Kが自分という現実を持ち出して反論したのに対して、村長はソルディーニ
の話をつづける。
「ソルディーニという男は、誰かにたいしてたとえちょっとした利点でも手中におさめると、それでもう勝利は、彼のものなのです。(以下略)」(138ペー
ジ)
と、村長はソルディーニが敵に回すとどれだけ怖い存在なのかと説明するのだが、
それはとにかく、わたしは、彼をこの眼で見ることはまだできないでいます。彼は、村へ降りてくることができないのです。(138ページ)
ソルディーニは一度も村に降りてきたことがないのだ! しかし、こう言ったあとも村長はソルディーニという人物を自分の目で何度も見てきたみたいに測量
師招聘の経緯をしゃべりつづける。
ソルディーニの部下の役人たちがやってきて、毎日縉紳館で村の有力者たちを尋問して調書をとった。そこでブルンスウィックという「頭がお粗末なうえに気
まぐれな空想屋」(140ページ)が問題になってくるのだが、「お城の娘」を妻に持つこの男のことは後回しにするとして、ブルンスウィックが測量師招聘の
賛成派として動き回ったために問題が紛糾することになった。
第二には、ブルンスウィックの頭のお粗末さと野心とのせいです。この男は伯爵府の役所といろいろ個人的なつながりを持っていましてな、彼一流の気まぐれな
空想力を発揮して、つぎつぎに新しい手を考えだしては、そういうコネのある人たちを動かしたのです。もちろん、ソルディーニは、ブルンスウィックの手には
乗せられませんでした。ソルディーニほどの人物が、どうしてブルンスウィックごとき男にだまされましょう。――しかしですな、だまされないためには、新た
な調査が必要だし、その調査が終わらないうちに、ブルンスウィックのほうは、またぞろつぎの新手を考えだしているという具合でした。(142ページ)
波線部は「お城の娘」を妻に持っていることと関係しているのだろう。ここでは後回しにする。
「もちろん」以下、村長はまずソルディーニその人を見てきたかのようにしゃべり、そして、ソルディーニがブルンスウィックの手に乗せられなかったと話す。
ここにある論法は、測量師招聘問題を小さな問題と言いつづけ、城の行政機関はミスを犯さないと言いつづけたのと同じものだ。村長は認めないだろうけれど、
村長が「ソルディーニほどの人物が、どうしてブルンスウィックごとき男にだまされましょう。」と言うからには、ソルディーニはブルンスウィックにだまされ
たのだ。
これはもう一度繰り返される。
あなたの場合、そういう決定がおこなわれたかどうかは、わたしにはわかりません。いろんな点から見て、おこなわれたとも考えられますし、おこなわれなかっ
たとも想像されます。かりにそういう決定がおこなわれたとすると、招聘状があなたのもとに送られ、あなたは、当地まで長途の旅をされ、そのために長い時日
が経過し、しかも、そのあいだソルディーニは、依然としておなじ問題にとり組んで、あげくのはてには精根も尽きはてるほど疲れきり、ブルンスウィックはブ
ルンスウィックで、つぎつぎに陰謀をたくらみ、わたしは、このふたりに悩まされつづけていたことでしょう。これは、そういう可能性もなかったわけではない
ということをちょっと申しあげただけですが、(144ページ)
前の引用は事実の否定で、否定が結果として反語法のような機能になるのだが、こっちの引用は事実の可能性化だ。
しかし、何がどうなろうが、事実がどうだったのかという真偽の決定は城に委ねられているのだ。
『城』に登場する村の人間の中で村長は唯一明るい人物だが、真偽の決定を城に委ねきる心境にあるからなのではないか。
城のくだす決定を理解しようとして、しかしそれが自分には理解できないという風に考えたら、その人は城の外にいることになる。それに対して、城のくだす
決定は自分たちには理解できないことなのだという前提に立って、城の決定をただただ信じることができるなら、その人は城の内にいることになる。
だから村長の説明は、この決定に関わるところでいよいよ明るく、屈託がなくなる。結局、前の二つの引用とこれから引用する部分を合わせて、ここでの村長
