◆◇◆小説をめぐって(35)◆◇◆
カフカ『城』ノート(2)中編
「新潮」2008年1月号


 

 話は逸れるが、この「お城の娘」というのはたぶん城と村との関係を語るうえで大きなことなのだが、『城』ではそのことについては話は展開しない。「お城の娘です」と答えたときの軽蔑も、それを知らないKに対してと限定されているわけではなく、

女は、軽蔑したように――もっとも、その軽蔑がKにむけられたものか、それとも自分の言葉に向けられたものであるかは、さだかでなかったけれども――答えた。「お城の娘です」(31ページ)

 となっているくらいで、ここの一節だけでも「お城の娘」が厄介な存在であることがにおわされている。
 しかし、このこと以外にも積み残しの事柄が『城』にはいろいろある。本当に『城』が完成していたら、『城』は遺された原稿の二倍か三倍くらいにならなければならなかったのではないかと思う。
 そんなことが可能だったか?
『城』の二倍三倍の長さの小説はいくらでもある。しかしドストエフスキーやトルストイには太い物語の流れがある。『失われた時を求めて』には作者の実際の経験が投入されている。そのどちらでもない『城』をこの二倍ないし三倍まで書きつづけるのが大変であることは否定できない。しかし、たしかに大変なことではあるけれど、ムージルの『特性のない男』はそういう大変なことが可能であることの証明と言えるのではないかと思う。
 カフカは『城』のほかには『失踪者(アメリカ)』と『審判』しか長いものを書いたことがなく、そのどちらの長さもたいした長さではないけれど、ムージルだって『特性のない男』のほかには長篇は書いていない。それなのに『特性のない男』は『戦争と平和』よりも長く、『失われた時を求めて』の四分の三くらいの長さがある。結局それでも『特性のない男』は完成していないのだが、とにかくそれ以前にひとつも長篇を書いたことがなかったとしても、『戦争と平和』よりも長大な小説を書くことは小説家には可能なのだから、完成まで書かれた『城』が私たちの知っている『城』の二倍三倍になったとしても不思議ではない。
 つまり何が言いたいのかと言うと、「お城の娘」のように感性まで書いていたら展開されていた可能性があるのに、話題の提示だけに終わってしまったことが『城』にはいくつもあるということで、それは意味深なほのめかしのつもりで書かれたわけではないといういうことだ。
 少なくとも遺された『城』ではKは城の中に一歩も足を踏み入れられないまま終わってしまうけれど、村と城とが行き来不可能なわけでは全然なく、使者のバルナバスは城の官房に出入りできているわけだし、助手の二人も城から来た(城の役人や従者たちも当然村に来てはいるけれど、彼らの居場所は縉紳館に限定されているので、バルナバスや助手と同列には扱えない)。
「お城の娘」もまたそのような村と城との行き来の要素であり、それが小さくない役割を果たさないはずがない。「お城の娘」という言葉をとりあえず書いておいただけでなく、いずれ展開させるつもりがあったのだろうことは、村長との対話のこの箇所でわざわざ書いたことでも証明されているだろうし、第十三章のハンス・ブルンスウィック少年との対話でもう一度出てくるところでいよいよ確かになる。ハンス少年との対話でKは、あさってハンスの母親つまり「お城の娘」と会うと約束しているのだ。しかし『城』はそのあさってに相当する日の一日前の夕方か夜で終わってしまう。
 前回私はどこかで読んだうろ憶えの記憶をもとに、『城』の中で経過する日数を「七日間らしい」と書いたが、六日目の夕方か夜までではないかと思う。途中二度徹夜かそれにちかい状態が入るからいよいよ計算が込み入って、カフカ自身よくわからなくなっているように思えるのだが、馬鹿みたいに真面目にチェックしていくと――「馬鹿みたい」どころか「馬鹿」でこんなことは本当にどうでもいいし、もしかすると計算することによって私は何かを読みそびれているのかもしれないのだが――六日目ではないかと思う。

