「使用から解放された象徴対象が、「ここに今」(hic et nunc)から解放された言葉(モ)になるにあたっては、両者の差異は、言葉というものが物質性の面から見て音でできているという質を持っているというところにあるのではなくて、むしろ、消失するという、言葉ならではの在り方にあるのであって、そこにおいてこそ、象徴は、概念の永続性を見出すのである。」
「一つの無の痕跡であることによってしか体を成さないもの、それゆえ決して変質することのないものを支えとしているもの、そうしたものによって、概念は、移ろいゆくものから持続を救い出して、物(la chose)を生み出す。」
前回書き出したところをもう一度書き出した、この理屈によるなら言葉を使う、言葉で物や事を指し示した途端に物や事は消え去る、ひかえめに言ってイキイキしたものでなくなる、それはもう本当にそのとおりだ、小説で何かを描写しようとするとき描写はまったくそれに届かない、物や事の生気だけでなく混乱も整理してしまう、今ここでいまさら言うのもアレだが「小説家は言葉のプロ」という言い方がいったいいつからされているか知らない、私はその言い方にひんぱんに出会うようになったのは九〇年代の半ばからのように思う、しかしそれは同時に私が小説家として少し知られるようになったのと併行しているから私と初対面かそれにちかい人が知人を介さない人として話す会話の糸口として一つの紋切型を口にしただけかもしれない、しかしそうでもなく印刷物の中でもその頃から「小説家は言葉のプロ」という言い方を見るようになった気もする。
この言い方を小説家のくせに受け入れる人は相当アナクロだ、きっとたしかに小説に書かれた文章が一般の人たちの文章のお手本となっていた時代はあったのだろう、その頃、作家は名士として裕福な暮らしをしたんだろうか。そういえば、エンタテイメント系の小説の評価で「文章がうまい」というのを最近私はつづけて見た、あるいは作者本人が誇らしげに「文章は練りに練る」とか「何度でも納得するまで書き直す」というのを聞いた、それにつづいてその冒頭の段落がテレビで朗読された途端、私と妻は噴き出した、
「うまいというのはこういうことか!」
小説家は言葉につまずく、言葉が実体と乖離するのを目撃する。絵は空の青さや海に反射する光を再現できない、ブラマンクは後期印象派だったか前期印象派だったかはっきりしないがその展覧会のポスターの風景画の上半分に広がる空の濃い深い青を見たとき私は感動した、ポスターに感動したのに私は会場まで行かなかったのはその頃猫のジジの世話がつづいて家を空けられなかった、ジジは2011年1月17日に死に翌日、府中のお寺で火葬してもらったその日、空がブラマンクのポスターのその絵のような濃い深い青だった。
ジョイス『死者たち』のラストの降りつづける雪を見ながら言葉が紡がれるところが典型だと思う、言葉は風景それ自体にはかなわない、というか全然届かない、だから描写は風景に思いや記憶の厚みを付与していく、私はブラマンクの空の青を見たとき、こんな色の空には現実では出会えないと思った、ジジが火葬されていたときに見た空はブラマンクの絵をそこに置いて比べたら全然違っていただろう。私はその夜ブラマンクの絵の中にいる夢を見た、私は濃い深い青い空が広がる強い風が吹きすさぶ草原を歩いていた、私はこれはジジが見させてくれた夢だと夢の中で感じた。
ブラマンクの空の青の濃さ深さはある種の理想化というものかもしれない、生涯出会うことのない美しすぎる人とか均整のとれすぎた体型とか現実の人間ではできないがすごいと感じる体の動きとか、それが絵に描かれることによって現実の物や事が色褪せるのでない、逆に生彩を得る、そうでなければ芸術や言葉は閉じられる、現実には出会わない物や事を描いても芸術や言葉は現実からその根本の力を得ている、それゆえ逆に送り返しもする。
ブラマンクは調べると印象派でなくフォービズムだったらしい、しかし後期においてブラマンクはセザンヌから影響を受けた、その前はゴッホに影響を受けた、ま、どっちでもいい。ゴッホとかセザンヌとかそれを見る前から名前を知ってる画家でなく、ポスターであってもその絵によって名前とはじめて出会うのは幸運だ、私はそれまでブラマンクという名前を聞いた憶えがない、自分の目がなまくらでなかった、という多分に見栄も作用した自己満足だが多少の見栄の作用した自己満足なしに芸術作品に向かい合うことは人に本当にできるんだろうか。
『精神分析における話と言語活動の機能と領野』の130ページにまさに書いてあった、
