「キリストは「全く神」でありかつ「全く人」である。」
この命題をいかに論理的に正しく説明することができるか、これが坂口ふみ『〈個〉の誕生』(岩波書店)に書かれている初期キリスト教の難題であった。私はキリスト教信者でなくキリスト教の文化が浸透してない日本に生まれ育ったからこの命題が衝撃だったということがピンとこない、というかそもそもキリスト教にかぎらず宗教を信仰する、信仰を持つというのは矛盾から出発する、むしろ矛盾が最初にあることによってその矛盾が初期の動力のようなものになるんじゃないか、と大らかなことを考えてしまう。しかしキリスト教において神と人はまったく別の存在だ、人は一つの存在者にすぎず神は存在を存在たらしめる根源的な何かだ、日本のように人が簡単に神格化されることはない、そういう神は存在者のひとつで存在を存在たらしめる聖書の神とは全然違う、ただしキリストだけは人であり神であった、「全く人」でありかつ「全く神」である。
私は坂口ふみの本に出会って以来この人の書いていることに激しく惹かれる、アウグスティヌスはこの、キリストは神でありかつ人であることが問題になる前の三位一体の問題を考えた、その『三位一体論』は日本語にも訳されているが坂口ふみが言うのは、「しかし彼が最後に語ることばは、無知であり不可知である」。
「外的世界からの類比の不可能さを通って、外的世界とは質的に異なる内面世界の構造と性質を見つめ、そこに神との類比を求めても、なお残るのは類比よりも比べものにならぬほど大きな非相似であった。」
「ネオプラトニズム的宇宙生成論も、アリストテレスの論理やカテゴリーも、私の心の心理的分析も、いわば使い捨てられ、脱ぎ捨てられていく不完全な梯子である。残るのは私に与えられた熱い憧憬・信仰・希望・愛のみ。」
ここを書き写して私は自分は浅薄だったと思う、アウグスティヌスは自分がキリストを信じる根拠を求めて思索しつづけた、しかし根拠は結局何もなかった、私がキリストを信じる根拠は私が信じることだけだった、私はアウグスティヌスの本をその書き方の紆余曲折ぶりがたまらなく好きで読んだりもした、しかし私は坂口ふみが書く私が信じる根拠に最後に私に残るのは信じることだけだったという一番肝心なことがわからなかった、私はアウグスティヌスが書く紆余曲折する根拠に向かう思索に心を奪われるところで終わっていた。
私が信じる根拠は私が信じることだけだというのは同語反復ではない、同語反復であってもかまわないのだ、同語反復は論理的には何もないように見えるが論理的に何もないだけで論理の枠をこえてじゅうぶんに力を持つ、この世界には同語反復でしか言えないことがある、同語反復と見えるものを心の中で起こる時間を微分することで同語反復でないことを明らかにすることはできてもそれを含めて同語反復と言ってきた、「同語反復でしかない」という評価はそれゆえ意味がないとか根拠がないという否定の意味として言われた者はとるべきでない、同語反復にしかならないほどに強い根拠がそこにある。
アウグスティヌスはしかし傍線部で私に与えられたと言っている、私は信じる力を私の外の何ものかから与えられた、私が信じるのにはじゅうぶんな根拠がある。「論理的でない/である」「科学的でない/である」それら判断に根拠を簡単に求める考え方に熱い憧憬があるだろうか、「論理的でないから」「科学的でないから」という理由だけで撤回するほどの考えは生涯呪われたようにそれを持つに値しない、掴まれるとはそういうことだ。ここで断定する私のこの断定は強さなのか弱さを隠す強さなのかただの文章の勢いか、私は掴まれる状態を体験したとは言えない、体験したからこれは断定で言いきれるとか体験しなければ断定するのは間違いだというのでない、それがそのような状態、境地であると熱く憧憬するなら断定する語法にもなる。
私が信じる根拠はただ信じるだけだとアウグスティヌスが言ったとき私は根拠を求めるのを放棄したのか、していない、いやそうではないか、私は何かを根拠とする思考様式の全体を放棄した、だから私はすでに要点を書き移したつもりで書き移してなかった、
私が信じることに根拠はない私はただ信じるだけだ、というのがずっと近いだろう、しかしやっぱりすでに書かれている言葉をそのまま書き写さないことでつまずきがはじまる、私は、
残るのは私に与えられた熱い憧憬、信仰・希望・愛のみ。
