『城』は半分以上のページがKと誰かとの対話によって成り立っている。『城』は主人公のKが城にたどりつきたいのにたどり着けないという話だが、Kが空間として存在する城を目指す部分は第一章の、到着した翌日ぐらいのもので、それ以降は城にまつわる話をKが聞かされることに終始するといってもいい。(以下、章立てはすべて新潮文庫版『城』に準ずる。)
対話の箇所と相手を書き出すと、
第四章 橋屋のお内儀[かみ]
第五章 村長
第六章 橋屋のお内儀
第七章 小学校教師
第九章 在村秘書モームス
第十三章 ハンス・ブルンスウィック少年
フリーダ
第十五章 オルガ(バルナバスの姉)
第十六章 イェレミーアス(助手の片方)
第十八章 フリーダ
秘書のビュルゲル
第二十章 ペーピー(フリーダの後釜の女中)
一つの対話が文庫でだいたい二十ページをこえて、「長い」という印象がしっかり残っているものは太字にした。
こうして具体的に書き出してみると案外少ないように見えなくもないが、たとえば長い対話のない第十四章は十八ページしかないのに対してほぼ全篇オルガがしゃべる第十五章は百二十三ページもある。……などという、数字による証拠立てをしてみても意味がなく、小説とは読者に与える印象だ。印象の中では『城』は取っ替え引っ替えつづく長い対話によって構成されている小説であり、対話から対話へと移る繋ぎの場面がどういう風になっていたか思い出すのが難しいくらいだ。
しかし対話と対話の繋ぎの場面もそれなりにいろいろあるわけで、それを逐一思い出すことができないということも、前回書いた「『城』は憶えられない」という感想の原因のひとつにもなっている。
私は『城』をここ十年以内に五回か六回通読したけれど、今回読んでみるとほとんどのことを忘れている。私は小説の筋を憶えるのが苦手だという自信も確信も持っているが、この憶えられなさはただごとではない。『城』をごく最近通読した人にしても、さっき列挙した会話の人物や内容をどれだけ憶えているだろうか? ほとんどスカスカなんじゃないだろうか。
しかし前回書いてみて、書くために部分的に抜き出してしつこく読んだところだけは憶えることができた。いつまで憶えていられるかわからないが少なくとも約二カ月たった今はその部分にかぎりちゃんと憶えている。『城』という小説は一度解体して、小説の中にある連関を自分なりに見つけ出していかないと憶えることができないようになっているのではないかと思うのだ。
カフカのノートに遺された断片に『シナの長城』というのがある。断片の中ではかなり有名で、断片というよりも完成した短篇として読めるし、以前からそう読まれてきた。その冒頭に長城建設の大ざっぱなプロセスが書いてある。
万里の長城は、その最北部においてようやく完成した。工事は、南東部と南西部から同時にはじめられ、最北部でひとつにつながったのである。この分割工事の方式は、東部隊および西部隊という二大集団のあいだだけでなく、それぞれの内部においても小さく区切って実地された。すなわち、個々の作業班は、約二十名の労働者によって編成され、各班は、約五〇〇メートルの部分壁をきずいていき、その隣接班は、反対側からおなじく五〇〇メートルの築城をすすめていくという具合であった。しかし、両班の連結が成就しても、こうしてできあがった一〇〇〇メートルの城壁の端からまたつぎの工事がはじめられるのではなく、それぞれの作業班は、またべつの土地に派遣されて、あらたな築城工事に従事するのであった。当然のことながら、こうしたやりかたでは、あちこちに未着工のままの欠落部分が生じるわけで、あとからそういう穴をだんだんに埋めていかなくてはならなかった。なかには、築城工事が完成したという布告が出てからやっと着工された部分すらいくつかあった。それどころか、歯抜け状態のままいまだに埋められていない部分も残っているということだ。もちろん、この噂もたぶん長城建設にまつわるおびただしい伝説のひとつにすぎないとおもわれる。こうした伝説の真偽のほどはなにしろあまりにも広大な範囲にわたる工事であったから、すくなくとも個々の人間にとっては、自分の眼と尺度で確かめてみるというわけにはいかないのである。(前田敬作役、決定版カフカ全集2、新潮社)
いや、たんに長城建設のプロセスだけでなく、この短篇は『城』と響き合うところがひじょうに多く、『城』のいくつかの側面のエッセンスのように読めなくもないのだが、それは破線部に書いてあるように「おびただしい伝説のひとつにすぎない」ということになるのかもしれない。