「かくして、象徴はまず、物の殺害として現れる。そして、この死は、主体において、欲望の永遠化を構成する。」
いまはここだけ書き写せば前回からのつづきの用は足りるがつづけて書き写す。
「遺跡に認められる人間らしさの第一の象徴は、墓所である。人間が、己れの歴史という生へと関係を持つに至るにあたっては、それがどんな関係であっても、そこに死の媒介が認められる。
その生だけが、常なるもの、そして真なるものとしての生である。なぜならその生は、主体から主体へと続けられる伝統のうちで失われることなく伝えられていくからである。動物的なるものによって遺伝され、個体が種のうちに姿を消してゆくあの生を、この生はどれほどの高みにおいて超越しているかということを、見ないでいることができようか。」
ふるさとは遠きにありて思うもの――私はラカンに帰郷した、ああここが自分の考えたり書いたりすることの拠り所だった、出自だったと感じた、懐しくもあった、私はラカンをクソ真面目に読んだ、わかるわからないでなくただただ読んだ、しかし長くつき合っていると田舎のひとかどの人となった伯父さんの得々としゃべる長話にうんざりしてくるような気持ちが芽生えてもくる。
話のついでにこの中で親族の基本構造が未開社会においても厳密に認識されているという話が出てくる(53ページあたり)、私は親族の呼称に厳密で「伯父」「叔父」を使い分ける、『カンバセイション・ピース』で「伯父」「伯母」「従兄姉」と書いていたのに書評でみんな平気で「叔父」「叔母」「従兄弟」と書いた、フロイトは、実父がフロイト出生後、妻(実母)の実母(祖母)と再婚した、しかし実父は実母との前にもう一人と結婚していて、そのときの結婚で生まれた娘がフロイトを養子に引き取った、フロイトは異母姉が母になった。この家に新しく子供が生まれると、その子は弟であると同時に甥になる、
「このような繰り返された状況の中で、この息子(フロイト)がその新しい子どもの誕生をどのような複合的な気持ちで待ち受けることになるかは想像されよう。
また、二番目の結婚によって生まれてきた子ども(フロイト)にとって、自分の若い母親と自分の年長の異母兄とが、だいたい同い年くらいであるような、単なる世代のずれでさえも、それに似たような結果を及ぼすであろう。」(67ページ)
私は父が亡くなったとき父の出生からの戸籍を取り寄せたら、もともと八人きょうだいの末っ子であった父の家は親戚の子どもを養子に入れたりしててひどく複雑だった、父は八人きょうだいの末っ子で母は七人きょうだいの末っ子で、父方の従兄姉の最年長は母と一歳違い、母方の従兄姉の最年長は母と五歳違い。何が言いたいのかというと、傍線部は騒ぐに値しない。ただ、フロイトの育ちは尋常じゃない、しかしそこにフロイトのエディプスの理論の原因などの因果関係を見るのは私は不快だ、出生の問題の差別とかそういうことじゃない、因果関係そのものが私は不快だ、因果関係は思考の簡略化だ、世界が一方的に説明され固定化しそこだけを聞きたい人たちがまたそこから強引な説明をしはじめる、私は「××だったからフロイトは、うんぬんかんぬん」という考えは「血液型、何型?」というのと同じにしか聞こえない、私の中では因果関係、あるいは原因を指し示すことは血液型と同じものになっている。
「かくして、象徴は先ず、物の殺害として現れる。」
「消失するという、言葉ならではの在り方にあるのであって、」
ここでの「消失」はやはり物の方でなく、言葉は音でできているから音=言葉が聞こえると同時に消え去ることを言っているのだろう、人間の回路はここで混乱・混同を起こして消えたのは音=言葉だったのにそれが指し示した物も消え去ったとまず感じる、それを感じてからあらためて指し示された物を心に復帰させるから永遠化する、音=言葉=物は聞こえると同時に消える、消えた直後にまた復帰する、しかし復帰したそれは言葉が指し示した、言葉より前にあった物や事でなく言葉が指し示したのでない言葉とともに生成した物や事についての「概念」の方だとラカンは言っているのだろう。
「概念」というのはいわゆる概念でなく、目の前で展開する物や事を認識するためには人は必ずそれに先行する自分の経験や記憶を擦り合わせる、見ると同時に感じる物体の質感とか塀の高さとか威圧感とか高い窓から下を見た感じとかはそういう心の機能で生まれるのだろう、ここまで広げるのはラカンがここで言ってることとはズレてるかもしれない、そういう論旨のズレも含めてもう一度同じ文章に戻れば自分は前より少し文章に接近するだろう。