とせっかくそこで書き写したのだから私は言葉を替えずにそのまま丸写しして丸暗記するべきなのだ、それはアウグスティヌスの言葉でなく坂口ふみによる言葉でまして翻訳だ、しかし私が出会ったのはその言葉なのだから私が丸暗記するべきはその言葉だ、残るのは私に与えられた熱い憧憬、信仰・希望・愛のみ。
キリストは「全く神」でありかつ「全く人」であるという定義は同一律に反する、アリストテレスの論理学や形而上学は長く、今も、西洋の思想の基盤となっている(らしい)それに反する、矛盾する、しかし矛盾するからという理由ぐらいでキリスト教思想を体系化していった人たちは一歩も退かなかった、私はそこに惹かれる。
私が惹かれるのはこの矛盾がある意味で無意識の思考に叶っているからなのではないか、無意識の中では同一律も矛盾律も二律背反も考慮されないとフロイトは言った、フロイトが言ったから言うわけではないがフロイトはここで私が前から思っていることを形にしたわけでフロイトがこう言わなければ私は今もなおこう考えられなかったかもしれないがフロイトなしでも考えていたかもしれない。もう十五、六年も前『世界を肯定する哲学』の中で私は、子どもの頃庭の芝生の中で糸トンボを捕って遊んでいて母は庭と逆の側の炬燵のあった北側の四畳半で午後にやっていた洋画をテレビを点けながら裁縫をしていた私にはそれも見えていると書いたとき私はもうすでに一回はフロイトの無意識の思考の話を読んでいたのだろうが自分の記憶と無意識のそれを結びつけて考えてはたぶんいなかった。
フロイトは無意識や夢の話で抑圧が話の中心にあるが私は無意識の思考の方にずっと関心が向いた、私は記憶が大人になった自分を助けると考えるようになった、記憶には幼児期かあるいはもっとそれ以前の万能感がありその万能感は記憶であるかぎり大人の記憶にもある。記憶の出来事の矛盾に対してわかったような顔をして修正しないこと、修正するのは自我や意識だ、それは浅薄なものなのだから修正したら記憶よりもっと間違う。
『残響』という中篇は私は自分の書いた小説の中で一番気に入っていると言ってもいい、その中で貸家に今住んでいる若い夫婦がいる、夫婦の妻の方が毎日隣りとの境いのブロック塀の上にすわって家の中をじっと見ている猫を見て「今日もいる」と思う。その家にはだいたい同じ年齢だった夫婦が前に住んでいた、前の夫婦はたぶんほとんど唐突に別れた、妻が植えていったチューリップが咲いている、小説の冒頭に書かれる前の夫婦の夫の方は猫がいた暮らしを懐しがったりもする。
『残響』を読むとブロック塀の上に毎日くるその猫が前の夫婦が置いていったように見える、というかそのようにしか見えない、私も書いて何年か経って読み直したら猫はそうとしか思えなかった、ところが書いていたあいだ私は猫を前の夫婦が置いていった猫だと思いもしなかった。作者というのは思いもかけず間抜けだ、作者に意図を訊いても小説に対して正しい応答が得られるわけではない。このあいだも『電車道』という小説について作者の磯崎憲一郎とトークをしたら、彼は人から指摘された作中の出来事の因果関係を「本人は全然気づいてなかった」と間抜けにも納得していたがそこに因果関係を見る方が間違っている、あの小説はそのような関係の連なりによって書かれていない、ということを作者は書き終わると作者でなくなるからわからなくなるから小説の外で了解されている穏当な時間の流れ、事の関連で小説内の出来事をつい見てしまう。
しかし書いているあいだも作者はそのようにわかっているわけではない。作者は書いているあいだそのような因果関係とかここに出てくる猫はその前に出てきたアレと関係がある、というような順当な関係なり関連なりと違うところに気持ちを奪われている、前々回だったか書いたセザンヌのテーブルの面の見える角度と水差しの口の見える角度がふつうの視点ではつじつまが合わないように作者は書いているそこに熱中するから今書いてるそこがその前のどことどうつながっているかが関係なくなる。これは意図せず起こる空白だ。
意図しないのは意図したくないからか意図しそびれたからか意図の必要がなかったからかわからない、とにかく空白が生まれた、そこに書いている最中の作者の意図は関与していない。小説は作者の意図をこえて書かれる、作品の隅々まで作者として作品をコントロールしようとして書いている小説家の小説にも作者の意図せざる部分は必ず生まれる、その土地がどこでその日の天気がどうで、ということをすべて因果関係に当てはめ逆算して書かれた小説にさえ漏れるものはある、空白は意図しないところに起こる、しかもそれは書いている最中の時間、行為の最中には明白すぎるそれに本人は気がつかない。