傍線部にあるように、長城は五百メートル×2の千メートルずつに分割して造られていった。『城』という長大な小説を読むためには、長城建設と同じ分割工事方式が必要ではないかと思うのだ。それはカフカの指示でもある(嘘!)。そして、この引用部分にはもうひとつ、ひじょうに大事なことが書いてあるのだが、それは後でその時がきたらふれることにする。
対話の中で、初読時以来、一番印象に残っているのは村長との対話だ。
前回書いたように村長と対話するまでKは、留保つきではあるにせよ城との交渉をあんまり難しいことだとは考えていなかった。村長との対話の前に、Kは橋屋のお内儀[かみ]から長い話を聞かされはするが、フリーダと長官クラムに限定された話で、城全体に対するイメージはお内儀の話からは生まれない。しかし、村長の発言によって城は一気に複雑な感じになってくる。
村長の語る内容もそうだが、村長の語り方が数倍も複雑なのだ。村長の話は大きく分けると、(A)測量師の招聘[しょうへい]に関わる問題、(B)城の行政機構についての説明、の二つに分かれ、Kの質問・反論を村長は次々に論破したり脱臼させたりしてゆく。『城』を読む楽しみや驚きは、村長をはじめとする対話によって駆使される論法を音楽を聴くようにたどってゆくことだ。
まず、Kの発言に対する村長の返答を並べてみる。
「お気の毒ながら、そうじゃありませんな」
「それは、別個の問題ですな」
「いや、ここでは、でたらめなことは、なにひとつおこなわれていません」
「あなたの招聘のことも、十分に考慮した上でのことだったのです。」
「いや、わかりかけてきたなどとおっしゃるが、まだちっともわかっていらっしゃらんのです」
「たいへん手きびしいことをおっしゃいますな。ですが、その手きびしさを千倍になさっても、当局がみずからにむけている厳格さにくらべたら、とてもものの数にもはいらないでしょう。」
「なに、ごくありふれた考えですよ。」
「それもお話ししましょう。しかし、そのまえにまず二、三のことを説明しておかないと、ご理解いただけないとおもいます」
「いや、あなたの問題は、重大な事件ではありません。」
「わたしとしては、自分の考えをあなたに押しつけるつもりはありません。」
「いや、それは、誤解というものです。」
「それは、しごく簡単なことです。」
「そうじゃないのです」
「あなたのお考えのなかには、ある種の真実がふくまれています」
「だれがあなたをおはらい箱にするなどと言いましたか」
こういうなんともしたたかな返答を村長はベッドに寝たままつづける。
村長は、親切な、よくふとった、ひげをきれいに剃った男であったが、病気でひどい痛風の発作のために、ベッドでKを迎えた。(123ページ)
ここで、痛風というのが曲者だ。現在の医学では原因がもっとしっかり特定されているかもしれないが、長いこと痛風は贅沢な食生活が原因とされていて、帝王病≠ニいう異名もあった。病気というのは歴史的にイメージが変化しているもので、現在のわりと一様な病気のイメージとは違って、多くの病気の治療法がわかっていなかった時代には、ある種の病気が、ステイタスの記号だったり、怠ける方便だったりもした。母の田舎などでは「肋膜[ろくまく]六年」と言われて、肋膜炎つまり結核にかかると仕事をせずに何年もぶらぶらしていることがふつうだったらしく、「肋膜六年」には怠け者という意味もこめられていた。
「あのおじさんは若い頃に肋膜をやったから、一生、肋膜六年の癖が抜けなかった。」
などと、母は今でも言う。ちなみに同郷の深沢七郎も肋膜炎の経験者だったはずで、エッセイで「肋膜六年」という言葉を読んだ記憶もある。
痛風も仕事を休んだり会合に出なかったりする口実に使われていた病気のひとつで、村長の、
「測量師さん、あなたもおっしゃったように、わたしは、この件をなにからなにまで承知しております。これまでこちらからなにもしようとしなかった理由は、ひとつには病気のせいでしてな。」(124ページ)
という言葉も怪しい。
カフカの時代にはすでに無声映画があり、『カフカとの対話』(グスタフ・ヤノーホ著)の中でカフカはヤノーホ少年に、「『巨人ゴーレム』(パウル・ヴェゲナー監督、一九二〇年)は見たか? あの映画にはユダヤ人ゲットーがしっかり描かれている」という意味のことを言っているし、『カフカ、映画に行く』(ハンス・ツィシュラー著)という評論集もあるくらいで、カフカは映画を見ている。日記には芝居を観に行く記述もよくある。