言葉は音だから物理的に消え去るが心に浮かぶ言葉も音と同じようにいったん消える、私はいまこのようなことを書くために文章に書く前に考えや言葉が次から次へと無駄に頭に浮かんでは消える、浮かんだことは書いた字のように消えずにしっかり心に貯蔵されることはない、私は浮かんだ考えが次々消えていくからホントに困る、将棋は次に指す候補手が何通りもあるが一回に一手しか指せない、文章を書くのもそれに似ている、私はどれだけ一本の筋となるのを抗っても文章は一本の筋でしかない、形ではそうなる、書いた文章は消えないかといえば書いた文章は読まなければならない、読むということはそれが頭を通過するということで読むという行為において書いてある文章も消えてゆく。
書かれた文字がいつまでも残るというのは公的な機関の文書の保管係のような発想だ、書かれた文章は読まれることによってその人ごとにそのつど文章として生成するのだから当事者にとっては耳で聞く言葉と同じように読むそのつど消える、耳で聞く言葉と違うのはすぐに三行前、一ページ前に戻れることだがそれも瞬時に可能なわけではない。
こう考えると現われては消える考えを通過させずに貯蔵し、貯蔵した考えを即座に検索し再生できるようにする訓練が将棋や囲碁の棋士たちがやってることなのかもしれない、少し棋力が上がるとわかるが駒を手でいちいち動かすより頭の中で動かす方が速く正確になる。言葉はどの形態でも本質的に自分が口でしゃべった音を耳で聞き取ってそれを確認する性格を持ってるからその回路の中にさっきの私のブラマンクとの出会いのような自画自讃、自己満足の心の作用が生じるに違いない、しゃべるのは口→耳という二重構造だが書く方も書きつつある文字をつねに目で確認していくから二重構造だ。
私は何が言いたいのかと言うと、人間の言葉は猫の言葉とどれだけ違うのか? 完全に違って似たところはまったくないのかどこか一部は同質なのか? あるいは、さっき話題にしたブラマンクの絵はどこまでが言語による産物なのか? 言語以前の機能(か回路)によって描かれたところはあるのか? そういうことはまったくないのか?
セザンヌの絵を語るとき、少し絵に詳しい人は決まって、リンゴはヘタがこんな風に見えてるからリンゴはだいたい真上から見てる、ミルクピッチャーはだいぶ真横から見てる、そしてテーブルの面は斜めじゃないとおかしい、というようなことを言う、私はセザンヌのテーブルの上のリンゴの絵を長いこと見てきて変だなとは一度も感じなかった、全然ふつうに見ていた、このような言葉を知ってからも私の部屋に貼ってある大判のカレンダーの一葉として採用されていた、去年からそのままずっと貼りつづけてるセザンヌの静物画はふつうにうれしくなるほどの物の存在感なのか実在感なのかリアリティなのか何かがある。
テーブルの面は絵画らしく平行四辺形でなく長方形だ、その長方形であることに気持ちを少し強く向けるとなんか幼稚園の子どもが描いたみたいに思う、幼稚園の子どもはたいてい絵は絵を見てしか描かないから自分で絵を描く子なんてほとんどいないがそれでもゼロじゃない、そういう子が描くと思うと私はテーブルの面を、全体としてでなく面だけを見る視線の熱意を感じる、テーブルの面をはじめて描くようだ、法則化や秩序化されていない視線を感じる、面の上に乗ってる物が「これじゃあ落ちる」という不安定さでなく絵を絵たらしめる、筆と絵の具と手の動きと山の稜線のような輪郭線と色と、というそれらが秩序化以前のひたすらそれぞれのそこを凝視する視線の熱意によって絵となっていく運動か運動以前のエネルギーがいっぱいになってゆく感じを感じる。
言葉はなくても物も事もある、ラカンはそう言わないかもしれない、人間は人間化されていない世界にじかに接することはできない、世界があってそれを俯瞰するイメージを人は持つが生きるというのはそういうことではない、自分のライフステージを年表のように何年で区切ってどこの区切りで何をする(何をした)という一望も現実にはありえない、世界は客観的に数値化する装置によって記述することはできない、何からも影響を被【こうむ】らない観測者はありえない、人間はつねに【人間圏】の中で生きているから世界そのもの・物そのものという人間圏の外を想定するのは意味がない、というこういうことだろう。
私は触れると金に換えられる願いが叶った王様の童話を思い出す、王様ははじめは喜んだが手が触れる物がことごとく金に換わってしまう、娘も金になってしまう、王様は金にすることなしに物に触れることができなくなった、観測問題では観測者の影響なしに事象を観測することはできない、言語は目の前の物や事を消し去る、しかしその消し去りはどの段階で起こるのか?