気がついていたら書いていた私はブロック塀の上にいる猫にある感情を重ねるつもりがなくても重ねてしまっただろう、その猫は本当に置いていかれたのかどうか、作者は関与していない、そうとしか見えないとしてもそうかどうかはわからない、きっとわからないから作品内で猫はいっそう置いていかれた、しかしそれは断定できない、だからいっそう置いていかれた。
明白なことが見えない、見えないからいっそう明白になる、しかし明白だと言明するだけだ、明白だからそうだというのはその場・その時を離れた指摘にすぎない、それはたんなる醒めた(冷めた)認識だ、その場・その時には明白さは問題にならない、問題はそこにはない。
「キリストは「全く神」でありかつ「全く人」である。」
こう考えた人たちはしかし神の実在をまったく、全然、まるっきり疑わなかっただろうか。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
「わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給へし」
と、キリスト本人でさえ十字架の上で言った(マタイ福音書)。キリストとキリスト教について考えつづけた人たちは心の中に、「神は全くいる」と「神は全くいない」の二つの命題がつねに同時に存在していた、だから彼らは「キリストは「全く神」でありかつ「全く人」である。」という論理的に矛盾する命題をリアルに、痛切に、深刻に、心に深く刻みつけられたという文字どおりの意味で深刻に考えつづけられた、そういう二律背反は無意識の中ではきわめてあたり前にある、信仰とはそもそも意識や自我などの小さいところで起こるのでない、無意識やエスを丸ごと含めた人間全体で起こるものだ、というのは心理学的な解釈すぎるだろうか?
量子力学で今はどうなのかわからないが前は「シュレディンガーの猫」が入門的な本には必ず書いてあった、量子をどうとかするとか素粒子をどうとかすると密閉された箱の中で有毒ガスとかそういうものが出て箱の中にいる猫が死ぬ、量子だったか素粒子だったかをどうとかしたのがたとえば一時間前だったとしてしかしそのどうとかした結果は一時間後に箱を開けて中を確かめるまでわからない、量子だったか素粒子だったかがどうとかしていたら猫は死んでるがどうとかしていなかったら猫は生きている、箱と量子だったか素粒子だったかの関係は箱を開けた瞬間に決定的なことが起こる、箱の中の出来事は一時間前に起こったわけだがその一時間前の出来事は一時間後に箱を開けた瞬間に確定される。
量子力学で問題なのは一時間後に箱を開けたその瞬間に一時間前にさかのぼって出来事が確定される。出来事から箱を開けて中を見るまでの一時間、猫は生きていたのか死んでいたのかというと、箱を開けるまで猫は生きていたか死んでいたかの【どちらかでなく】、猫は「全く生きていた」かつ「全く死んでいた」。どちらか一方に一時間後に確定されるまでの一時間のあいだ猫はどちらか一方でなく完璧に二つの状態にあった。私のこの、「シュレディンガーの猫」の理解がまったく間違っているとしたら私の創作だと読者は了解してください。
これは大澤真幸が書いていた例だ、遠い山中で飛行機が墜落した、何日も捜索が難航するあいだ家族は子どもや夫の無事を祈りつづける、その祈りは今このときだけでなく過去の何日間にもさかのぼり、祈ることによって死を生に書き換える力さえ持つと思って家族は祈る。これは『〈個〉の誕生』の一節だ、
「しかし、中世の思想家たちがしばしば私たちに注意をうながしたように、厳密に、明晰には語れないことの方が、人間にとって重要であり、価値あることがらである場合も多い。」
私はここで「場合も多い」と控えめな言い方をしたのが残念だ、さらっと書いたやや補足的な一文だったからさして気にもせず書いてしまったか、ここは話の本筋から外れるという思いから本筋と外れたところでいちいち小さな軋轢を起こすのは書き進めることの消耗になるという本人も自覚しない躊躇がここで断定でセンテンスを切ることを避けさせたのか、しかし控えめな表現をとっても意味はしっかり届いた、
「厳密に、明晰に語れないことの方が、人間にとって重要であり、価値あることがらである」。 |