この村長の場面をカフカは芝居の、ある種ドタバタ喜劇をイメージしながら書いたんじゃないだろうか。「病気なもんで……」「病気だから……」と言いながら、太って一色のいい男がベッドでしゃべりつづけるのを見ながら、観客は、
「こいつ、全然病気じゃねーじゃん。」
と言って笑う。対話の終わりに近づくと、「ミッツィ夫人は、こちらへやってきて、ベッドの縁に腰をかけ、大きな、元気にあふれた良人に身をすり寄せると、」(147ページ)という描写までもある。この場面は、ただ言葉の意味を追うよりも村長の姿を思い浮かべながら読む方がずっと楽しい。
他にも、書類が入っている戸棚を開けると薪[たきぎ]のように丸く束ねられた書類の束が転がり落ちてきて村長の妻のミッツィが飛びのき、それからまた戸棚の前に戻って書類をどんどん出しているうちに部屋の半分が書類でうずまってしまうところ(126〜127ページ)とか、書類の整理に二人組が加わり、一人がそれに書かれた言葉をゆっくり読んでいるともう一人がそれを横から引ったくるところ(129ページ)などなど、ドタバタ喜劇をイメージしながらカフカが書いたと考える方がわかりやすい。
それで読者が笑わないにしても、読者はこの部分の馬鹿気た感じを味わうことになる。センテンスが変わると次に何が起こるか予想がつかないということは前回も書いたことだが、このセンテンスの特性の使い方は、同じ一つの舞台の上に助手とミッツィが登場しつづける芝居よりも、カットによって見る対象をガラッと変えてしまう映画の方がずっと近いだろう。
私がここで「ドタバタ喜劇をイメージしながらカフカが書いた」と書くときに、私は「だからそう読まなければいけない」と言っているわけではない。
作者本人がいくらドタバタ喜劇をイメージして書いたとしても、現実に書かれた小説がそうなっていなかったら、結局そうなっていることにはならない。しかしカフカの場合、事情が違う。カフカを読む以前に、たいていの読者は、「現代人の疎外された姿」とか「人間存在の不安(または不条理)」というような深刻な小説という先入観を持って読み出してしまうために、カフカがドタバタ喜劇をイメージして書いていたとしても読者がそれを見逃してしまうのだ。意味という抽象的なことにばかり気をとられているために、目の前で起こっている具体的なことに注意が向かない心理状態に誘導されてしまっているということだ。だからその先入観を否定して、できるだけ真っさらな状態で読めるようにするために、いろいろな可能性を考えなければならない。私の読み方はその一つにすぎない。
しかしここでカフカの場合もう一つ問題が出てくる。「この部分は本当にカフカが書いたのか? マックス・ブロートによる改変ではないのか?」というアレだ。マックス・ブロートによる改変という可能性を孕むことによって、カフカ本人の書いたこと、さらにはカフカ本人の意図が過大評価され、ひいては正典化されてそれが硬直化して、「カフカが書いたことは正しいが、改変部分は正しくない」という錯覚を生むことになる。
しかし、世界に流通し、世界が受容したテキストは、ブロートの手を経たものなのだ。『城』の手稿を精査してみるとブロートによる改変は「意外に少ない」とか「ほとんどない」と言われるようになったが、そういうことを言う以前に、五十年間ぐらい『城』は最初の形で読まれつづけた。
私はカフカの手稿を見たわけでもないし、見たところで一語たりとも読めない。だから、手稿の持っている力とか雰囲気とか説得力のようなものはわからないから、自説を断固として主張したいなどとは思っていないが、手稿=第一稿であるかぎり、『城』がもしカフカ自身によって出版されていたとしたら、カフカ自身による手直しが入っていただろう。つまり、すごく雑な式であらわすと、
手稿+ブロートによる手直し=いままでの『城』
手稿+カフカによる手直し=カフカによって出版された『城』
ということになる。
ここで、〈ブロートによる手直し〉と〈カフカによる手直し〉が同じではないことが問題となり、そのために手稿が正典化されてしまうわけなのだが、カフカが生きていて手稿に手を入れることができたとしても、〈手稿に手を入れるカフカ〉は個人としてのカフカではない。