 さて、もう本当に本題に戻らなくてはならない。測量師招聘問題の経緯だ。
 ここで村長は、ゼノンの「アキレスと亀」のような論法を用いる。というよりも、村長はそういう論法の中に生きていると言った方がいい。
「アキレスと亀」というのはこういう論法だ。アキレスはどんなに足が速くても亀に追いつくことができない。なぜなら、アキレスが亀に追いつくためには、アキレスがスタートしたときに亀がいた地点Aをアキレスは通らなければならない。アキレスがA地点に到達したとき亀もまた少し進んでB地点まで来ている。A地点を通過したアキレスはB地点に到達するが、アキレスがB地点に到達したときには亀もまた前進してC地点に来ている。このようにして、アキレスはいつまでたっても亀に追いつくことができない。
 私はゼノンのこの論法を少しもおもしろいとは思わない。ボルヘスはカフカの小説をゼノンの論法と同じ思考法と見なして、それゆえおもしろいと書く。カフカの小説をゼノンの論法と同じとみなすかぎりにおいて「ボルヘスは馬鹿だ」と思うのだが、村長の論法はたしかにゼノンに似ている。しかし村長の論法はゼノンと似て非なるものではないのか。(しかし、ゼノンが本当に言っていることがこれから書くようなことなのだとしたら、私は自分のゼノン嫌いも撤回しなければならない。)
 人は物事を外から見てしまう癖がある。ここでは城の行政機構ということだが、その行政機構を課の単位まで分けると、課は城よりも小さいと当然思う。しかしそれは物事がしっかりとその外と内との境界が引けて、境界の内側を実体と思う思考法から生まれる錯覚にすぎない。どのひとつの課の動きをとっても「ここまで」と境界を引けるようなはっきりした領域はない。課の外に立たずにその内側にいれば一つの案件だけでも膨大な広がりを持つ。その広がりの果てる地点(境界)を内側から見ることはできない。最近でいえば社会保険庁の年金問題がわかりやすいが、こういうわかりやすい問題が出てくると、『城』が本当にその文脈だけで読めてしまうために、そう読むことによって『城』はただアレゴリーとしてだけの小説になってしまって、『城』は私たちから遠ざかることになる。
 言い方を換えると、〈カフカ全作品〉と『城』を比べると誰でもふつうに、〈カフカ全作品〉の方が大きいと思う。しかしそれは物事が実体を持つと思い込んでいる錯覚であって、『城』だけだって、〈カフカ全作品〉と同じだけ言い尽くすことができない。
 次に『城』の中の一章、村長との対話の章だけを取ってみる。ここでも人はまた村長との対話の章は『城』よりも小さいと思うのだが、村長との対話の章だけでも言い尽くすことができない。私はいずれ村長との対話の章を切り上げるだろうが、それは言い尽くしたからではなく、私としていっぱいいっぱいになったり、疲れたり、うんざりした状態になるからだ。
 ゼノンの「アキレスと亀」の論法のイメージの致命的な欠点は、論者がアキレスと亀を外から見ていることだ。現実の世界では、人は必ずアキレスか亀のどちらか一方を生きることしかできずしかもアキレスは〈アキレスと思われる人〉にすぎず、亀も〈亀と思われるもの〉にすぎない。だから自分をどれだけアキレスだと思って亀を追いかけても、亀は亀ではないかもしれない。あるいはまた、その亀が本当に亀だとしても自分が追いかけている亀にかぎっていわゆる亀であるという保証はどこにもない。それが確かに亀だったと言えるのは、アキレスである自分が亀を実際に追い越すという行為が完了した時点で、過去形となった出来事の外に立つことがときの話だ。
 ゼノンの論法の場合、事象と言葉は別々のものとしてあり、「言葉をもてあそぶ」という感じがどうしても私には払拭できないのだが、カフカの場合には言葉と独立に存在する事象は期待できない。
 ところがそうなると今度は、「世界(現実)とは言葉だけであり、言葉を離れた事象などない。私たちの心に映ることがすべてなのだ」というような、唯我論的で唯言論的なつまらないことを主張する人がいっぱいいるのだが、カフカの場合は事態はもっとずっと深刻だ――しかし、だからと言ってカフカの小説を深刻ぶって読む必要はないのだが――。たんなる唯我論や唯言論でなく、カフカの言葉と現実の関係が本当に深刻だということはいまここで力説しても意味がない。私はここで量子力学の観測問題を例に挙げてもっともらしい説明をすることもできるけれど、それもまたカフカとの関係では比喩でしかなく、カフカそのものの説明にはならない。私が書くこと全体を通じて理解されるしかなく、そのために私は書くしかない。

