◆◇◆試行錯誤に漂う15 ◆◇◆
「みすず」2013年8月号  
読者と同じである作者

5月30日付朝日新聞の朝刊に、「国内最古の木製仮面」という記事が一面に出ていた。二世紀後半のものと見られ、出てきたのは仮面の右半分よりやや狭い、上から下に仮面の板は真っ二つに割れた、だから真っ二つでなく四割方だがそれが出てきた、その仮面はじつに素朴で単純だ。全体を推測再現した絵によると両目と口、合計三つの穴だけが無造作にヨコ長にくり抜かれている。
この仮面が単純素朴で無造作なのは二世紀後半という大昔に作られたからだ、その時代の人たちは仮面作りの技術が幼稚園児程度に稚拙だった、という考えは間違っている。それよりずっと前に日本列島にいた人たちは縄文の火炎なんとか土器を焼く技術を持っていた。その人たちとこの仮面を作った人たちは別の民族かもしれないが、私は最近思うのだ、大昔の人たちが工芸の技術において近代現代の人たちより劣るということはない。
土器でも狩猟でも特別な技能集団があって、その集団の技術の高さはその後の時代の技術に劣らない。二世紀後半と推測される仮面が単純素朴なのは、当時の人たちが仮面を見るのに現代人のような精緻なリアリズムを必要としてなかったからだ。仮面によって霊感とか想像力を得るその媒体としての仮面はその程度の簡単な細工でじゅうぶんで、精緻なリアリズムの仮面でなければ想像力が掻き立てられないということはなかった。
H・G・ウェルズの『タイムマシン』を読んだとき、主人公が乗るタイムマシンという機械の造りの簡単さに私はびっくりした。ジュール・ヴェルヌの一連の空想旅行物もそうだ、どれも月に行ったり地底に行ったりする乗り物(機械)の構造の説明に多くの字数を費やさない。ということに気がついたのは、私はウェルズやヴェルヌを読んだのは最近のことで、これらを読む直前にグレッグ・イーガンという九〇年代に日本で紹介された90年代以後的なSF作家のいくつかを読んで、科学の技術や法則の説明の多さにうんざりしたというのか、それについて行けなかったからなのだった。
これはたぶん避けられない流れなんだろう、相対性理論にしても量子力学にしても人間の想像力の産物というわけではなく、精緻な観測によってもたらされたもので、精緻であることが想像力を上回る、あるいは精緻であることが想像力を産出する、ということなんだろうがグレッグ・イーガンはその精緻さがつまらない、まあ、私がそれについて行けないということなんだが。
「空想科学小説」として出発したSFが科学の理論に縛られていいものか、しかし「空想科学小説」という名称の「空想」がついているのは日本だけのことか、Science Fictionという言葉にはどこにも「空想」という言葉は入ってない! SFのこの変質にも私はウィキペディア的世界の侵入を感じる、私はそこが息苦しい。
  
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ある出版のPR誌であるベテラン作家がわりと趣好を凝らした新作について語っているのを見て、
「やっぱり、テクニックを喧伝するこれは違うんだよな。」と思ったり、
「作者が自作を熟知しているというこれはやっぱりカフカじゃないんだよな。」と思ったりした。
作者もまた作品(自作)にとって他者だ。ということは他の読者と同じだ。
夏目漱石の『こころ』で、先生の親友Kとは誰のことか? Kのイニシャルを持つ、大逆事件の犠牲となった幸徳秋水のことか? というようなことは作品のおもしろさにおいてトリヴィアの興味にすぎず、だいいち、そんなことは夏目漱石に訊くのが一番早い。作者が死んだから作品の謎が永遠に残る、というのは作品の本当の謎ではない。作品の本当の謎は作者にも答えられない。
何度も繰り返しになるが、カフカは自分の原稿の焼却を本気で親友マックス・ブロートに頼んだのか? カフカは本気だった。
カフカはトルストイやゾラやユゴーのように、小説が自分がいるこの世界の隅々にまで行き渡るべきものだとは考えていなかった。カフカは小さい声で書いた。トルストイにとって小説はそれを読んだ人が生きるためのものだったが、カフカにとって小説は書く自分が生きるためのものだった。楽器の演奏やダンスと同じで、その夜、その夜からはじまる何日間何カ月間を生きるためのものだった。
生涯、とくに『モロイ』三部作を書き終わった後、たったあれだけしか発表しなかったベケットは本当にたったあれだけしか書かなかったということがあるだろうか! ベケットは小説家だ。小説家が一年にたった何十枚しか小説を書かないなんてことはありえないのだから、ベケットはカフカが自分自身では実行に至らなかった自作原稿の焼却を実行していた、カフカもしかし自分自身で日記や原稿を何度か焼却している、私はカフカがそう書いている箇所をたしかにどこかで読んだ、カフカがそう書いた箇所がなかったとしても同じことだ。

