◆◇◆試行錯誤に漂う 9◆◇◆
「みすず」2012年12月号   
読者の注意力で

 カフカの未完の小説『万里の長城が築かれたとき』は、こうはじまる。(翻訳は『カフカ・セレクション T』平野嘉彦訳、ちくま文庫)
 「万里の長城は、その北端において終了した。南東と南西から工事がすすめられて、ここにいたって統合されたのである。この分割工事のシステムは、規模を小さくして、東部隊と西部隊の二つの大きな労働隊の内部においても遵守された。それは、こうした具合であった、」
 約二十人の小隊が城壁を約五百メートルずつ、(たぶん)両側から築いていって一千メートルの城壁が完成する。一千メートルが完成すると工事は、その城壁の端からつづけられるわけでなく、小隊は離れた別の場所に派遣されて、うんぬんかんぬん……。
 私はつい最近まで気がつかなかったのだが、南東と南西から進められた工事が「北端において終了」する、というのはどういうイメージなのか。北を上にして膨んだ半円または弓形があり、その半円の両端から内に向かって進んでいけば「北端において終了」することは確かに考えられる。しかし、ではそのような場所が中国の国土のどこにあるか?
 現在の中華人民共和国ではモンゴルの部分が内側(南)に向かって凹んでいる。が、これはカフカが見た西暦1900年前後の中国の版図ではない。カフカが見たのは清国の地図だとすると、大清帝国の版図には確かに、半円どころか三角形のように北に向かって突き出したところがある。
 しかしそれではおかしい。なぜなら、その版図ではすでに騎馬民族が馬を疾走させていたモンゴルの草原までも含んでしまい、これでは、漢民族を騎馬民族たちから守るという、万里の長城の本来の目的がどこかに行ってしまうし、漢民族が騎馬民族を併呑するほど強かったら、そもそも防衛線としての長城を築く必要すらなかった。
 中国歴代王朝はごく大ざっぱに言うと、漢民族による王朝と騎馬民族による王朝の交替であり、万里の長城は秦の始皇帝によってまず築かれた。その後の唐や宋が建設をつづけたかどうかちょっと調べたかぎりではわからないが、清の前の明が現存する城壁の大半を築いたとされている(らしい)。秦も明も漢民族の国家だから、騎馬民族による国家である元・清の版図よりずっと狭い。(と書いたら、その後、秦以前の戦国時代に原形が築かれていたらしいことを知った。)
 万里の長城はその狭い方の国土を囲むように作られたと想像されるわけだが、調べてみると、長城は西側の境界には築かれておらず、現在のロシアからモンゴルへと至る北側に、Sの字の湾曲をひじょうに小さくし(つまりだいぶ直線にちかづけ)て横に寝かせたようになっている(これもまた、別の資料を見たら、北西にも長城が築かれていた)。と、まあ、私の調べ方もかなりいい加減だが、とにかくカフカが書いているような「北端において終了」する半円ないし弓形、まして三角形の二辺は地図からは見つけることができない。
 さらに『万里の長城』を読んでいくと、
「ちなみに私は、中国の南東部の出身である。」(153ページ)
 とある。この「私」とは、「二十歳でもっとも下級の学校の最上級の試験を終えたあとに、ちょうど長城の建設が開始された」(144ページ)ために運よく城壁建設の責任者として工事に携わることになった。
 話は城壁建設のプロセスの話などを経て、長城建設の指令を出した「最高指導部」(150ページ)に関する考察を経て、帝国と北京にいる皇帝に関する考察になるのだが、そこでもう一度、
「しかし、どうしてわれわれがそれについて知ろうか――一千マイルも離れた南方にあって――何しろわれわれは、もうほとんどチベットの高地に隣接しているのだから。」(158ページ)
 と、「私」の住む(生まれた)土地のことが書いてあるが、これがもう完全におかしい。北京は中国の国土のだいぶ東の端に近く、南へ下っていくと、香港、もう少し西へ行ったところでベトナムだ。それにさっきは「中国の南東部の出身」と書いてあった。とにかく、どう広く解釈しても「私」の出身地は「チベットの高地」とは隣接しない。
