私は『未明の闘争』について、「この小説は何が言いたいのか?」とか「どうしてこういう展開になったのか?」と訊かれても、自分では説明できない。たぶん読者も説明できない。説明する読者はいるだろうが、それは説明でなく感想でしかないだろう。精神分析的に解釈することは可能かもしれないが、解釈は小説の部分であって全体ではない。
私はこういう言い方が可能なら、自分で説明できないように書いた。説明はできないが、そういうことと関係なく、読むとなんだか面白い。という、そういう小説になっていればいいと思いながら書いた。
最初のうちは意図やつもりが全然ないわけではなかった。しかし何しろ連載期間だけで三年八ヵ月だ、三・一一もあった。連載の前も入れると五年くらいこの小説を書いていた。最初の頃の気持ちと終わりの頃の気持ちが同じだったらおかしい。
作者は作品の外にいる存在だから、作品に働きかけることはあっても、作品から働きかけられることはない——つまり作者は作品に対して神のような存在であり、作品に流れる時間の影響を受けない、というのが普通の作品観だが、一年くらい経った頃から「それはおかしい。おかしいし、つまらない。」と思うようになった。
作者は作品を書きながら、作品から影響を受けてどこかに連れていかれる。ということは、作者もまた作品の中にいる。この作品は書きながらどんどん、「全体を考えるのはやめようよ」「先がどうなるか、もう全然わからないよ」という小説になった。私はいままでの小説も先がどうなるか見えないまま書いたが、全体の大きな枠はなんとなくあった。今回はもう完全になくなった。もし、「小説執筆期間中に起こった三・一一について、あなたはどう考えているか?」と訊かれたら、これがそのまま答えだと思う。自然の前で、人間がプランを立てるのは自然をリスペクトしていない。自然の前で、作者が作品をコントロールするのは自然をリスペクトしていない。自然の前で、作者は神でなく人であり、作品内人物のひとりである。
冒頭の段落で、「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」という文法的におかしいセンテンスが出てくるが、文章というのは記号としてたんに頭で規則に沿って読んでいるだけでなく、全身で読んでいる。だから文法的におかしいセンテンスは体に響く。これはけっこうこの小説全体の方針で、私はその響きを共鳴体として、読者の五感や記憶や忘れている経験を鳴らしたいと思った。
「大切なものを抱きしめたり、ロッド・スチュワートが聴きたくなったり、眠ったり、子供の頃を思い出したり、セックスしたり、叫びたくなったり、何処か知らない所に行きたくなる、そんな小説です。」
というこれは、この小説の出版前に簡易製本して宣伝用に書店やマスコミに配られた本(プルーフという)の帯に担当編集者が書いたコピーだが、私はこれがすごくいいと思う。小説というのは、書いて渡すたびにそれを受け取る編集者は、もっともらしい意味やテーマを返礼として作者に言ってくるものだが、この連載はさいわいなことに「群像」で毎月原稿を受け取った編集者も、「村中鳴海がエロくてムラムラきました。」とか「チャーちゃんの話に半泣きになりました。」みたいな、ものすごい素朴な感想しか言ってこない。私は「長谷川君、そんな素朴なことばっかり言ってていいのか。」と言ってはいたが、世の中の読者がみんなこの長谷川君のような読み方しかしなかったら、小説はどんなにいいだろう!
思春期というのは凄い。私はまもなく五十七歳になる。作中の「私」ははっきり言って何歳なのかよくわからなくなった。作中のその「私」もここにいるこの私も、自分自身の思春期から力をもらって生きていることを、この小説を書きながら実感した。最初は、いまの「私」が十七歳の、毎日海にジョンとポチを散歩に連れてゆく「私」に何か語りかけるつもりだったが、思春期の少年が「スゲー!」と感心するようなことを五十歳の男が言えるだろうか。何しろ向こうは一晩に三回オナニーしても平気なのだ。かなうわけがない。十代で作家デビューする人がいるが、十代は小説なんか書かないで、十代としてやることがいっぱいあるそういうことをちゃんとやっててほしい。それは全部ろくなことじゃないがろくなことじゃないから五十過ぎの人生の力となる。
But only love can break your heart.
Yes,only love can break your heart.
これはニール・ヤングの、そのとおりの Only love can break your heart という歌の歌詞だが、愛に心が揺さぶられるのも、愛に心が揺さぶられる歌に心が揺さぶられるのも、思春期があるからだ。愛のような、歌のような、小説、それを目指したわけじゃないが、そうなっていたらいい。
友達のアキちゃんは、分身や生まれ変わりのことばかり考えている。分身や生まれ変わりはあっても、いま私たちが使っている文章ではそれを捕らえられないだろう。と、これも書いているうちに考えた。「捕らえる」という言葉がすでに、自分と対象という二分法に乗っかった考え方で、それは捕らえるのでなく、並走するとか、掠めるとか、踊るというような感じだろう。
分身・生まれ変わり・永劫回帰・主体の入れ替わり……というようなことは、人生の思いもかけないときに起こっていたのかもしれない。起こっていたのに、「起こらない」とか「起こってほしい」という否定的な先入観で生きていたために、それを踊れなかったのかもしれない。
何はともあれ、私はこの小説を連載期間にして三年八ヵ月書きつづけた。ということは、三年八ヵ月はこの小説とともにいて私は飽きなかったそのわけは、今回の書く日々がとりわけ素振りの日々だったからだった。
ヤンキースにいた松井秀喜が昨年末の引退会見で、最も記憶に残ったことは「長嶋監督とした素振りの時間」と言ったその素振りと同じ意味で、この作品は素振りする日々のひと隅にあらわれた外から見える形で、この小説がおもしろいとしたら作品の向こうに素振りがあるからで、作品より素振りそれ自体が苦しみで楽しみで高揚だった。自然の前で、私は作品を書くより小説を素振りしつづけた。
この本の初版の日付、二〇一三年九月二四日はちょうどコンちゃんの一周忌だ。コンちゃんは本当に、どういう事情と経緯であんなボロボロの姿であらわれたのかと思う。
みんなにまた会いたい。 |