二〇一二年八月に札幌で「ラングラング」という地域の劇団というか演劇ワークショップに集まった人たちというか、そういう人たちが『ポンチョ・サンチェス』という芝居をやった。ワークショップの主宰者は山下澄人で、彼が主宰する劇団フィクションという劇団のメンバーもそれに出演していた。いちおうクレジットとしては、ラングラング公演『ポンチョ・サンチェス』、作・演出=山下澄人・ハタノユリエ、というようなことになるらしいが、山下澄人は二〇一〇年春と一一年秋に新百合ヶ丘でもワークショップ参加者と劇団フィクションのメンバーを一緒にして「ムトゥ/ワトゥ」というユニット名にして公演しているので、名前が何で、誰がワークショップ参加者で誰が劇団のメンバーなのか、よくわからない(この説明だけでもすでに間違っているかもしれない)。
私は〇八年にはじめて、山下澄人作・演出で劇団フィクションの公演を観て、すごい好きになってそれ以来ずうっと観ているが、なんかとにかくすごい。筋なんかほとんど何もなく、いわゆる「完成度」というのとは全然違うのだが、昨年八月に山下澄人のいまのところ最後の芝居を観て以来(というのは、劇団フィクションは解散か無期
限休止中らしい)、完成された芝居、動きがよく統制された芝居が、そのよくできたでき方ゆえにつまらなくてしょうがない。それはあれはいつだったか、去年だったか一昨年だったかに上映された『−×−(マイナスカケルマイナス)』という映画(監督=伊月肇)が予想もしない面白さで、私は「忙しいから」と言って一度断ったけどあわててこっちから頼んでパンフレットに書いた文章の中でも言っていることだ。「完成させる」「しっかり作る」ということが私には「違う」としか思えない。自分で小説を書いていると、完成させることにこだわらないことの怖さが身に染みてわかる。完成度さえあればなんとかなるような逃げというかアリバイというかそういうものがある。完成度というのはもっともっと高いレベルで必要なものであって、完成度といってもせいぜいこんなところだから完成度のことを批判したくなる、とかそういうことでは全然ない。ウェルメイドという安っぽい話ではいよいよ全然ない。
年末に野球選手を引退するという会見をした松井秀喜は、「野球人生で一番印象に残っていることは?」と訊かれて、「長嶋監督と二人だけで素振りをした時間」と答えた。新聞の記事によって多少書き方は違っているだろうけど、私は最初それをNHKの昼のニュースで聞いて、たしかこう答えた(が、言葉の表面の正確さはどうでもいい)。そして夕刊を見ると長嶋茂雄のコメントが「松井君の素振りが忘れられない」だった。
私の二〇一二年に一番印象に残っているのは、この二人が同時に「素振り」と言ったことだった、と言ってもいいかもしれない。二人は素振りで対話をした。素振りはただの練習ではなく、一流打者にとって独立した時間だ。私はいまだこの素振りが小説家にとって何なのかがわからないが、デビューしてあまり年月が経っていなかった頃に、小島信夫さんにゴダールの『映画史』の本を渡したとき、「このような本を読みながら小説のことをあれこれ考えたり、あなたと小説の話をしたりするのは、小説を書くのと同じことだ」という意味のハガキをもらったことを思い出す。
小説のことを考えることは小説を書くのと同じことだというのは、私も漠然とはそう考えていたが、はっきりそうだという言葉を聞いたのは、小島さんからがはじめてだった。ピアニストが一日じゅうピアノを弾き、トランペット奏者が一日じゅうトランペットを吹く、そうでない時間は唇を鍛える。これはもう練習ではない。僧が座禅をするようなものだ。
物事を外側からしか見ない人はその結果しか見ないし、知ることができないが、練習、日々の行為がほとんどすべてであり、試合とか公演とかコンサートとか作品とか、人前で人に見せる形あるものは日々の行為(時間)の結び目ぐらいのものでしかない。ここで日々の行為を指す言葉が、「練習」「トレーニング」「稽古」などしかないことが歯痒いと思っていたら、朝日新聞三月九日夕刊の「惜別」欄で、指揮者のウォルフガング・サバリッシュが書かれていて、指揮者の大野和士が「いつも朝からピアノの練習をなさっているんですね」と声をかけると、「練習じゃないよ。音楽をやって
るんだよ」とサバリッシュが答えたと書いてあった。
日々の行為はそれをつづける人にとって、もはや始まりも終わりもない。人に見える形あるものは、ずうっとつづいている時間の流れの中で、「よどみに浮かぶうたかた」のようなものだ。形でなく、志としてそっちに向いているものにしか私は最近興味がない。 |