の長いしゃべりの中間部のほとんど全文を引用してしまうことになるのだが、135ページから137ページまでのくだりと合わせて最もおもしろいところなの
で、ここは省略するわけにはいかない。
ところで、いよいよわれわれの行政機構の特徴をお話する段になったようです。われわれの行政組織は、その精密さに比例してきわめて鋭敏にできています。た
とえばですね、ある問題が非常に長期にわたって検討されているような場合、検討がまだ終わってもいないのに、どこかある予測もつかない、あとからではもう
さぐりだすことができないような場所で不意に稲妻のように決定がくだされ、それがたいていは正しいのですが、それでも勝手にこの問題にけりをつけてしまう
というようなことが起りうるのです。たとえて言ってみれば、おそらくそれ自体としてはとるにも足りないおなじ問題に何年ものあいだ緊張させられ、刺激され
ることにしびれをきらして、行政組織自体が役人たちの助けなどを借りずに自分で決定をくだしてしまったのだと言いましょうかね。むろん、奇蹟[きせき]が
天から降ってきたわけじゃありません。いずれだれかある役人が決裁文書を作成したか、文書にしなくても、そういう決定をくだしたにちがいないのですが、ど
ちらにせよ、すくなくともわれわれこちらのほうから見ると、いや、役所から見てさえも、この場合決定をくだしたのはどの役人であるか、また、どういう理由
からであるかということは、どうにも確かめようがありません。(142〜143ページ)
組織とはこのようなものだからこそ、村長は自分の目で見たこともないソルディーニについて、彼の働くさまをわが目で見てきたような言い方をするのだろ
う。縉紳館で村の有力者たちを尋問した役人たちはソルディーニと同じと考えてもいるだろう。
オルガとの対話の中で、ソルティーニという消防を専門とする役人が話題にのぼるのだが、そのときオルガはこういうことを言う。
「ソルディーニは、よく知られています。いちばん仕事熱心なお役人のひとりで、よく評判になっていますわ。これに反して、ソルティーニのほうは、ひどく出
ぎらいで、たいていの人びとは知りません。…(略)…ソルティーニは、すこし消防問題にもたずさわっているとかで、ポンプの引渡しに立ち会ったのです(し
かし、ただ代理で来ただけだったのかもしれません。お役人たちは、たいてい代理をしあっています。だから、ひとりひとりの役人の管轄事項がよくつかめない
んです)。」(378ページ)
「この人について知られていることといえば、名前がソルディーニと似ているということぐらいですわ。名前がソルディーニと似ていなければ、たぶんだれにも
知られずにすんでいるところでしょう。消防の専門家だということも、たぶんソルディーニと混同されているのかもしれません。ほんとうは、ソルディーニのほ
うが専門家で、名前が似ていることをうまく隠れ蓑にしているのでしょう。」(395〜396ページ)
村長の話とオルガの話を合わせると、ソルディーニというのが特定の個人を指しているのかどうかわからなくなる。
村の人たちは、仕事をする役人のことをすべて「ソルディーニ」と呼んでいるのではないか? あるいは、役人が仕事をしている状態を「ソルディーニ」とい
う一人格に集約しているのではないか? と、そんなことまで想像してしまうのだが、これは私個人が楽しんでしている想像であって、ここまで読者に向かって
主張しようとは思わない。
村長の引用に戻って、傍線を引いた二カ所に私は、それこそ天を突き破るくらいの明るさを感じる。芝居や映画でこのくだりが演じられるとしたら、役者はこ
れ以上ない楽天的な軽さでこの台詞を言うだろう。『判決』で、いったんベッドに寝かされた父親が、息子に向かって、「嘘だ!」と叫んで、毛布を空中にぱっ
と広がるほどの勢いで蹴り上げて、すっくと立ち上がる瞬間も、不意の稲妻のような決断ぶりで、天を突き破るような明るさがあり、実際父親は片手を天井につ
いて身体を立たせている。
話の流れを一気にひっくり返したり、事が人間の手から離れるのを宣言したりする瞬間、カフカの筆致自体が稲妻となると感じるのは私だけだろうか?