 まず、「村長になってやっと二、三カ月目のころ」(126ページ)に「一通の訓令」(同)が城から届いた。そこに「測量師をひとり召しかかえるように、そして、村では測量師の仕事に必要なあらゆる図面や文書を用意しておかねばならぬ」(同)と書いてあった。
 そこで村長は妻のミッツィに言って、戸棚の中にあるはずの訓令書を捜させるが、見つからない。ミッツィと途中から手伝いに入る助手二人組は対話のあいだじゅう戸棚と書類をめぐるドタバタを演じる。村長は「大事なものは、納屋にしまってありますが」(127ページ)と、戸棚に入れた訓令書=測量師招聘が大事でないことを確認するのを忘れないが、「表紙の〈測量師〉という字の下に青い線を引いてある書類」(同)と、しっかり憶えている。
 そこまで憶えているのにしまった場所がわからないということが不自然だというのは当たらない。そういうことは私は自分の部屋でしょっちゅう経験している。しかし、ミッツィと助手二人組の捜し方をみていれば村長に訓令書を見つける気がないことはわかる。戸棚になければ納屋を捜さなければならないわけだが、見つける気のない村長はそこまでする気はまったくない。なぜなら、「さしあたり経緯だけなら、書類なんかなくったってお話できます」(131ページ)と、村長は訓令書の外観だけでなく中身までしっかり記憶しているからだ。
 ここで村長の関心は書類の中身でなく、書類の動きにある。書類にまつわる状況と言った方がいいだろうか。
 対話の後半で、Kは村長にクラム長官からの手紙を見せる。すると村長は、
「この手紙は、およそ公文書というものではなく、私信にすぎません。」(148ページ)
 と言うのだが、そうなると「とどのつまりは、なにも書いてない白紙の上に署名だけが残ったということになりますな。」(149ページ)とKが言い返したのに対して、
「むしろ、その反対です。言うまでもなく、クラムの私信は、公文書なんかよりずっと大きな価値があります。」(同)
 と答える。
 あるいは、Kが城の下級執事と電話で話したと言うと、
「城内でたえまなしにかけているこの電話の声は、村の電話で聞くと、なにかざわめきの声や歌ごえのようにきこえるのです。…(略)…ところが、このざわめきと歌ごえこそ、村の電話がわれわれに伝えてくれる唯一の正しいもの、信頼するに値するものでしてね。」(150〜151ページ)
 と答える。それにまたKが反論すると村長は、
「そうじゃないのです」…(略)…「ほんとうに重要なのは、じつはそういう電話での返事なのですよ。城の役人からあたえられた知らせが無意味だなんてことが、どうしてありましょう。」(152ページ)
 と答える。
 あなたが注意するところに意味はない。しかし必ず意味はある。意味はあなたの注意がおよばないところにある。
 と村長は言っているのだ。村長はその理由をKが「よそ者」だからだと言う。村長だけでなく、橋屋のお内儀もバルナバスの姉のオルガも、自分たちが語って聞かせる話をKが理解できない理由はよそ者だからだとしている。その「よそ者」というのを真に受けてしまうと、「故郷を持たないユダヤ民族の苦悩」とか「アイデンティティを失った現代人の苦悩」という解釈になるわけだが、では村長たちは本当にわかっていると言えるのか。彼らの言うことが城をわかっているとは読んでいてとても思えない。城の役人も含めて、誰ひとりとして城のことをわかっていない。城から発せられる言葉の意味もわかっていない。『城』とはそういう小説なのだ。