いちおう完成した手稿がある場合、それに手を入れるとしてもその主導権は、カフカにあるのではなく手稿の方にあるのだ。手稿は『城』を書き出す前のカフカの意図をこえているということだ。「だからこそ手稿が重要になる」のだが、手稿の使い方として「手稿からカフカの真意を探る」という、手稿の向こうにカフカの確固たる意図があるかのような考え方をしたらそれは間違っている。カフカの意図よりも現に書かれた手稿の方が強いのだから。
手稿=第一稿があるかぎり、手稿=主、作者=従という関係になる。だからさっきの式の〈カフカによる手直し〉の項は言い換えると、〈手稿が要請する手直し〉ということになる。マックス・ブロートによるカフカへの心酔を考えた場合、〈ブロートによる手直し〉もまた〈手稿が要請する手直し〉にかぎりなく近づく。だから私は、カフカの遺した手稿が〈ブロートによる手直し〉を経たいままでの『城』に劣るとは思わない。
ところで、「ドタバタ喜劇をイメージしながらカフカが書いた」という話は手稿の問題とは別なのだ。手稿によってカフカ本人の意図が正典化されるうんぬん……によって私はつい手稿問題それ自体を問題にしているように書いてしまったのだが、私が「カフカが書いた」と書いているときの「カフカ≠ニは何のことか?」を私は言いたかったのだ。「作者≠ニは何のことか?」ということだ。
作者≠ニいうのは、机の前に座って原稿を書いている物理的に目に見えるその人のことではない。経験や記憶や浮かんでくるイメージを、すでに書かれた原稿の中にある言葉やイメージの運動に沿って、原稿に注入してゆく媒介のようなもののことだ。そして原稿が書かれてしまえば作者というのは、原稿の向こうの想像上の遠近法の消失点のようなものとなる。ここで私は作者のことをただ「消失点」に限定してそこだけを指しているのではなく、原稿を込みにしたうえで「原稿の向こうの想像上の遠近法の消失点」と言いたいのだ。
いや、どうせイメージだからこんな言い方できちんと伝わるとは思っていないし、自分の中でも整理しきれていないことがいろいろあるのだが、とにかく小説における作者≠ニかカフカ≠ニいう存在は、いま書いている原稿を離れて、あれも考えているこれも考えているというその人のことではない。
だから「ドタバタ喜劇をイメージしながらカフカが書いた」というときのカフカとは、その日職場に行ったりあるいは結核のために寝ていたりしたカフカその人のことではない。「ここにこういうことが書いてある、それをいま書いている状態」のことだ。
それなら読者の恣意性に委ねられてしまう? とんでもない。
さっき、手稿にまつわる式を私が書いたのも、そこに恣意性が入り込む余地がないことを言いたかったからだ。一回や二回通読して『城』のことを書こうと思うならともかく、五回六回七回と通読して、しかもこうして書くためにまた一つの章を三回四回と読んで、そこから関連している人物や項目を他の章に飛んで読んだりしていたら、もう恣意性が入り込む余地などない。私が「カフカ」と書くときのカフカとは、そういう前提での「原稿の向こうの想像上の遠近法の消失点」であり、「ここにこういうことが書いてある、それをいま書いている状態」のことだ。
そのような言い方はどれだけ言葉を尽くしても科学的な客観性を生み出さず、科学的な論証しか信頼しない人を説得できないが、芸術とはその本性において内からの視線しか持ちえない。芸術とは内側の視線の力を信じて、それをひたすら実践することなのだ。
村長の場面に戻る。
村長はKとの対話のあいだずうっとベッドの中にいたまま、測量師招聘の経緯をしゃべる。少し長くなるかもしれないが大事なことなので、ひと通りたどることにする。
二九二ページの引用のつづきになるが、村長はこう切り出す。
第二に、あなたが長いことお見えにならなかったためです。こちらでは、てっきりあなたはこの仕事から手をお引きになったものと考えていたほどですよ。だが、こうして親しくお訪ねくださった以上は、不愉快なことですが、事実をつつみかくさず申し上げなくちゃならん。(124ページ)
「長いことお見えにならなかった」って言ったって、まだ四日目だ。到着が一日目の夜で、クラム長官からの手紙を受け取ったのが二日目の夕方で、そこに村長の指示に従えということが書いてあった。