私のこの感想がピント外れでないと仮定して、「カフカは悪魔的な書き手だった(書き手でもあった)」とドゥルーズ=ガタリだったか誰かが書いていたよう
なことを言うことも可能だけれど、その場合、システムや稲妻のように突然くだされる宣告に翻弄される立場にある人間のことをカフカはどう思っていたのかと
いう疑問が出てくる。ただ単純にシステムや宣告をくだす側にその瞬間のカフカが与[くみ]しているのだとしたら、フィクションの書き手として単純すぎると
いうことになる。
『シナの長城』や遺稿中の断片としてはかなり長い『穴巣』など、カフカは構造に魅了されている。構造フェチ∞システム・フェチ≠ニ言ってもいいくらい
の側面がカフカには確かにあり、それが村長のしゃべり全体に反映しているわけだが、それを書きつづける途中で稲妻のように襲いかかるカフカの明るさを、翻
弄される側への配慮なしに称揚してしまったら、「優れた者が劣った者を支配することのどこが悪い」という独善的で幼稚な理屈との違いを見つけにくくなって
しまうのだが、私はカフカには独善的で幼稚な心性は感じない。
その違いがどこにあるのか? しかし私はいまのところわかっていない。これは「『城』ノート」全体の課題として残しておくしかないのだが、こういうとき
私はフロイトの、
「しかしそれを問題にすると、尻込みしたくなるような新たな難問が出てくる。しかし尻込みしても始まらないのであり、それがわれわれの試みが不十分なもの
であることを露呈するおそれがあっても、あえて試みねばなるまい。」(『自我とエス』中山元訳)
という言葉を思い出す(これは私の『小説の誕生』のまえがきにも引用した言葉で、原訳文では一つ目の「それ」には本当は「系統発生」という言葉が入って
いる)。
そしてそれ以上に『聖書』を読むアウグスティヌスのことを考える。私のポジションがアウグスティヌスなのか村長なのか? 私のポジションが村長だった
ら、『城』もまた城の行政機関と同じことになりかねない。しかしアウグスティヌスならば、この課題に対する答えを見出したときにカフカの稲妻のような明る
さ、点を突き抜けるような明るさがいっそう作品を活気づけることだろう。
さて、測量師招聘問題は「最近」(144ページ)解決した。しかしKが村に来てしまったことで問題再燃となった。村長の言ではこうだ。
「なにしろ、問題がすべてめでたく決着し、しかも、それ以来またも相当な歳月がたったいまになってですよ、突然あなたが登場してきて、」(145ページ)
問題が解決したのが、「最近」なのか「相当な歳月がたった」頃なのか、真実はわからない。
問題解決直後の心情を、村長はこう言っている。
これで、新しい仕事がいつものように四方八方からまたぞろ押し寄せてくるのでなかったら、また、あなたの事件がほんの些細な事件――実際、最も些細な事件
のなかでも最も小さなものだと言ってもいいくらいなのですが――とにかく、ほんの些細な事件にすぎぬというのでなかったならば、われわれの一同はやれやれ
と安堵の息をついたことでしょう。(144〜145ページ)
傍線部を注意して読んでほしい。
じつは私は今回あらためて読み直すまで意味を取り違えていた。否定がいくつも入っている文というのは意味を正確にとるのが難しく、「些細な」もまた意味
として否定の含みがあるのでいっそう混乱するのだが、ここで村長は「些細な事件だった」と言っているのか、「些細な事件ではなかった」と言っているのか?