作者が作品の中に謎を仕掛け、「注意深い読者なら気づく」的なことを言うのは、作者が作品を自分の所有物と考える誤解の産物で、作者が仕掛けた謎を解くことに読者が喜びを感じるならまだかわいいが、それが作品の読み方だと思っていたら作品は読まれたことにならない。
「題名の意味するところはこれこれこういうことだ」とか「四人の登場人物の名前は、地・水・火・風つまり世界を構成する四大要素をあらわしている」とか「主人公が運命の女性であるマツ子と出遭った日は三島由紀夫が割腹自殺した日と同じである」とか、そういうことは作者がすでに知っていることなのだから、そんなことを読み解くために読者は作品を読む必要はない、だいたいもし、
「主人公が運命の女性……割腹自殺した日と同じである」
 で、その小説の何かが言えたとしたら、その小説は作中に「主人公が運命の女性……割腹自殺した日と同じである」と書けばよかっただけのことだ。
 そのような小ネタをあちこちに仕込んで読者にそれを読み解かせるという仕組みはあさましい、それは小説でなくパズルだ、というか学校のテストだ。ちょっと頭を使えば答えられることを問題=興味の対象にするのは小説のすることではない、九〇年代くらいから急に増えたテレビの手法、決定的瞬間を映すといって、誰かが何かを投げようとする直前、誰かに何かが当たるその直前でコマーシャルを入れて、
「エッ! このあとどうなるの?」という興味を煽ってテレビの前につなぎ止めておく手法と違わない、人はちょっと考えれば答えられるものは答えたくなる、いくら考えても答えられそうもないものと一目見てわかってしまうものは退屈だと思う。
 この学校のテストのような答を知っている出題者とそれに答える解答者という図式、というより知の秩序は根深く、それが人の考える行為を支配していないか。
 
 作者として作品に趣好を凝らすことは労力の証明になる。その作品に時間と知力を費した成果が作品の趣好であり作者が読者に投げかける謎であり作品を貫く文体などのテクニックとなって形になる。読者はそれらについて言葉をたくさん費して応答することができる。
 ベケットも批評や研究ではそのような応答ばかりが書かれる、しかしベケットは応答を期待したか、書き手も読み手も言葉がない、それがベケットだ。ベケットはもうこの先書けないというところから書いた、趣好も謎も複雑な構成もない。
 
 山岳信仰というのは世界中にある。日本には白山信仰というのがあり、白山は富山、石川、福井、岐阜の四県にまたがるというか、四県の県境にある山だが、単独の山を指すのかいくつかの山の総称なのか私にはよくわからない。
 その白山を遠望する写真を見たら、それは素晴しかった。友達は先日実際に白山を見てきたら、それより前に友達はインドに行ってヒマラヤも見てきたが、白山の方がヒマラヤよりも神々しかったと言った。
 手前の山はもう新緑に被われているその向こうに雪が残った真っ白い峯が堂々と横たわっている、またはそびえている。
 山に神が宿っていると、私は写真を見ただけだが、その光景を見ればきっと誰でもそう感じる。感じるというよりも、実体のあるいわくいいがたい何かがこちらに入ってくる。
 山に神が宿る。山に霊性がある。
 しかしこの言い方は、山を比喩の媒介項としているわけだから、現実に自分がこの目で見ている、自分の遠く向こうに現前と存在している山を最終的に空疎化して、その向こうの(ありもしないかもしれない)神や霊性に山を譲り渡してしまう。
 この目が見ている山がまさにそれなのだ。それとは山のことだ。
 神とか霊性とか、他にどんな言葉が出てきたのでもいいが、山を見て激しく動かされた心が生み出した言葉や概念はすべて、山のことなのだ。他の何物でもない、まさに山なのだ。
 山の向こうに山以上の何かがあるのでなく、山がある。山を見て人が山より大いなる何かを予感したのだとしても、それはまだ汲み尽くしていない山のことだ。目の前にある山を見て、言葉はわずかなことしか語らず、語りきれないものが山の向こうにある何かであると人は感じるのだがそれが山だ。