◆◇◆試行錯誤に漂う 1◆◇◆   
「みすず」2012年4月号
弦に指がこすれる音

「永遠」と「瞬間」は反対ではない。対になっている。あるいは言葉として反対を指す概念は同じ方向を向いて補完し合っている。限りある命を与えられた人間が永遠を得ることができないからといって、「瞬間の中に永遠がある」と言ってみても、永遠という概念による苦しみから自由になることはできない。
 「朝露が世界を映す」つまり、極小が極大を包含するというのもまったく同じ考え方で、これは少し知恵がついた中学生でもたぶん考えつく。私はといえば、高校一年だったか二年だったか古典の授業で『方丈記』に出会ったとき、『方丈記』の「無常」という概念を克服するにはどうしたらいいかと考えた。少しも難しいことがなく、「永遠」「瞬間」「無常」「死すべきものmortal」は同じ範疇にある言葉なんだから、そこから一見逆と思える言葉を拾い出す。そして、その二つの語を結びつける言い回しを考えればいい。
 小説家は小説という形ある作品を書く。これが自分にもまわりにも大きな錯覚の元で、「作品だから(後世に)残る」と考える。しかし作品は残らない。百年経って残っている作品がどれだけあるか? ということではない。作品はすでに残らない。
 音楽、ダンス、演劇、それら形として残ってこなかった表現形式を考えると、レコードだろうがビデオだろうが、形だけを残すにすぎない。映像として残されたダンスや演劇は脱け殻なんじゃないか。
 私は手書きだから形として採られなかった原稿用紙が床に捨てられ散乱する。ピアニストは日々ピアノを弾き、コンサートは日々弾くピアノの結び目としてある。子どものピアノの発表会のように人前で披露するその日を目標にしてピアニストは日々ピアノを弾くわけではない。日々ピアノを弾くことが先にあり、人前で弾くことなど簡単に通り過ぎて、日々ピアノを弾く行為にかえり、ただそれだけがつづいてゆく。
 誰々のいついつの演奏を「畢生の名演奏」といったり「神がかり的だ」といったりするのには、作品を完成品としてただ受け取るだけの受け身の態度しか感じられない。私はこういう賛辞を聞くと、こういう言い方が大好きだった友達を思い出す。学生時代、彼の口からこういう言葉が出るたびに私は違和感を感じだものだが、これのどこがいけないのか私はまだ言葉にすることができなかった。
 こういう賛辞は子どもでも言える。子どもが言えばみんな、「何を偉そうなことを言ってるんだ。」と思う。じゃあ、大人だったら言ってもおかしくないのかといえばやっぱりおかしい。こういう言い方は、基準のようなものを想定しているというか疑っていない。

                              

 書く呼吸が見えてこないまま何度か書いてみたが、どういうわけかテンションが高くなりそれが低くなったり緩くなったりしないので困り、困ったここから今度は書いてみることにする。
 私は誰かに伝えたいよりもむしろ自分自身への覚書か、自分の考えを練るようなつもりで書きたいのだが、そのように書くのにどうしてそれが発表される必要があるのかということがすでに私の中でベクトルが乱れ、呼吸が整わない。
 ここのところ私が惹かれ、おもしろいと思って読む文章は、カフカのノート、ミシェル・レリスの西アフリカ民族学調査の日記であるところの『幻のアフリカ』、シュレーバーの日記、宮沢賢治の『春と修羅』の第二、第三集などであり、どれも発表されることを前提とせずに、あるいは発表されるというはっきりした見通しを持たないまま書かれたもので、完成かどうかは関係ない。宮沢賢治が本当のところどのように詩を書いたかは知らないが、いつも小さなノートか手帳を持ち歩いていて、言葉が風のように彼を横切っていく。それを書き止めたように感じられる。
 俳句や短歌はそのようにして作られるだろうか。外に出て自然を見たときに心をよぎる言葉を書きとどめる。そうでなければ機動力に富む創作形式であるところの俳句や短歌の意味がない。和歌とは画【え】に和する歌であり、「駒とめて袖打ち払う人もなし……」という歌は、そういう情景を描いた画に和するために詠まれたものであるという話はちっともおもしろくない。家の中にいたとしても外にいた体の憶えがそれを詠ませた。まあしかし「駒とめて……」が家の中で詠まれようが画に和したものであろうが私はこの歌に反応しないんだからどうでもいい。反応しないということが、この歌が家の中で詠まれた証拠であるということも、そうだとしてもどうでもいい。