 なんて、こんなつまらないことをなぜわざわざ書いたのか? 作品を読んで、そこに書かれた土地を地図上で辿るのは案外楽しい。やっているこっちはやりながらどんどん正確に知りたくなって、最初はウィキペディアだがそのうちに、本棚の取り出しにくいところにある世界地図帳と『図説世界史』という、高校の授業のサブテキストなどに採用される、ローマ帝国の版図やヨーロッパの人口の時代ごとの推移のグラフなどが載っている本で清の版図を調べ直したりしている。
 ではなぜ私は、その「案外楽しい」ことを「つまらない」と傍点つきで言ったのか? カフカを読むのには「つまらない」という意味だ。「不向き」だと言う方がいいかもしれない。
 だいたい『万里の長城』は、地理がおかしいだけではない。長城建設は「私」が二十歳のときにはじまった。ということは、それは秦の始皇帝の時代だ。秦王朝の帝都は北京ではない。北京を都にしたのは元王朝のことで、それ以前は長安、いまの西安だ。皇帝の居城の広大さについて書かれると私は紫禁城をイメージする。きっとカフカも清の皇帝が住む紫禁城の絵や図を見るなり、それについての記事を読むなりしたのだろうが、中国歴代皇帝が暮らした城はどこも狭いはずがないのだからそれはいい。そのような、作品の外の事実との食い違いはどうでもいい。ではこれはどうか?
「こうした世界のただなかに、長城建設の知らせが舞いこんできた。それにしても、告知されてからほぼ三十年遅れてのことである。それは、ある夏の夕べのことだった。私は、当時、十歳だったが、父と一緒に川べりに立っていた。」(165-166ページ)
「こうした世界」というのは、帝国の国土が広大すぎて皇帝のいる都から「われわれ」が住む村にまで情報が届くのにとてつもなく大きな時間差があり、「村人たちは、数千年前の皇后が夫の血をなみなみと飲み干したと聞かされて、けたたましい悲鳴をあげることにな」(161ページ)って、「北京そのものが、村人たちにとっては来世よりもはるかに縁遠い」(163ページ)ような世界のことだ。
 と、説明的なことを書いていると、とてもバカバカしい気分になってくる。このような説明的なことをすればするほど、カフカが書いたこの文章の連なりを読む呼吸から離れ、というよりも見放され、私はただわからなくするために書いているような感じがしてくる。
 が、しかし、書けば書くほど混乱を招くという意味においては、私は少しはカフカのようなことをしているのかもしれない。私はすでに最初に書くつもりだったことと違うことを書いているのだが、最初にどうして冒頭の部分を引用したのかと言うと、「その北端において終了した。南東と南西から工事がすすめられて」のくだりを読む読者は、何も変だと思わない、たぶん少しも引っかかったりしないだろう、と私は言いたかったのだった。  
このくだりを読んで、読者は半円とか弓形とか、いちいちイメージしたりしない。終了した「北端」に対応するように「南」という言葉が書かれているから、たぶん、北‐南ということでなんとなく通りすぎる。
 しかし、もし私が書き手なら、というか、たぶんほとんどの書き手は、自分が冒頭でこのような一節を書くときに、それがどういう地理的関係(形状)になるか、考えないはずがない。そういうことをつい考えてしまう。しかしカフカは考えなかった。あるいは気にせずに書いた。――ちょっと飛躍して言うと、カフカは読者の注意力をもって書いた。
 私はここに驚く。ある話なり、ある情景なり、ある会話なり、何でもかまわないがとにかくこれから書こうと思うことが頭に浮かぶ。しかしそれはまだイメージ段階のラフだから、整合性を考えるといろいろに足りないところ・おかしいところがあることに、書きはじめて気づく。しかし、カフカは気がつかない。あるいは気にしないで書いてゆく。