 さて、測量師は必要ないという返事を村長は城に送った。しかしその書類は本来のA課には戻らずに、B課に届いてしまった。しかもその書類は中身のない封筒だけだった。
「書類の中身がわれわれのところに残されたままになっていたのか、あるいは、途中で紛失してしまったのかはわかりませんが――あちらの課で紛失したのでないことだけは確かで、これは、わたしが保証します――」(131ページ)
 村長は嘘は言わない。少なくともそう読んでちゃんと辻褄が合う。では村長は何を根拠に「あちらの課で紛失したものでないことだけは確か」などと保証するのか? それが村長にとっての城であり、城がミスを犯さないことが村長の住む世界の掟だからだ。
 ところが、実際には城はミスを犯す。しかし前述したように、城がミスを犯すことがあるとしても小さな問題にかぎられると、村長はすでに説明している。だから――そんなことまでは村長は言っていないが――書類の中身が万が一城のどこかで紛失したのだとしたら、それはとりもなおさずその書類にまつわる案件が小さな問題であったということを証明していることになる。
 書類の動きについて村長はこう言う。
「書類というものは、規則どおりに正しい道順をたどっていきますと、おそくとも一日後にはめざす課にとどき、その日のうちに片がつきますが、いったん道をまちがえると――そして、役所の組織がすぐれておればおるほど、書類は、そのまちがった道を文字どおり必死になってさがしつづけなくてはならないものです。」(132ページ)
 つまり、書類の行方がわからなくなることがすぐれた組織の証明となる。それを解決するのに手間取れば手間取るほどその組織がすぐれていることが証明される。村長の〈城観〉はどこにも矛盾はない。
 ルイス・ブニュエルの『銀河』という映画だったと思うが、こういうシーンがあった。レストランの店長が二言目には『聖書』の言葉を引用して従業員を諭す。それをうるさがった従業員が、
「あんたはよるとさわると『聖書』にこう書いてあると言うけど、『聖書』が正しいということはいったい何に書いてあんだ?」
 と言い返すと、
「それも『聖書』に書いてある。」
 と店長が答えるのだ。
 実際それと同じ立場でアウグスティヌスは『聖書』を読む。そして前回も書いたように、私もまたアウグスティヌスにならって『城』を読む。その意味では、ブニュエルの店長も『城』の村長も全員一緒だ。
 では村長とアウグスティヌスはどこが違うか? それはいずれわかるが、いまは立場としては同じだということだけを確認しておきたい。
 村長はここでは戯画化されていて、しゃべることは針小棒大で話半分に聞いておいた方がいいような印象を与えるが、村長は自分がそれを信じることが宿命となっている城を、城たらしめるためにしゃべっているのだ。何かのパロディと受け取る人もいるかもしれないが、そんな軽いものではないし、パロディという風に解釈してしまったらその途端に実像が対置され、ある正しさやある深刻さを前提とした二分法が生まれてしまうことになる。

 書類が行方不明になったことで連絡係のソルディーニという役人が登場する。
『城』で名前が出てくる役人は、このソルディーニとクラム長官とオルガの話に出てくる消防に精通したソルティーニと、助手をクラム長官の代理で派遣したガーラターと、秘書のビュルゲルの上司にあたるフリードリヒの五人だけで、ガーラターとフリードリヒは名前しか出ない。前回話題にしたKと城との電話でKが会話したオスワルトは執事だし、他も秘書ばかりで、ソルディーニが「下っぱ」(132ページ)と言っても役人であるかぎりはきっとかなり偉い。役人はすべて城を体現している。というか、役人こそが城だと言っていい。
 たとえばソルディーニはどんな人間も信用しない。「たとえば、なんどもそういう機会があって信用のおける人間だということがわかっていても、つぎの機会には、まるで知らない相手であるかのように」(134ページ)信用しない。
 これは一見、わりとふつうの記述のように読めてしまうが、ここに書かれているのはカフカに固有の言葉の使用法というか、言葉と世界との関係だ。たとえば、二日目の朝Kは城を目指して村の道を歩いてゆくのだが、村はこう記述される。

しかし、道は、長かった。彼の歩いている道は、村の本道なのだが、城山には通じていなかった。ただ近づいていくだけで、近づいたかとおもうと、まるでわざとのように、まがってしまうのだった。そして、城から遠ざかるわけではなかったが、それ以上近づきもしないのだ。…(略)…それに、はてしなくつづく村の長さにもおどろかされた。(26ページ)

 引用の三つ目の文が曲者だ。四つ目の文と省略をはさんだ最後の文だけでは村が城を円環状に取り巻いているように想像できなくもないが、三つ目の文で一度「近づいていく」とちゃんと書いてある。つまり、このくだりは具体的なイメージを持とうとしても持てない文章になっているのだ。
 土地(空間)の説明をしているのだから読者は言葉が空間を指し示していると漫然とした思い込みを持って読む。しかしそこに書かれたカフカの言葉からは具体的な空間は構成されない。
 もっとわかりやすい例は村長と助手の外見を書いたこのくだりだ。

Kは、ぶっきらぼうに言うと、助手から村長のほうへ、それからまた助手たちのほうへ視線を走らせたが、三人とも微笑をうかべたところは、区別がつかないほどよく似ていた。(129ページ)