 ピアニストが日々ピアノを弾く。私はやはりどうしてもこの話からはじめたいようだ。ピアニストにとってコンサートは日々弾くピアノの結び目のひとつにすぎず、ピアニストにとって主はコンサートではなく、日々ピアノを弾くことだ。コンサートに合わせて練習や体調を管理し、コンサートやリサイタルを何週間かの目標つまり一連の時間の収束とする考えは子どもの発表会のもので、プロ、アマという雑な言葉を使うならプロというのは、コンサートを、特別な時間とするのでなく、日々弾くピアノに埋没させる。
 人はすぐに「歴史的名演奏」などといって、特別な時をつくりたがる。これは当然、収束の思考法であり、そのひとつの起源または典型はギリシア悲劇にある。ギリシア悲劇は今は後回しにして、なぜなら私の中ではもうほとんどカタがついていることだから、収束・収斂から拡散へのことを考える。「歴史的名演奏」というのは受け手の受け身の考え方であり、ピアニストにとっては歴史的名演奏もまた日々ピアノを弾く行為に埋没してゆく。ピアニストが神がかり的演奏をある晩したのだとしても、ピアニストにあったのは日々ピアノを弾く行為だけなのだし、演奏を終えたピアニストがいつまでもその演奏を反芻していてもしょうがない。というか、反芻したら彼は演奏者でなく聴衆になってしまう。
 日々弾くピアノは小説家にとって何か。書き損じて捨てられた原稿がそれなんじゃないか。小説家は手を動かすこと、文を書きつづけることが、彼の日々だ。完成(発表)された小説には書き損じて捨てられた原稿は見えないが、書き損じ捨てられた原稿が小説の厚みとなる。もっと理想をいうなら、書き損じ捨てられた原稿や実際書くときには採られなかったが実際に書いてみる前までは考えられていた選択肢・岐路、それら形としては書かれなかったり残らなかったりした文章や思念の波間に、発表された小説は漂っている。
 モンドリアンのあの画面分割は、印刷で見るといかにも無機的なデザインのようだが、実物を見ると何度も塗り重ねているのがわかる。と、ある画商が言った。彼は筆で何度も塗り重ねる行為を絵画の根拠だと言ったと私は受け取った。私のこのイメージ、というより像、運動の注視みたいなことが、音楽にも小説にも反映している。
 人間とは、地面に立っている誰もが思い浮かべるあの形のことではない。蟻塚、蜂の巣、ミミズが排泄した土、それらを作るのでなく、作り【つづける】、そういうことを【しつづける】のがそれぞれの生き物だと考えたちょうどそのとき、私は歩いていた街が、それをつくるためにした行為の集合体に見えた。たとえば塗装を仕事にしている人は、ビルや民家の壁を見たとき、私が新聞記事を読んで「通りいっぺんの書き方だ」と思ったり、「感傷的すぎる」と思ったりするように、「ムラがある塗り方をしたもんだなあ」と思ったり、「こんな塗り方じゃあ長くもたない」と思ったりするだろう。ということは、その人は壁を見て壁を塗っている人の手つきが見えている。それがその人にとっての“人間”だ。手つきが浮かんで「ムラがある塗り方だ」と思うとき、その人は作業の成果を評価しているのでなく、自分の手つき・行為の未来への投げ送りをやっている。なんだかハイデガーみたいな思わせぶりな造語だが、それをした人の手つきが思い浮かんでいるときの感覚は評価ではない。自分で何もしない人には評価としか聞こえないだろうし、手つきを思い浮かべた本人でさえも、自分はいまこの仕事の評価をしたと勘違いしているかもしれない。なぜなら、そのような言葉は主流として自分でそれをしない人たちのあいだで流通しているから、ついそういう錯覚を起こしてしまう。
しかし、“手つき”が思い浮かぶのはそれをする人だけだ。それにつづく「ムラがある塗り方だ」とか「通りいっぺんの書き方だ」とかの言葉は、すでに“手つき”まで届く想像力、というよりも、自分の体から発した行為と直結する記憶のようなイメージのようなものからは乖離している。私が新聞記事でも何でも、すべての文章を読んで、いろいろな感想が出てくるのは、その文章をどこかで(頭か体のどこかで)自分で書く呼吸で読んでいるからだ。
 とすると、出てくる疑問は、新聞記事ならある程度我慢して読みつづけられるのに(といっても、そういうことはめったにないが)、小説となると、ホントにもう一ページも読まずに、退屈したりつまらなくなったりして投げ出してしまうのはどうしてか?