「ほんの些細な事件にすぎぬというのであったならば、われわれ一同は、やれやれと……」
と、言葉を否定から肯定に換えてみると村長の言っている意味(の反転)がはっきりする。村長は「些細な事件」を否定してしまっているのだ。
前に出したように最後に村長は「あなたの招聘問題はずいぶん厄介な問題で」(153ページ)と言ってしまうわけだが、この部分だけでは、じつは「事件が
重大であるかどうかは、それに要する仕事の多寡によってきまるものではありません」(139ページ)という理由によって、「厄介」が意味しているのが「仕
事の多さ」ということにもなりかねないのだが、ここの言い間違いによって、「厄介」が「重大」を意味することが確定される。――しかし、村長が「ほんの些
細な事件にすぎぬというのでなかった」と言おうが、「ずいぶん厄介な問題」と言おうが、問題の軽重は城の行政機関の決定がくだされないかぎりは決定しな
い。それゆえ村長はこうして平然と一線を越えていくことができたのだ。
村長の操る論法やレトリックはこの後にあるクラム長官の手紙の読解も含めて、一通り書けたのではないかと思う。
前回書いたように、『城』において、一人一人の登場人物は前提として極力場面を引き延ばすという使命を帯びて登場する。これが『城』の特徴の一つ目であ
り、もう一つの特徴は、全体を貫く物語としての筋はないが、それぞれの場面は決して単独に完結しているわけではなく、触手を伸ばすように関連していること
だ。
ソルディーニは村長の話に出るだけでなく、オルガの話にも出てくる。というこの繋がりが『城』の初読や再読ぐらいでは見えてこない。そういう人物とし
て、この章ではもう一人、ブルンスウィックがいる。カフカはシナの長城≠分割工事方式で建設したように、あっちで少し、こっちで少しという風にして何
かを作り上げようとしているのだ。
ブルンスウィックは測量師招聘問題が持ち上がったときに村会で、招聘賛成派として立ち回った。
「わたしたちの村のちっぽけな農地の境界線は、杭で仕切りがしてある」(124ページ)と、村長が言うように測量師招聘は村の住人の農地に関わる。
村に到着した直後、宿屋(橋屋)の食堂で、「百姓たちは、静かにしていた。」(9ページ)とあり、二日目にクラム長官からの手紙を読んだあとも、「Kが
食堂にあらわれるやいなや、百姓たちは、立ちあがって、彼のほうに近づいてきた。」(55ページ)とあるように、村の住人は大半が百姓なのだろう(八〇年
代以降だったら「農夫」と訳していただろうが、本訳書では「百姓」となっているのでこのまま使う)。村長も「わたしは、根が百姓でしてな、いつまでも百姓
から抜けきることができません。」(126ページ)と言っている。
しかし不思議なことに『城』には百姓らしき登場人物が一人も描かれていない。宿屋の食堂にいる人々のことは確かに「百姓」と書かれていて、これは地の文
ではあるのだが、『城』の語りは事実としてそうなのかKの判断としてそうなのか(つまり客観的≠ノそうなのか主観的≠ノそう見えているだけなのか、と
いうことなのだが、私は客観・主観という言葉を軽々しく使いたくないのだ。ちなみに、映画用語ではKの見る視界の映像を「Kの主観」と言ったりするのだ
が、こういう客観・主観は本来の意味からずれている)明快な線引きはできないようになっている。
だから、『城』がもっと先まで書かれた場合、「百姓」と書かれていた人たちが全員百姓ではなかったという大ドンデン返しが待っている可能性がまったくな
いとは言えない。村長にしても「抜けきることができません」と言っているのだからすでに畑仕事はやっていないのだろう。
そのような憶測はともかく、ブルンスウィックは靴屋だ。義兄弟のラーゼマンは皮屋(なめし皮屋)だ。兼業農家という可能性を除外すれば(しかしその根拠
もまたないのだが)、ブルンスウィックは百姓ではない。ということは測量師招聘に関わる農地問題に対して利害関係がないということになる。
世の中には、自分に利害関係がないことには無関心でいる人がいる一方で、自分に利害が及ばないと思うと積極的に口を出して話を混乱させる人がいる。
