはない、そういう並行宇宙に生きる別の私を少しでも考える考えられない少しでも考えるがそれ以上には何も考えられないことを経由して今ここに生きる自分を考えると、宇宙の中で百何十億年という時間の「現在」に生きていることがすごく信じがたいことに思えてくる、心か頭のどういう仕組みがそれを信じがたいことと思わせるのかわからない、並行宇宙に住む決して知ることのない出会うことのない膨大な数の自分がいてここにもいる、ここにいる自分は今にいる、私は江戸時代でも戦国時代でももっとずっと昔の先史時代でもなく今にいる、それはどういうことなんだろうか。
 どういうことなんだろうかという問いかけは理由や今この時代を生きる意味を知りたくて発したのではない、そうではなく自分が組み込まれている時間と空間に対する違和感が降って湧いたそれに対する返答でなく「答」のない「返」、応答なら「答」のない「応」、
「それは×××××だから。」という答でなく、
 池に小石を投げれば水に波紋ができる、小石を三つ投げれば三つ波紋ができる、小石でできた波紋同士が離れていれば三つの波紋はしばらくすれば消える、波紋同士が近ければ波紋がぶつかり合ってたいていは少し歪むが場合によってはそれぞれの同心円が維持されたまま重なるようなこともある。 
 というようなたんたんとした記述、――