 ひとつには新聞記事は単純に情報として読むことができる。情報だから自分が知らないことを知ってどうなるものでなく知りたいと思うように書いてあるかぎりは読んでいられる。が、情報を知るつもりで読んでいたのが記者の主観、というよりも情緒の吐露が出てくるとそこでやめるし、読み通したとしても自分が何を読んだのかわからなくなる。私は天声人語くらいの長さの記事でも、読み通すことがあんまりない。
 もうひとつ、小説を読むとき私は期待値が高い。私は小説に情報を求めていない。文体と言ってしまうとまるで文章の味わいを気にしているようだが、そうでなくもっとずっとぎこちなく不細工で、意味よりも手つきや息継ぎやそういうことの下手さが前に出ているもの、あるいは、ヒステリーのように狭い空間に情報がぐっと押し込まれたもの、読む側への説明を忘れて勝手に先に行ってしまったり、説明にならないようなことを延々と書き連ねるもの。それらがいい。著者があらかじめストーリーを決めていて、それに沿って文章が整然と並んでいるものは最初からおもしろくない。
その傾向が最近やたらと強いのはしかしどういうわけなんだろう。私自身がしばらく書いていなかった小説をここ二年以上書いていることと関係はある。小説を書くのは小説を読むのより頭を使うというか実感としては頭を押す感じで、その頭を押した力が消えないまま小説を読むからよっぽど(変な)小説でないと物足りない。そこに私はあらかじめあると思われている小説の言葉・小説の文章に自ら進んで入っていくのと全然違う、小説(の文章)を書くことの試行錯誤を感じる。
 私はこの“試行錯誤”ということを最初に思ったのは、パブロ・カザルスの、バッハの『無伴奏チェロ組曲』を弾いているときに聞こえる、弦の上を指が動いてこすれる音と弓が弦に触れる瞬間の音楽になる一瞬間の音だった。どちらもノイズということだが、私はこれを最高級の蓄音機でSPレコードを再生してもらって聴くと、奏者と楽器が自分がいまいるまったく同じこの空間にいると感じられるほどリアルという以上に物質的で、その音からブルースが聞こえた。
 弦の上を指が動いてこすれる音や弓が弦に触れる瞬間の音はだからノイズではない。その音が弦楽器を弦楽器たらしめ、チェロをチェロたらしめる。カザルスが弾いた音の中にブルースの響きまであったのではなく、そのこすれる音の中にカザルスの演奏がありブルースもあった。弦楽器が譜面=記号で再現可能な行儀のいい音の範囲を出るときに、奏者の指も体もそこにあらわれ、肉声もあらわれる。そこからブルースも響き、ジミ・ヘンドリックスのギターも生まれ出る。
 カザルスの演奏は彼に先行した弦楽器を鳴らした人たちの試行錯誤を一緒に鳴らす。すぐれた奏者というのは、自分に先行した楽器をいじった人たちの試行錯誤を鳴らす人のことで、“歴史”や“記録すること”が人間の営みの中心だと思っている人は、
「カザルスの演奏からは彼に先行した人たちの試行錯誤が一緒に響く。」
 と、歴史に名を残す人=特異点を主にした言い方をし、私もまたそのような言い方ばかりを子どもの頃から浴びて育ってきたために、ふだんはついついそういう言い方をしてしまうのだが、
「先行した人たちの試行錯誤の厚みの中からカザルスの演奏が響く。」あるいは、
「先行した人たちの試行錯誤の厚みがカザルスの演奏を響かせる。」
 という言い方が、きっと本当のところだ。
 表現や演奏が実行される前に、まずその人がいる。その人は体を持って存在し、その体は向き不向きによっていろいろな表現の形式の試行錯誤の厚みに向かって開かれている。「これがいい演奏だ」「これがいい文章だ」と言われて、自分の体がすでに知っている(というのは、うすうす気づいている)試行錯誤の厚みに関心を持たずに、既成の形に自分をしたがわせたら、模倣や縮小再生産しか生まれず、教育というのは本質的にそういうものでしかないが、「これがいい演奏だ」「これがいい文章だ」と言われても、自分の体がすでに知っている試行錯誤の厚みに忠実であろうとしたら、既成の形との軋みが起こる。
 それが弦の上を指が動いてこすれる音だ、というのはあまりにベタな比喩だが、表現というときに私がいつもそこに立ち返るのは事実であり、これがこういうことを考えるイメージの源泉とか起源になった。
 人は、作品、演奏、表現されたものというと、“完成”ということを考える。雑に言えば、完成形が百点満点で、この作品は八十点ぐらい、こっちは六十点ぐらいという考え方をする。しかし、表現することにおいて完成はない。「どこまでいっても完成しない」ということでなく、完成という考え方は、出来事や行為を結果から考える考え方なのだが、出来事や行為には現在という時点から前に向かうプロセスしかない。あるのはプロセスだけで、完成やそれに類する言葉でイメージされる運動がそこで終わる状態がない。
 ひたすら無限に伸びてゆく線みたいなものだが、線が伸びるという運動のプロセスだけがあるとしたら、“無限”という言葉さえ消えるのではないか。「そんなことを知っている必要はない」という意味だと、とりあえずはしておくこともできるかもしれないが、表現することを試行錯誤ということから徹底して考えたとき、作品が完成するというイメージが生まれてきた言葉にはしばらくは敏感になっている必要がある。