「ブルンスウィックは、まったく無定見なお天気屋でして、これは、彼のばかさかげんのひとつなんですよ。」(142ページ)
という村長の言葉を信じるなら、ブルンスウィックは後者の典型ということになる。しかし村長が逆のことばかりしゃべっていることを考慮に入れると、ブル
ンスウィックこそが測量師招聘と農地の測量に定見のあることを村会で主張した可能性が浮上してくるのだが、そのような裏の事情はここではまだ明らかにされ
ないし、『城』全体を通じても明らかにされないまま終わる。――しかし、長城建設と同じ分割工事方式のこの作品では、思いがけないところで思いがけないこ
とへの言及があり、城と電話で話すときに電話の向こうから聞こえてくる歌声やざわめきにこそ信頼に値する情報があるように、読者としての私の注意から洩れ
ていた場所にブルンスウィックに関係する何かが書かれていないと私に保証することはできない……。それゆえ私はまた『城』を読まねばならないという気持ち
に駆られることになる。
そのようなまだ明らかにされていない事情はともかくとして、村長の話を聞いてKはブルンスウィックを自分の味方と考えることになる。しかもブルンス
ウィックの妻は「お城の娘」だ。
ブルンスウィックに関わる話が進展するのは第十三章での、ハンス・ブルンスウィック少年との対話だ。しかし、その話をはじめると長くなるのでいまは第一
章でのブルンスウィックとの出会いの場面だけ確認しておくことにする。
二日目の朝、城を目指して村の道を歩きはじめたKは、前述の城から遠ざかりもしなければ近づきもしない村の構造と道に積もった雪の深さに難渋して一軒の
家で休ませてもらうことになる。その家の中の大きな木の盥[たらい]で風呂に入っていた二人の男がブルンスウィックとその義兄弟のラーゼマンで、その部屋
の隅の安楽椅子に疲れきった様子で身を横たえるようにしてすわり、乳飲児[ちのみご]を胸にかかえていたのがブルンスウィックの妻の「お城の娘」だ。会話
中に「測量師さん」という言葉が出てくるが、この家に入ったときにKはすでに「わたしは、伯爵さまの測量師です」と自己紹介している。
男たちは、すでに入浴をすませ、服をつけてKのまえに立っていた(風呂のなかでは、いま子供たちがブロンドの女の監視下にはしゃぎまわっていた)。どなり
ちらすことの好きな頬ひげの男は、ふたりのうちでは地位が低いことがわかった。もう一方の、背たけは頬ひげの男とおなじくらいで、ずっとひげのすくない男
は、もの静かな、じっくりものを考える人物であった。体格はりっぱで、顔も堂々としていた。彼は、頭をうなだれたまま言った。
「測量師さん、あなたは、ここにいてもらうわけにはいきません。どうかご無礼をお許しください」(ラーゼマン)
「こちらも、長くお邪魔をしているつもりはなかったのです。ただ、しばらく休ませていただきたかっただけです。これで十分休ませていただきましたから、出
かけることにしましょう」
男は、言った。「おもてなしできなかったことを、たぶん怪訝[けげん]におもっていらっしゃることでしょう。ですが、わたしどものところじゃ、お客をも
てなす習慣がないのです。お客を必要としませんのでな」(ラーゼマン)
眠ったためにいくらか元気になり、耳も先刻よりもよく聞きわけられるようになっていたので、Kは、この率直な言葉をうれしく思った。身の動きも、軽くな
り、ステッキをあちらについたり、こちらについたりし、安楽椅子の女のほうに近づいたりした。おまけに、部屋じゅうで、彼がいちばん背が高かった。
「そうでしょうとも」と、Kは言った。「あなたがたがどうしてお客を必要となさることがありましょう。しかし、時と場合によっては、お客が必要なこともあ
るものですよ――たとえば、わたしのような測量師がね」
「それは、わたしの知ったことじゃありません」と、男は、ゆっくりと答えた。「あなたが呼ばれてきたのであれば、たぶんあなたが必要なのでしょう。それ
は、おそらく例外というやつです。しかし、われわれのような身分の低い人間は、あくまで規則を守っていかなくてはなりません。どうか悪くとらないでくださ