 何年か前、海外のテレビ局が作ったヒッチコックのドキュメンタリーで、ヒッチコックは映画を実際に撮る前に、すべてのシーンが頭の中で完璧にできあがっていると言っていた。カット割りもカメラの位置も、現場に入って迷うことはいっさいなかった、と。
 これは確かに驚くべきことではあるけれど、カフカのこういうところと比べると、旧時代の驚きと感じる。新しいとか古いとか、そういう評価に意味はない、何しろこのあいだまで「古い」と言われていたものがある人が別の視点から評価することで息を吹き込まれて同じそれがまた新しく見えたりするのだから評価の軸としての「新しい」「古い」というのがすでにおかしいんだと思うが、ヒッチコックの天才を賞賛する基準をもってしてはカフカを褒めたり驚いたりすることはできない。
 私にはカフカは「新しい」のでなく、カフカを褒めたら同じ口で他の小説を褒められない。ただし小島信夫だけは別で、小島信夫だけはカフカと同じことをした。私にとってカフカは小島信夫を経由したカフカであり、カフカを経由した小島信夫だから、結局小島信夫がちゃんと読まれない現状はカフカがそうは読まれていないということで、私の読むカフカとは違うカフカのことを人は言ってるんだと感じる。
 カフカ自身は『万里の長城』を最後まで書ききらなかった。そして『カフカ・セレクション T』の159ページ3行目から160ページ最終行までの一段落を『皇帝の使者』として『田舎医者』に収録した。
 カフカは『万里の長城』の全体を助走のようなものとして書いて、その中の特別いいところだけを掌篇として抜き出したのだろうか。
 そういう考え方もまあ、ありえなくはない。全体をザーッと書いて、「ここは!」と思ったところだけ発表する。同じ二ページの掌篇でも、最初から二ページのものとして思い描いたものと、前も後もある長い流れの中でフワッと浮かび上がってきたものとでは感触が違う。これは確かに一つのやり方ではある。
 しかし同じ『田舎医者』の中にはこれも結局は書ききらなかった『審判』の一部分が『掟の門前』と『夢』として二つ収録されている。「しかし」でなく「だから」と、この段落はつなぐところなのかもしれないが、「ここは!」と思ったところに出会うために『審判』まで書いたのだとしたら、ロスが多すぎるではないか。
 ロスという言葉は効率を連想させるから、小説ましてカフカにはあまりに不適当だが、とにかく書いたものの採用・不採用という考え方がすでにカフカをわからなくさせる。カフカはとにかく書いた。それだけだ。楽器奏者が一日中楽器を鳴らしているように、できることなら目が覚めているかぎりずうっと書いていたかった。
 それは読まれることを最初から意識した書き物とはまったく別の様相を呈することになる。二十歳のときに長城建設が開始された「私」と、三十年遅れの長城建設の知らせを受け取った村に住む十歳の「私」は、激しく食い違うわけだが、小説の流れの中ではそれが一番ふさわしい。読者はこんなところで、
「さっきは二十歳だったじゃないか!」
 とは思わない。そんな読み方をする読者は小説を読むために必要なある解除ができていない。それを持って読むのでなく、それを持つのをやめて読むそれの解除。
 ガルシア=マルケスもまたカフカによってある束縛から自由になったと言ったが、それを「魔術的リアリズム」と呼ぶことは束縛をもう一度受け入れることになる。ガルシア=マルケス自身が「魔術的リアリズム」と言ったわけではないし、ラテン・アメリカという土地にとって突飛な出来事は珍しくないから、今ここで急にガルシア=マルケスの名を持ち出した私もどうかしてるが、カフカを「不条理」と呼ぶのもガルシア=マルケスを「魔術的リアリズム」と呼ぶのもどっちも読むための解除のなさだが、カフカとガルシア=マルケスには決定的に違いがあり、それは書き手が小説をコントロールしているかいないかの違いで、それについては次になるが、私はそれについてひと言でしか言えないのではないか。