カフカ→ベケット→小島信夫という流れがあり、それは書き手としての主体性・能動性の放棄・書く文章(作品とか小説)の意味への無関心、つまりどういうことかというと、「この小説は何を言わんとしているのか?」と問われても、作者と言われる本人がそれに答えられない。これはものすごいふざけたというか冒涜的な話だから、私がそんなことを言っても真面目に耳を傾ける人はほとんどいない。しかしそれは本当なのだ。
ある時期から能動性を持たない主人公が登場する小説が書かれるようになったように、作品に対して主体性を持たない作者があらわれた。能動性を持たない主人公による小説について、ものすごい苛立ちや怒りを表明する人たちがいるように、作品に対して主体性を持たない作者に対して多くの人が不快感を示す。あるいは、その創作態度を「作品の主体の意匠のひとつ」として矮小化する。
作者は読者に歓迎されるように書く。これはしかしおかしいのではないか。作者と読者に共通の一望監視方式が働いているのではないか? という言い方が大袈裟なら、教室の中で先生に褒められたいという生徒根性の延長なんじゃないか。作者は自分にかすかに聞こえてくる声や音に呼応して書くのが、書く態度として最も誠実なのではないか。昨年秋からベケットの『事の次第』を読みながら、私はその気持ちを強くした。小説家というのは、もともと何が書きたいか、はっきりとしたものを持っていたわけでなく、ただ書きたかっただけで、しかしそれでは何も書けないから、キャリアのスタートにおいて、何かわりとはっきりしたことを書くわけだが、そのうちに書きたいこともなくなり、ただ「書きたい」という気持ちだけが残る。ベケットは『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』の三部作を経て、その境地に至り、そこからいよいよ本当のベケットになった。と、私は『事の次第』とそれを一種補完するみたいな気持ちで『また終わるために』を併せて読みながら考えるようになった。
(1)山下澄人『緑のさる』平凡社
(2)酒井隆史『通天閣』青土社
(3)柴山雅俊『解離性障害』ちくま新書
(4)佐々木敦『批評時空間』新潮社
(5)ベケット『事の次第』(白水社)と『また終わるために』(書し山田)
(1)はその実践と私は思った。「文学界」12月号掲載の「トゥンブクトゥ」もそうだが山下澄人の小説は出来をうんぬんしたり、書かれていることの整合性を考えたりする人は、一番大切なことから見放される。
(2)はなんといっても、第四章「無政府的新世界」が凄い。七〇〇ページという分厚い本の二〇〇ページを「無政府的新世界」の章が占めるのだが、アナーキズムについて、著者の書き方がどんどんアナーキーになっていく。論文をこういう風に書く人が現実にいることが人に勇気をもたらす。正確さ緻密さを根拠にしているこの社会を批判するために、正確・緻密な論理を元にしたら、この社会を大本(おおもと)において認めることになってしまう。
(3)F・W・パトナム『解離』(みすず書房)かな? とも思ったが、『解離性障害』の方が私にはリアルで、安永浩『精神の幾何学』(岩波書店)→O・S・ウォーコップ『ものの考え方』という思いがけない広がりもあった。
(4)批評は客観性や冷静さでなく、観たもの・読んだもの・聴いたものへの熱狂が出発になければ面白くない。という、ものすごくあたり前であるはずのことが実践されている。自分が大学生のときに芝居や音楽に人生の一大事として接していたということを思い出した。
(5)『事の次第』は一九七二年出版の片山昇訳で当然、現在絶版。『また終わるために』は、高橋康成・宇野邦一訳で九七年出版でかろうじて絶版ではない。英語版だとベケットはA5サイズのペーパーバックがたくさん出ている。日本でも造本などはどうでもいいから、とりあえず読める形にして、細く長く流通させる方法はないものだろうか。
去年もやっぱり基本はカフカの文章を読んで、それから中井久夫『徴候・記憶・外傷』に激しく感動したが、どちらも本誌に連載中の「試行錯誤に漂う」で触れたので、ここでは取り上げなかった。 |