い」(ラーゼマン)
「とんでもありません。こちらは、あなたにお礼を申しあげなくてはならないだけです――あなたにも、ここにおいでのみなさんにも」
そういうと、だれも予期しなかったことだが、Kは、くるりと身をひるがえして、安楽椅子の女のまえに立っていた。女は、疲れた青い眼でKをじっと見つめ
た。頭にかぶった、すきとおった絹の布が、額のまんなかあたりまで垂れさがっていた。赤ん坊は、胸によりそって眠っていた。「あんたは、だれかね」とKは
たずねた。女は、軽蔑[けいべつ]したように――もっとも、その軽蔑がKにむけられたものか、それとも、自分の言葉にむけられたものであるかは、さだかで
はなかったけれども――答えた。「お城の娘です」
これは、ほんの一瞬の出来事だったが、そのときすでにKは、ふたりの男に左右からとらえられ、こうするよりほかにわからせる手がないとでもいわんばかり
に、無言のまま、しかし力まかせに戸口のほうへ引っぱっていかれた。それを見て、老人は、なにがおかしいのか、手をたたいて喜んだ。突然気が狂ったように
騒ぎだした子供たちのそばにいた洗濯女も、声をたてて笑った。
Kは、しかし、まもなく通りに立っていた。男たちは、敷居のところから様子をうかがっていた。またもや雪が降っていたが、それでも、さっきよりは明るく
なった感じだった。頬ひげの男が、たまりかねたように叫んだ。「どこへ行くんだね。こっちは、城へ行く道だ。あっちへ行くと、村に出る」(ブルンスウィッ
ク)
Kは、それには答えないで、お高くとまってはいるが話の通じそうなもうひとりの男にむかって、「あなたは、なんとおっしゃるのですか。お邪魔させていた
だいたお礼は、どなたに言ったらいいんですか」
「おれは、皮屋のラーゼマンさ。だが、だれにも礼を言うことなんかありはしませんぜ」
「ありがとう」Kは、言った。「そのうちまたお会いできるかもしれませんね」
「そんなことはあるまいよ」
そのとき、頬ひげが、片手をあげて叫んだ。「よう、アルトゥール、こんちは。イェレミーアス、こんちは!」
Kは、ふりむいた。してみると、こんな村のこんな道でも人間が歩いていることもあるんだな! 城の方角から、中ぐらいの背たけの若いふたりの男がやって
きた。ふたりとも、ひどくやせっぽちで、ぴったりとした服をつけそれに、顔まで瓜[うり]ふたつであった。顔の色も、暗褐色で、そのくせ、とがった口ひげ
だけがいやに黒くて、顔の色と対照をなしていた。彼らは、このひどい雪道にもかかわらず、おどろくほど足が早く、歩調をあわせて細身の脚をまえにすすめ
た。
「どうしたのだね」
頬ひげが叫んだ。大声をはりあげでもしなければ、話が通じないのである。ふたりは、それほど早足で歩きつづけて、立ちどまろうともしなかった。
「仕事だよ!」ふたりは、笑いながら大声で答えた。
「どこでだ」
「宿屋さ」
Kは、だしぬけにだれにも負けないくらい大きな声でどなった。「おれも、宿屋へいくんだ!」
いっしょにつれていってもらいたいと考えたのである。彼らと知り合いになったところで、さして得になることもないようにおもえたが、道づれとしては、親
切で、自分を元気づけてくれるにちがいなかった。ふたりは、Kの言葉を耳にとめたが、うなずいただけで、そのまま行きすぎてしまった。(30〜34ペー
ジ)
長い引用になってしまったが、この部分の展開の鮮やかさに私は目を奪われる。第一章のこの早い段階でKを除く人物は全員初登場だから読んでいてもちゃん
と頭に入らないのだが、ブルンスウィック、ラーゼマン、「お城の娘」、アルトゥールとイェレミーアスの二人組つまり助手という人物たちがどういう人なのか
いちおう記憶したいま、ここをあらためて読むと展開が速いことに驚く。
助手の二人組についての感想はひじょうに予言的だ。これとほとんど同じ意味のことがいずれイェレミーアスの口から語られることになる。「予言的」である
ということはカフカが先の先まで計算して書いているという想像を生みかねないがそういうことではない。いまはまだそれについて語るには材料が少なすぎるた