もっとも二日目の夜をフリーダと過ごしてしまったためにKは三日目をほとんど丸々眠ってしまった。つまり無駄にした。
「翌朝、非常にさわやかな気分になってついにベッドを出たときには、Kがこの村に逗留してからすでに4日目になっていた。」(94ページ)
と、カフカ自身も「すでに」という表現を使って書いているのだからKは村長と地の文の両方から責められていることになる。ひとつにはフリーダと寝てしまったKのだらしなさ、もうひとつはクラム長官が村長の指示に従えと指示したのにもかかわらず二日目の夜に使いのバルナバスについて城に行こうとしたことに対しての責めではないか。二日目の夜にKが城に行こうなどと思わなかったら、Kは三日目に村長を訪ねることができていた。
そのような事情を考慮しても、村長の「長いこと」はふかしつまり先制パンチだ。会いに来る日がたった一日延びただけで、「この仕事から手をお引きになったものと考えていた」と言い、「不愉快なことですが」という一言をわざわざつけ加えたりもしている。カフカは――つまり『城』というテキストは――、本当に隅から隅まで周到に書いてあると、こういうところで感心する。だから私は『城』を読んでいると傍線だらけになってしまい、傍線を引いていない箇所は読みそびれているんじゃないかと感じてしまうのだ。
さて、村長は「わたしたちは、測量師など必要としていない」(124ページ)と言う。それなのにどうしてKが招聘されてしまったのか? 城の行政機関と村とのあいだに連絡の行き違いがあったからだ。
そのような行き違いは、「伯爵府のような大きな官庁では、…(略)…えてして起りやすい」が、「重要な事柄でミスが起ったことは、まだ一度もありません」。
「小さな混乱は、よく起りがち」だ。むろんKの場合も「ごく些細なこと」だ。「些細なことでは、よく手を焼かされ」(以上125ページ)る。
と、村長は測量師招聘問題の小ささを強調する。この小ささの強調はしばらく先にも現れる。
「…(略)…どんな小さなことにでも、きわめて重要な事柄にたいするのとおなじような細心の注意をはらうのです」
「村長さん、あなたは、たえずわたしの事件をごく小さな問題のひとつのようにおっしゃいますが、…(略)…」
「いや、あなたの問題は、重大な事件ではありません。…(略)…これは、小さな事件のなかでも最も些細なことのひとつです。事件が重大であるかどうかは、それに要する仕事の多寡[たか]によってきまるものではありません。…(略)…しかし、かりに仕事の多寡が問題になるとしましても、あなたの場合は、まったく微々たるものでしてね、…(略)…」(139ページ)
Kの問題は小さな問題ではない。それは村長の発言がじゅうぶんに証明している。しかし村長は問題が大きなことを承知していながら「小さい」と、意識的に嘘をついているわけではない。そう解釈してしまったらカフカではなくなってしまう。
私は村長との対話について書いたら次に終わりちかくにある秘書のビュルゲルとの対話について書く予定なのだが、村長の思考様式はビュルゲルにおいてもっと鮮明にあらわれる。先取りになってしまうが(長城建設の分割工事方式はこうして随所であらわれる)、ビュルゲルは目の前にKという陳情者が現実にいるのにもかかわらず、ずうっと「もしここにそういう陳情者がいるとしたら」という仮定か可能性レベルの話し方をする。
ビュルゲルも村長も意識して嘘をついているのではない。わかりやすく言えば、そう思い込もうとしている。目の前にある現実を受け入れたくないがために、見えているはずなのに見えていないかのようにしゃべっているということだ。
V・S・ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』に書いてあった「盲視」という症例を思い出す。その患者は自分が失明したという現実を受け入れることができず、「私は見えています」と頑固に主張し、医者がネクタイをしていて、そのネクタイがどんな柄かということまで説明する(ただし、その説明が合っているかどうかまでは書かれていなかったと思う)。
思い込みというのはそれほど強いもので、強烈に方向付けされた心理状態にある人は、誰から見ても一目瞭然、明々白々のことを認めないどころか本当にそれが見えていないのだが、しかし言語に対するカフカのイメージを考慮に入れると、「そう思い込もうとしている」のだという解釈はまだ弱い。