 助手の二人組はどういう外見だったか?
「ふたりとも、ひどくやせっぽちで、ぴったりとした服をつけ、それに、顔まで瓜ふたつであった。顔の色も、暗褐色で、そのくせ、とがった口ひげだけがいやに黒くて、顔の色と対照をなしていた。」(33ページ)
 では村長は?
「村長は、親切な、よくふとった、ひげをきれいに剃った男であった」(123ページ)
 この両者がどう微笑すれば、区別がつかないほどよく似ることができるのか? そんなことがどうすれば可能なのか? と感じたときに、読者のイメージ化作用が遮断される。それがカフカの言葉なのだ。
 ソルディーニがいかに人を信用しない人間かという説明もこれと同じなのだ。信用というのは複数の機会にまたがって持続するもののことであって、機会が替わるたびに無になったらそれは信用とは言わない。ソルディーニがいかに人を信用しないかということを説明するためにカフカは、言葉の向こうに具体的な像が構成されない言葉の用法を使っているのだ。
 私たちは言葉の真偽を、現実の事象と対応するかしないかないしイメージを構築できるかできないかで判断することを通例としているが、言葉は原理としては言葉だけで運動しうる。それがゼノンの論法のように言葉に先立って明確にイメージできる事象と組み合わされたときにはパラドックスになるが、カフカの場合には言葉だけがそこに提示される。しかもいっそう始末の悪いことには、カフカはありふれた、私たちがよく知っていると思っている事象をその言葉によって指し示す。そういう言葉の総体がKの目指す城なのだ。

 ソルディーニはまさに城そのものだ。だから村長はソルディーニからのしつこい追及に対して答えを失う。

わたしとしましては、ソルディーニの課になにか手落ちがあったのではないかと主張する勇気もなければ、そんなことを信じることもできなかったからです。(135ページ)

 このあたりから、村長の意に反して真実がぼろぼろと村長の口をついて出てくる。しかし村長は最後まで自分が真実をしゃべっていることに気がつかない。フロイト生前に『城』が出版され、このくだりをフロイトが読んでいたらさぞかしフロイトは喜んだのではないかと思うのだが、しかしフロイトは同時代の文学を読んでいただろうか? 『砂男』のE・T・A・ホフマンは一時代前の作家だ。同時代の小説を読むのは難しいことなのだ。
 ではラカンは? 意外なことに、私はラカンの本でカフカという言葉を目にした記憶がない。カフカがフロイトやラカンによって言及されていなかったとしたら、それは幸運というものではなかったかと思う。精神分析による読みはいま真理値が高すぎるために、かえって読みの拘束となってしまいかねない。
 村長はしゃべりつづける。

「測量師さん、ソルディーニはわたしの主張を考慮すれば、すくなくともこの件について他の諸課にも照会してみるくらいの気持になってもよかったはずだと、おそらくあなたは、こころのなかで彼を非難しておいでのことでしょう。しかし、そういうやりかたこそ、まちがっていたでしょう。わたしはね、この人物のことでは、たとえあなたのこころのなかであっても汚点を残しておきたくないのです。手落ちの可能性などまったく考慮に入れない、というのが伯爵府の執務上の原則なのです。この根本原則を正当化するものは、役所の組織がじつによくできているという事実です。また、決裁を非常に急がなくてはならないときにこそ、この原則が必要になるのです。ですから、ソルディーニとしては、他の課に照会するわけにはいかなかったのです。それに、かりに照会したところで、相手の課は、すぐに手落ちの可能性をさぐっているのだと気づいて、全然回答をしてこなかったでしょう」(135〜136ページ)

 同じ指摘の繰り返しになってしまうが、傍線の論理は転倒している。しかし村長にとって城は絶対なのだからこう考える以外に論理はありえない。
 しかし、「手落ちの可能性」を考慮に入れない組織に属する人たちが、「手落ちの可能性」をさぐっているのだと気づくことなどありうるだろうか? 村長はこうしてべらべら真実をしゃべっているのだが……、城に関わる者たちにとって真偽の決定はやっぱりそれほど単純なことではない。
『掟の門前』というあの短い話を思い出す。『掟の門前』は単体で『田舎医者』に収録され、そのまま同じ形で『審判』の大聖堂で僧がヨーゼフ・Kに向かってしゃべる話としても使われている。田舎から男が出てきて掟の中に入ろうとするがそこには門番が立っていて入れてもらえない、というあの話だ。一つ目の門を通り抜けたとしても二つ目の門があってそこにも門番が立っている。門番は奥にいくほど大きくいかめしくなり、一つ目の門番でさえ三つ目の門番の前に立つだけでびびりあがって目もあげられないくらいだ。門はいったいいくつつづくのか誰も知らない。
 門番は、外からくる者に対しては門の内側の人間だが、次の門に対しては門番もまた門の外の人間でしかない。村長もまた城に対して同じで、村長は一つ目の門の門番なのだ。