目が物を見て(1)、それを頭が「猫」と思い(2)、「猫」という言葉を浮かべる(3)、言葉を浮かべるとき、口で「猫」と発してその「猫」という音を耳が受け止めた記憶回路がきっと作動するので、言葉を思い浮かべるときには口→耳という時間差がきっとある。
(2)と(3)は本当にこういう流れなんだろうか、頭は「猫」という言葉を言葉の貯蔵庫から引っ張ってきたから「猫」と思ったんじゃないか? ホントにそうなら「猫」という言葉を人間は知ってる(持ってる)から(1)の物を見るという行為が成り立つ、ということにもなりかねない、「猫」という概念が事前になければ人間は対象を見るという行為がそもそも成り立たないのだ、と。
しかし(1)で見た物が何か判然としないとき、私はたとえば「黒い物体で脚があった」という風にとりあえず見て頭の中で検索をかける、ちょうどゆうべテレビで見た生き物がそれだった、「黒い〈物体〉」と書いたのは間違いで、「黒い〈生き物〉」だった、生き物である人間は、生き物と物体=無生物をかなり瞬時に見分ける、同じ意味で私は道に死んだ人が横たわっていたときひと目で死んでいることがわかった、生きているのと全然あり方が違っていた、これは経験だろうか、私は先天的認知と感じる、経験をこえた絶対的な感じだった、仮りにそのときの判断は間違いでも判断の根拠は絶対的だった、ボールが自分に向かって飛んできたら思わず上体をかわす、ボールは実際には自分を逸れても上体はかわす、上体をかわす反応の基盤は間違ってない、上体をかわすs反射は絶対だ。
(1)(2)(3)とそれにつづく流れのどこで言葉が働き出すか、(1)(2)(3)は私は順として正しいことにする、(2)で思う「猫」は言葉として知ってる猫と同じじゃない、これは言葉の体系の中に位置づけられる以前の「猫」だ、だから(3)での表記は「猫」でなく「猫」だ、(1)と(2)は人間の中の人間以前の回路だ、だから物はそこでは消え去らない、消え去らないから永続化もしない。
私はいったいどっちの見方なのか、私は世界がどうであってほしいと希っているのか、希いはひとつ、猫たちが不幸でないこと。私は「願い」と書かずに「希い」と書いた、たまたまそうしたくなった、ふつうに流通してる願いとは違うと感じたから自分でも描いたことのない字をあてる方がいいと感じた。ところで猫は人間に向かってしか「ニャア」と鳴かない、猫同士では「ニャア」とは鳴かない、「アッ、アッ」というような声で何か言う、言うといっても親愛の情の表現とかお互い体を舐め合うのの代わりのようなものだ。
子猫は母猫に「ニャア」と鳴く、「ニャア」より「ミャー」とか「ピャー」みたいだが声帯や口腔の使い方は「ニャア」と同じだ、餌を出してくれるような関係にある人間にだけ大人になった猫は「ニャア」と鳴く、ケンカやにらみ合いの鳴き声は「ニャア」ではない、「ニャア」という鳴き方は大人になった猫の中で消えてない子猫の記憶いやモードだ、この発見に猫好きのブログで出会った、私はこれに出会って複雑な気持ちになった。 |