めに適切な言葉がないのだが、この作品には時間が流れていないのだ。人は経験したり事件に出会ったりすることによって、考え方が変わったりある人について
の評価が変わったりするものだが、この作品ではそういう意味での時間が流れていないのだ。前回の「所要時間」ということにからめるなら、読者は読むという
行為にかかる時間を痛感するが、その作品の中にはいわゆる時間は流れていない。このどちらも小説として特異な時間との関係だ。
ブルンスウィックに戻って、ブルンスウィックもラーゼマンも測量師に対してまったく好意を示していない。しかし村長との対話を通じてKはブルンスウィッ
クを自分の味方と考えてしまうことになった。それが第十三章でのハンス・ブルンスウィック少年との対話の前提となる。
最後に、第五章の冒頭、村長との会談に向かう途中でKが伯爵府のことをいろいろと考えながら、
「しかも、まさかここまでは統一がおよんでいまいとおもわれるようなところにこそ、かえってとくに完璧な統一が支配していると感じさせるものさえあったの
である。」(120〜121ページ)
と考える箇所がある。これは、明らかに、
「監視機関はあるかとのおたずねですが、じつは、あるのは監視機関ばかりなのです」(136ページ)
という村長の論法だ。先取りというかフライングというか、Kはこういう風な考え方をするキャラクターではないはずだ。これをどう考えればいいか? これ
は作品の瑕疵[かし]、つまりキズではないのか?
キズといえばキズなんだろうと私は思う。しかしカフカの小説の特徴を考えてみるとわかる。カフカの小説では出来事は前ぶれなく突然に起こる。
ふつう小説では読者は主人公に思い入れして、主人公と同じ心境になって事に対処するわけだが(といっても読者は読んでいるだけだが)、そのような読書が
可能なのは、出来事に前ぶれや伏線があり、出来事が順を追って進展するからだ。それに対してカフカの主人公と読書にはそのような心の準備が与えられない。
というか、そういう心の状態と縁がない。出来事は突然起こるか起きたともいえないような起き方をするか。つまりその予測不可能性というか、読者の心情を小
説の流れに加担させないところがカフカの他に類を見ない特徴であって、それがこの第五章の冒頭部で顔をのぞかせたのだ。
さきほどの「予言的」というのとも通じるのだが、カフカは思いついたらそれを時間的猶予を置かずに書いてしまう小説家だったのではないかと思うのだ。
偉大な小説家がそんな衝動に任せるような書き方をするはずがない?
小島信夫もそうだ。特に初期作品でそれが顕著で、小島信夫の小説の、読みながらつねに足が取られる感じというのは、事の予測不可能性に原因がある。不思
議なもので、小説を予測不可能にするには書き手が事前に計算していないことを思いつきで書くのが一番なのだ。まるでプロの小説家の話でなく、子どもの作文
のような話に聞こえるかもしれないが、計算されたものには計算されたものとしての限界がある。だいたいカフカを(小島信夫も)まっとうな小説作法によって
測ろうとすることが間違っている。
それからもう一つ。村長はこれっきり登場しない。このように魅力的なキャラクターが一度しか登場しないのは残念きわまりないが、しかしじつは第十八章に
登場する秘書のビュルゲルに姿を替えて再登場したと考えることもできる。外見は似ていないけれど、芝居や映画にするなら同じ役者でやった方がおもしろいん
じゃないかと思うくらいだ。次回はそのビュルゲルの論法をみてみようと思う。
もう一つ付け足しだが、前回、「永遠の測量師」という問題があった。その後マックス・ブロート編集による『城』の英訳(Willa and
Edwin Muir訳、Schocken
Books刊)を入手したら、「永遠」に相当するeverlastingという単語が使われていた。ブロートがこの一語を書き加えてしまったということな
のだろう。
(つづく)
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