「たいへん手きびしいことをおっしゃいますな。ですが、その手きびしさを千倍になさっても、当局がみずからにむけている厳格さにくらべたら、とてもものの数にもはいらないでしょう。そういう質問をなさるのは、よそ者でいらっしゃる証拠です。監視機関はあるのかとおたずねですが、じつは、あるのは監視機関ばかりなのです。むろん、そういう役所は、ふつうの意味でのミスや手落ちをさがしだすことが目的じゃありません。というのは、間違いなど、起こりっこないからです。それでも、あなたの場合のような手落ちがあったとしても、いったい、それが手落ちであるなどとだれがはっきり断言できるでしょうか」
「そういうご意見は、まったく初めて耳にしましたよ」と、Kは、叫んだ。
「なに、ごくありふれた考えですよ。手落ちがあったと信じている点じゃ、わたしもあなたもたいしてちがわないのです。ソルディーニも、そのことで絶望して重い病気になったほどです。間違いの由来をつきとめてくれた最初の監督局も、この場合はミスであったと認めているのです。しかしですな、第二の監督局もおなじように判断し、さらに第三、第四以下の監督局もおなじように判断してくれると、だれが主張できましょうか」(136〜137ページ)

 前の引用からこの引用にいたるくだりは『城』全体を通しても白眉だと思う。
 前の引用の波線部も含めて、三カ所の波線部の論法がまさしく「アキレスと亀」なのだ。一つの反論・疑問・指摘を受けて、それに勢いを得たかのようにして話がどんどん膨らんでゆく。反論・疑問・指摘に対する返答というのはふつう注のようなもので、コンパクトに収まるはずなのだが、村長の話は細部と予断されるものが本筋を食うほどに広がってゆく。
 村長はついにいともあっさりと「手落ちがあった」と、それまで可能性としてとどめてその可能性の次元でさえ否定していたことを、現実の次元で肯定してしまう。しかしそれは一時のことだ。手落ちはソルディーニさえも認めたが、第二、第三、第四以下いくつもつづいていく監督局が認めないかぎり、判断は確定しない。つまりここで原理として真偽は存在しない。シナの長城≠ヘ空間において果てしないが城の組織は構造において果てしない。そして、真偽の決定ということに対して全員が「よそ者」になる。
 この村長の発言に対してKは、「わたしという人間、現実に存在している人間のことです。」(137ページ)と反論する。自分という現実≠起点としてしゃべることができる分だけ、Kは『城』という作品の中でひとりだけ一段階上の「よそ者」ということになる。そして、こういう言葉に行きあたると、社会保険庁に対して年金払い込みの消えた記録について戦いつづけている人がいる現実をまさに連想してしまうわけなのだが、しかしどうなのだろうか。『城』という作品をこうして読んできていると、Kは本当に主人公と言えるのだろうか?
 たとえば『掟の門前』で主人公の位置にいるのは、門の中に入れない田舎から出てきた男だろうか? そうではなく、この話の中心にあるのは掟(というシステム)の方だろう。『シナの長城』になればいよいよ「誰」と名指すことのできる人間の主人公は見つけられない。「わたし」という語り手はいるが、語り手が主人公とはかぎらない。たいした長さでもないのに複雑で記憶しにくいこの話の中心にあるのは、前半は長城ないし長城建設のプロセスなのだが、途中から話は長城建設の指導部についての考察になり(これがまた城の行政機関のエッセンスなのだ)、つづいて皇帝なるものの考察に移ってゆく。
 Kは城というのがどういうことなのかを読者が知らされるための媒介にすぎないのではないか? 主人公をKだと思っているかぎりにおいて、「現代人の根源的な不安」とか「ユダヤ民族の苦悩」という風なことを言いたくなるのも人情として仕方ないということにもなるが、Kをいわゆる主人公とは別の機能と考えれば読者はもっと城についての言説に注意を向けることができる。
 それは一見、まさしく「城とは何か?」「城は何を意味するのか?」という問いに向かうように思われるだろうが、城についての言説に注意を向けることは、「城とは何か?」という問いが解体される地点に読者を連れていく、というのが私の予想だ。「城とは何か?」が解体されたらいったい何が残るというのか? もっとずっと重要――「重要」という言葉がふさわしいかわからないが――なことが、残るのではなく、立ち上がってくるはずなのだ。


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