そう思い込もうとしているのであるかぎり、その人の言葉(ないし認識)の外に客観的な現実があるということになる。現実は言葉で示しうるけれど、認めたくないなどの原因によって違う風に語ってしまう、ということだ。
そこで今回の導入に使った『シナの長城』の一節が助けになる。破線を引いた「長城建設にまつわるおびただしい伝説のひとつにすぎない」の文につづく、
「こうした伝説の真偽のほどは、なにしろあまりにも広大な範囲にわたる工事であったから、すくなくとも個々の人間にとっては、自分の眼と尺度で確かめてみるというわけにはいかないのである。」
という文だ。ここで伝説の真偽のほどを確かめることができない理由は、文の構造からみれば工事の範囲が広大だからということになるが、真偽のほどを確かめられない理由は工事の範囲(事実)の広大さと伝説(言葉)の数のおびただしさの両方にある。
村長は(当然ビュルゲルも)、おびただしい言葉(書類)の中で生きているから、何が大きな問題で何が小さな問題なのか、というようなことの判断を自分の目や思考力でできるなどと思っていないのだ。つまり、現実は言葉で示しえない。言葉で示しうる現実なんてものはない。
村長はたしかに舌先三寸の人間だ。それは否定できない。私が今回の最初に書き出したKと長い対話をする人物は、村長と秘書のビュルゲル以外はKにある真実を伝えようとしているのだが――しかしそれが真実であったり真実が伝わりうるものであったりするならKは苦労しない――、村長とビュルゲルは真実を話さず、ただKを煙に巻くつもりでしゃべりつづけているようにしか見えない。しかし、村長もビュルゲルも彼らの気持ちとしては、真実を誠実に語ろうとしている。「真実」とか「誠実」という言葉が彼らにあてはまるとすればの話だが。彼らは嘘を意識してしゃべっているわけではない。彼らの生きている言葉それ自体が、「真偽」が決定できない――「真偽」がそもそも存在しない――言葉なのだ。
対話の終わりちかくで、村長は、
「あなたの招聘問題はずいぶんやっかいな問題で、」(153ページ)
と言う。個々で、村長の本音が出たと解釈するべきではない。もし本音がうっかり口をついて出たのだとしたら、村長はここで動揺するだろう。しかし村長はふつうにしゃべりつづける。これよりずっと前に戻って、対話の途中、ブルンスウィックの話題が出たついでにKが彼の妻のことにまで話を広げたところで、村長はこう描かれている。
「そう、その男です」
「彼の奥さんも知っていますよ」Kは、いくらか当てずっぽうに言った。
「そうでしょうね」村長は、それだけ言って、あとはだまってしまった。
「美しい奥さんですね」と、Kは言った。「でも、少し血色がわるくて、病身のようです。あの奥さんは、どうやら城の出のようですね」この最後の言葉は、なかば質問であった。
村長は、時計をみると、匙[さじ]に薬を入れて、あわててのみこんだ。
「あなたは、城のことは役所の機構しかご存じないようですな」と、Kは、ぶっきらぼうに言った。
「そのとおりです」と、村長は、皮肉な、それでいてうれしそうな微笑をうかべて、「実際、それがいちばん大事なことですからね。(以下略)」(141ページ)
村長があわてた理由は、話に熱中して服薬の時刻に遅れてしまったからではない。薬の前に、Kに「彼の奥さんも知っていますよ」と言われたときにすでに尊重は動揺して、それまでの饒舌が途絶えてしまっている。ブルンスウィックの妻はKが二日目の朝に城を目指して村を歩いて、疲れて休ませてもらうために入った家の中で登場している。そこで彼女が「お城の娘です」(31ページ)と、軽蔑したように答えている。村長のここでの反応には、そういう村と城との関係が反映している。そのためにわざとこのタイミングで村長に薬の時間を思い出させたのだ。
村長は決して感情を面[おもて]に出さない鉄面皮ではない。だからKの話題が「お城の娘」から役所の機構に戻ると、うれしそうな微笑がつい出てしまい、しかも同時に、村と城との複雑な関係の入口まで来て逸れてしまったKに対して皮肉な微笑までついうかべてしまう。
元の引用に戻って、「厄介な問題」という言葉を口にしてしまっても村長は動揺せずにしゃべりつづける。ここで彼は自分が意識せずに真実を語ったことに気づいていないのだ。
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